第37話 記録の余白
受診から四日後。肩の奥にあった鉛のような重みは抜け、腕を真上に伸ばしても引きつるような痛みは走らなくなっていた。深呼吸しても背骨の脇は軋まない。
ただ、右肩を後ろへ引くと、皮膚の下に薄い張りが残った。無傷に戻ったわけではないが、日常の歩行で身体が傾くことはなかった。
午後一番、俺は都内にある資源庁の管区事務所前で宮坂さんと合流した。
宮坂さんは登山用のシャツにチノパンという実務的な服装で、手には十キロほどの装備が入った小さめのサブザックを持っていた。
「沢渡さん。歩き方を見せてください」
挨拶もそこそこに、宮坂さんは俺の全身へ視線を走らせた。
事務所前の緩やかなスロープを、俺は普段通りの歩幅で往復した。宮坂さんは横に回り込み、足の接地、骨盤の傾き、肩の上下動をじっと見つめている。
「首の引きつりは消えていますね。……これを」
宮坂さんがサブザックを差し出してきた。
俺は受け取り、両肩へ背負った。チェストストラップを留め、軽く膝を曲げて荷重を受け止める。十キロの重みが僧帽筋に乗るが、鋭い痛みは走らない。
「どうですか」
「問題ありません。骨盤で支えられています。検証用の軽い荷なら背負えます」
「分かりました。姿勢にぶれはありませんね。……行きましょう」
宮坂さんは頷き、ザックを受け取って事務所のエントランスへ歩き出した。二人隊として審査へ臨める状態かどうか、まずは現場の相棒として自分の目で確かめたのだ。
エレベーターで三階へ上がり、案内されたのは「第三審査室」と札の掛かった細長い会議室だった。
長机の中央に薄型モニターが置かれ、すでに片桐さんと、胸元に「審査課」の名札を下げた担当官が座っていた。片桐さんは作業服の上から腕章を外し、硬い表情で資料をめくっている。
「座ってください、沢渡さん、宮坂先達」
片桐さんが短く促した。
席に着くと、担当官が手元のキーボードを叩いた。モニターに、戸隠奥社から岩戸の広場に至る等高線図と、赤い折れ線グラフが表示される。
「本審査の趣旨は先日通知した通りです」
担当官は眼鏡の縁を直した。
「沢渡迅さんの手形一時停止について、事実関係の照合を行います。ここに表示しているのは、裏戸隠一九〇四の岩戸周辺で得た測量ログです」
画面のグラフを指しながら、担当官が時刻を読み上げる。
「主戦中から岩戸が止まるまでの記録です。十二時五十六分、岩戸周辺で急激な変位を観測。十三時六分、主の反応が消失。十三時十六分、内側からの開閉を最後に、岩戸の変位が止まりました。そして翌朝、関での帰着記録。沢渡さんと宮坂先達、片桐班の四人、合計六人の帰着を確認しています」
「客観データとしては、岩戸が動いた時刻と、反応が消えた時刻までですね」
俺が口を挟むと、担当官はモニターから目を離してこちらを見た。
「その通りです。そして問題は、それに先立つ立ち合いです。片桐監督官から提出された報告書を読み上げます」
担当官が紙の束の一頁を開いた。
『――主の打撃に対し、沢渡迅は接触面から身体を通し、反対側の掌を置いた岩板へ衝撃を流す第二の作用を展開』
担当官は一行下へ指を移した。
『その後、第二の作用を解除。岩戸の開口部へ向けて前進する過程で、向かい風を切る第一の作用へ換装した。白い獣が影へ沈み、本人の身体表面に異なる痕跡が浮かんだことを確認――』
俺は報告書と、主戦中を含む測量ログ全体を見比べた。岩戸へ衝撃が入った結果と、その後に風圧を受けながら俺が開口部を越えたことは記録に残っている。だが、第二の性質を解いた瞬間も、俺が風切りを選んだ合図も、グラフからは読めない。
「記録にあるのは、岩戸が動いた結果と、俺が向こう側へ渡った結果です。その間に俺が何を選んだかは、片桐さんの目撃に頼っている」
「ええ」
片桐さんは報告書の該当行を指で押さえた。
「だからこそ、私の証言と測量結果を同じものとして扱うことはできません。見た事実は報告しますが、それだけで再現性まで証明したとは考えていない」
片桐さんが腕を組み、静かに言った。
「私は戸隠でのあなたの立ち合いと判断を高く評価している。あれがなければ岩戸は越えられず、私の班にも損耗が出ていた。しかし、当人にも限界や構造を説明できない力を、現場の責任者として報告から外すことはできません」
片桐さんはモニターから俺へ視線を戻した。
「再現性も停止条件も不明な作用を、一般の山域へ野放しに通すわけにはいかない」
