第38話 平地の歩度
審査室での面談を終えた翌朝、俺はアパートのベランダで山着を干していた。
五月の風は乾いていて、脱水にかけた化繊の長袖シャツは、手で皺を伸ばすそばから湿り気を失っていく。隣には撥水処理をやり直した雨具と、泥を落として陰干しにした背負子の背当てを並べた。
入山手形が止まっているため、今日の予定は完全に白紙だった。普段なら朝五時に起きて裏高尾の関へ向かい、六十キロの建材を担いで山道を登っている時間だ。
身体を休めるための時間はいくらでもあった。
だが、畳の上に戻っても、腰を落ち着けてじっとしていることがどうしてもできなかった。
座卓の上に置いたノートを開き、ボールペンで数字を書き出していく。
整形外科の診察と画像検査、湿布と消炎鎮痛剤で、合わせて五千四百円。戸隠への往復交通費と現地の宿代が約四万円。流れた裏高尾の日当が九万五千円。そして今夜、四国へ前乗りするための新幹線と特急の指定席代が約二万円。
「……差し引き、マイナス十六万強か」
小さく呟き、電卓の画面をクリアした。
歩荷の稼ぎが止まった痛手は確かにあるが、今すぐ貯金が底をつくわけではない。
戸隠用に補充した札は、帰路用も含めて手つかずのまま残っている。
使い込んだ小刀も鞘から抜き、刃先を確かめた。鈍ったところだけ砥石を当て、汗で硬くなった鞘の留め紐を替える。絡んだ荷紐を切りたいときに抜けなければ、刃があっても役に立たない。
刃を掌の横に並べて長さを見る。戸隠では、片桐班の山素材の穂先が烏天狗を退けた。あの間合いへ、この小刀を持って踏み込む気にはなれない。荷を扱うには足りている。それと、山のものへ届くかどうかは別だった。
帳面の端に「刃」と書きかけ、線を引いた。手形が戻るかも分からないうちに買うものではない。次に山へ入れたら、どこで道具に助けられ、どこから身体だけで埋めているのかを見ておこう。
右肩をゆっくり回してみる。昨日、審査事務所の前で宮坂さんに確認してもらった通り、腕を上げるときの引っかかりは消えていた。
だが、鎖骨の奥と僧帽筋の付け根には、指で強く圧迫すると鈍い重さが残っている。治ったわけではない。六十キロの背負子を担げば、確実に痛みが戻る。
玄関の土間に目をやると、白い毛並みの獣が丸くなって寝息を立てていた。カゲだ。
朝、俺が食べた冷や飯の残りに、茹でた鶏胸肉の端切れを混ぜてやると、器を綺麗になめてから土間へ戻っていった。
普通の飯を食うが、それで傷が癒えるわけでも、新しい力が目覚めるわけでもない。右の前脚に巻かれた細い黒い輪も、太りも薄れもしていなかった。
部屋の中にいる限り、ただの白い狼にしか見えない。
時計を見ると、午前十一時を回っていた。
俺は十キロほどの装備を詰めたサブザックを背負い、部屋の鍵を閉めて外に出た。今日必要なのは激しい訓練ではなく、明日の検証に使う道具の最終確認と、腹ごしらえだった。
高尾山口駅から参道へ向かう道は、平日の昼前だというのに観光客や軽装のハイカーで行き交っていた。ケーブルカー乗り場の手前、蕎麦屋や土産物店が並ぶ一角に、古い瓦屋根の茶屋「みさか屋」がある。
縄のれんをくぐると、ほうじ茶の香ばしい匂いと出汁の湯気が立ち込めていた。
「いらっしゃいませ――あ、沢渡さん」
上がり框の奥から、山稼ぎ見習いの遼がエプロン姿で顔を出した。手に持った布巾で湯呑みを拭きながら、人懐っこい目でこちらを見る。
「浅井さん、店番ですか」
「はい。奥の座敷がちょうど一組引いたところです。どうぞ」
土間のテーブル席では、年配の夫婦がとろろ蕎麦をすすっていた。奥の厨房から、急須に湯を注ぐ鋭い音が響く。
現れたのは宮坂さんだった。山での服ではなく、紺色の作務衣に白い前掛けを締め、髪を後ろで一つに束ねている。
「沢渡さん、早かったですね」
声の調子は山と変わらない。愛想笑いを浮かべるわけでもなく、客席全体の湯呑みの減り具合と、出入り口の足元へ同時に視線を配っている。
「そこの端の卓へ荷物を置いてください。……肩はどうですか」
「悪くはなっていません。電車の中でも座れました」
「ならいいです。遼くん、二番卓の膳を下げて。沢渡さんはそこに座っていてください」
「手伝います。膳くらい運べます」
俺が立ち上がろうとすると、宮坂さんは持っていた盆を身体の陰へすっと引いた。
「運ばなくて結構です。客の膳は片手で水平を保つから、無意識に僧帽筋へ力が入ります」
宮坂さんは、棚にある乾いた湯呑みを示した。
「手伝うなら、それを布巾で拭いて、十個ずつ重ねておいてください。座ったまま、肘を机につけてできますから」
「……了解」
病人扱いして完全に手を引かせるでもなく、無駄な負荷を避けて作業を割り振る。山で隊列を組むときと同じ、宮坂さんらしい差配だった。
俺は言われた通りに椅子へ座り直し、番茶用の厚手の湯呑みを布巾で磨き始めた。
宮坂さんは無駄のない足さばきで厨房と座敷を往復し、客の会計を済ませ、テーブルを拭き上げていく。遼がその後ろをついて回り、下げられた丼を洗い場へ運んでいた。
十二時半を過ぎると、昼の客足が潮のように引いた。
宮坂さんが入り口の暖簾を半分巻き上げ、「準備中」の木札を掛ける。
「上がりましょう。昼にします」
奥の小上がりに三人で車座になった。土間には、いつの間にかついてきていたカゲが静かに伏せている。
宮坂さんは小鉢に冷ました白米と、出汁を取ったあとの鶏ささみを細かく裂いて入れ、土間の隅へ置いた。カゲは音も立てずにそれをつつき始めた。
卓の上に並んだのは、山菜を炊き込んだご飯と、根菜の味噌汁、それに少し形の崩れた玉子焼きだった。
「いただきます」
箸を取って味噌汁をすする。熱い出汁が胃に染み渡った。
「沢渡さん、午前中はずっと部屋にいたんですか」
遼が麦茶を注ぎながら訊ねてきた。
「洗濯して、装備の撥水をやり直して、手持ちの札を数えていました」
「うわ、やっぱり。宮坂さんが言ってた通りだ。『あの人は山に入れない日でも、絶対部屋で電卓叩いて靴磨いてる』って」
「言わなくていいです、遼くん」
宮坂さんが淡々と玉子焼きを口に運んだ。
「ですが事実でしょう。休むというのは、身体の組織を元に戻すための行程です。勘定を合わせたり道具をいじったりして神経を尖らせていたら、休養の効率が落ちます」
「歩荷の性分です。動いてないと荷物のバランスが狂ったような気がして落ち着かない」
「仕事も手入れもない日には、何をしているんですか」
答えを探すあいだに、炊き込みご飯を三口食べた。
「歩きます」
「それは休みではありません」
「宮坂さんは?」
「店の用がなければ、本を読みます」
「山の本ですか」
「推理小説です」
それは少し意外だった。俺の顔に出たらしい。
「事件が起きても、私が止めに行く必要はありませんから」
宮坂さんは何でもないことのように味噌汁をすすった。遼が声を殺して笑い、俺も玉子焼きへ箸を伸ばした。
「山を降りている間くらい、平地の速度に戻してください。石鎚に入れば、嫌でも神経を削ることになります」
「宮坂さんだって、店にいるときも山と同じ顔ですよ」
遼が小声で口を挟んだ。
「注文が入る前から急須に手がかかってるし、客が箸を置いた瞬間に伝票が手元に来る。見ててこっちが緊張します」
「それは段取りです。お茶が冷める前に出して、待たせずに席を回す。山でも店でも、無駄な滞留を作らないのは同じでしょう」
宮坂さんは表情を変えずに言い切った。お茶の温度と出汁の煮詰まり具合に関しては、山での撤退判断と同じくらい妥協がない。
他愛のない会話の合間に、箸を動かす。怪異も験も出てこない、ただの平地の昼飯だった。
それでも、こうして三人で同じ卓を囲んでいると、朝から強張っていた背中の奥が少しずつ緩んでいく。
平地の速度に戻すという意味が、少しだけ分かった。
食事が終わると、遼が手際よく茶碗を重ねて洗い場へ持っていった。
宮坂さんが熱いほうじ茶を淹れ直してくれた。
しばらく、誰も石鎚の話をしなかった。
遼が洗い終えた茶碗を布巾の上へ伏せ、カゲは差し込んだ日向へ鼻先を置いて目を閉じる。表の参道を下る客の笑い声と、遠くのケーブルカーの音だけが土間へ届いていた。
俺も湯呑みを両手で包んだまま、電卓にも端末にも触れなかった。何もしない時間を休みと呼ぶなら、ようやく今日初めてそれらしいことをしている。
湯気が細くなるまで待ってから、胸ポケットの手帳を取り出した。
「夕方の新幹線で岡山まで出て、特急で伊予西条までですね」
「ええ。駅前で前泊して、明朝は始発のロープウェイに間に合うよう下谷駅へ向かいます」
宮坂さんが茶を一口すすり、言った。
「成就社側の関には九時半。沢渡さんは窓口で臨時手形を受け取ります。前にも確認した通り、それは今回の検証と点検帯同のためだけのものです」
「分かっています。通常手形の一時停止は解けていない。余計な自主登破はしないし、荷も点検用の軽いものだけです」
「結構です。……今日はもう、部屋に戻っても電卓を叩かないように」
「努力します」
湯呑みを空にして立ち上がると、カゲも同時に土間で身体を起こした。
店を出ると、五月の午後の日差しが参道の杉並木を明るく照らしていた。山へ入れない一日を終え、俺たちは四国の岩峰へ向けて歩き出した。