「片桐さんの判断に異議はありません」
俺は長机の上のモニターを指差した。
「ですが、この記録には肝心なものが抜けています。立ち合いの最中を捉えた映像がどこにもありません」
担当官が頷いた。
「ええ。戸隠主戦を連続撮影した固定カメラ映像も、身体カメラ映像も存在しません。客観記録として残ったのは、岩戸周辺の測量ログと関の通過記録です。作用の換装は、片桐監督官の報告に依っています」
「つまり」
宮坂さんが口を開いた。
「片桐監督官の目撃証言と、岩戸が動いたという結果はある。しかし、カゲが沢渡さんの明確な意思で換装されたのか、自律的に動いたのかは、第三者の記録から証明できないわけですね」
「その通りです、宮坂先達」
担当官は画面上の報告書へ視線を戻した。
「本人の意思を離れて作用が変わる危険があるなら、公的な手形を発給するわけにはいかない」
担当官は報告書の次の項目を指した。
「さらに、戸隠の主素材を取り込んだことで、カゲには第三の性質が増えたと報告されています。それが何をもたらすのか、本人もまだ把握していません」
「使っていませんから」と俺は言った。「関の外では、カゲの性質は一切働かない。机の上でいくら言葉を尽くしても、俺にも何ができるかは説明できません」
「分からないことを、分からないと申告された点は結構です」
担当官は手帳を広げた。
「我々が求めているのは、カゲの完全な正体解明でも、絶対の安全でもありません。そんなものは開山から八年、誰も証明できていない。求めているのは『管理可能性』です」
担当官は三本の指を順に立てた。
「本人の意思による発動、性質の選択、換装、解除。第三者からの停止命令への即応。そして、想定外の挙動が生じた際に隠蔽せず報告できること。この三点です」
「それなら、現場で示せます」
俺は言った。
「関の外で証明できない以上、裏へ入るしかない。手形を無条件に戻せとは言いません。監督官が同行する限定的な実地検証を受けさせてください」
審査室に短い沈黙が降りた。
担当官が視線を片桐さんへ向けた。片桐さんは待っていたように手帳を開き、一枚の工程表を机の上へ滑らせた。
「実地検証を行うべきです」
片桐さんが言った。
「資源庁は以前から、裏石鎚の成就社ルートで鎖場と登路の定期点検を予定していました。表の参道に重なるあのルートは、開山初期から整備されてきた古い道です」
片桐さんは工程表の山行欄を指した。
「経年劣化と山の回収傾向を測るため、私の班が入山することになっていた。そこへ、沢渡さんを検証対象として例外参加させる」
「裏石鎚……」
俺が呟くと、片桐さんは頷いた。
「危険な峰を試験のためだけに選ぶのではありません。もともと安全管理のために監督官が入る現場です」
片桐さんは工程表の低所に印をつけた。
「関に近い安全域で、固定カメラと身体カメラ、測定器を使い、カゲの既知の性質と第三の性質について発動と停止を記録する。試験対象には交換可能な器具を用意します」
片桐さんは工程表の後半を指した。
「そこで管理可能性が確認できれば、本来の点検作業に帯同させ、山中での安定性を見る」
「分かりました」
宮坂さんは姿勢を正し、担当官と片桐さんを順に見据えた。
「二人隊の相棒として、私も同行します。現場で沢渡さんが無理を隠したり、安全を軽視した場合は私が止めます。私にも撤退の判断権があることを条件として認めてください」
「無論です、宮坂先達」
片桐さんは即答した。
「現場の最高責任者は私ですが、あなた方の安全判断を不当に阻むことはしません。沢渡さんには、今回の検証と点検帯同だけに有効な臨時手形を関で発給します。帰着時に返却してもらう」
片桐さんの鋭い視線が俺を捉えた。
「沢渡さん。現場で試験に合格したとしても、その場で通常手形が戻るわけではありません。持ち帰った映像と測定ログを審査部門が精査し、正式な手続きを経てから最終決定が下りる。理解できますね」
「はい。十分です」
俺は迷わずに答えた。
担当官が端末のキーを叩き、承認の印を画面に灯らせた。
「明後日、表の石鎚山側にある関の前へ午前九時半集合とします」
片桐さんが立ち上がり、小さく頷いた。
俺は工程表の「実地検証」と、画面上に残る「一時利用停止」を順に見た。止まった表示は、まだ赤いままだった。
それでも、その赤を変えるために何を記録すればいいかは、もう分かっていた。




