第36話 直すところ
真帆が仕立てた新しい肩当てを作業台へ並べると、榎本はあからさまに困った顔をした。
「……きれいになったな」
「そこは、もう少し嬉しそうに言ってもらっていいんですよ」
左右の長さはきっちり揃え、縁のステッチも真っ直ぐに通してある。取り外した古い方はといえば、重ねた帆布が擦り切れて毛羽立ち、ほつれた隙間から別の色の補修糸が顔を出していた。
榎本は新しい肩当てを持ち上げ、厚みを確かめるように親指でぐっと押し込んだ。それから、台の隅へよけてあった古い方へ、おずおずと手を伸ばす。
「ここも……元に戻したのか」
「前に足してあったところですか? 中が固まっていたので、新しい方は左右の厚みを揃えました」
「あれが、よかったんだがな」
「……そうだったんですか」
真帆は古い肩当てを手元へ引き寄せた。右肩用だけ、下の方に細長い端切れが継ぎ足してある。以前この工房で直した記憶はない。使い込むうちに中の詰め物が寄り、持ち主が外側から当て布をしたのだと思い込んでいた。
「手をつける前に、聞いておけばよかったですね」
「いや、俺も預けるときに言っときゃよかったんだ」
榎本はばつが悪そうに頭を掻いた。決して文句を言いに来た風ではない。だからこそ、このまま「はい、どうぞ」と渡して帰すわけにはいかなかった。
「少し、背負ってみてもらえますか」
「今からか?」
「今なら、どこがどう違っているか確かめられますから」
榎本はちらりと腕時計に目を落とした。
「昼までなら、なんとかなるが」
「何かご予定でも?」
「女房と約束があってな」
「じゃあ、それまでに終わらせます」
背後で、カタカタと鳴っていたミシンの音がふっと途切れた。
「それ、受け取ったらすぐ帰るって言ってませんでしたっけ」
作業椅子をくるりと回し、千夏がこちらをじっと見ている。
「すぐ帰すつもりだったの」
「お昼まで、あと四十分ですよ」
「時間のことは、榎本さんもご存じだから」
榎本が小さく咳払いをして、所在なげに視線を宙へ泳がせた。
*
工房の表半分は、道具の売り場を兼ねている。
背負子の帯、補修用の厚手キャンバス、大小の雑袋。棚の下段には、野良仕事用の前掛けと、商店街の酒屋から預かった配達鞄が積まれていた。作業台の奥では古いラジオが低く鳴っていたが、ミシンを踏み始めればモーター音にかき消されてしまう程度の音量だ。
真帆は店先の空いたスペースに榎本を立たせ、仕立てたばかりの肩当てを帯に仮留めした。いつもの山荷には遠く及ばないが、空の背負子を背負わせても当たりは分からない。工房の隅にある鉄の重しを木枠へ括りつけ、「少し歩いてみてください」と声をかけた。
榎本は軋む床板を踏みしめ、出入口の戸際まで行って戻ってきた。立ち止まり、右肩をぐっと持ち上げるようにすくめる。
「どこか痛みますか」
「痛かねえんだ。ただ、こっちが……外へ逃げる感じがする」
「右だけですか?」
「ああ。前のやつは、ここにすっぽり収まってたんだがな」
榎本が指先で鎖骨の下あたりを押さえた。真帆はすかさず、チャコペンで布地に小さく印をつける。
正面から見たときは左右均等に見える帯も、実際に荷を背負って歩けば、筋肉のつき方や癖でまるで違う動きを見せる。榎本の着古した上着も、右の胸元だけに不自然な引きつれが寄っていた。
真帆は作業台に戻り、古い肩当てを裏返した。足されていた細長い当て布は、単にヘタった芯を埋めるためだけのものではなかった。帯が外へ逃げないよう、厚みを持たせて斜めに縫い込まれている。
「これ、どなたが直されたんですか」
「女房だ」
「仕立ての仕事をされている方?」
「まさか。俺が『ここだ、いやもう少し上だ』ってうるさく注文つけてるうちに、ああなった」
「よくそこまで付き合ってくれましたね」
「最後は『いい加減自分で縫いなさいよ』って放り出されたよ」
言われてみれば、端の十センチほどだけ糸の色が違っていた。運針の間隔も、そこだけ急に粗く、がたがたになっている。
真帆がまじまじと見つめていると、榎本は気まずそうに顔を背けた。
「……持ったんだから、いいだろ」
「ええ。ほどくのも、楽です」
奥で、千夏が吹き出す気配がした。
真帆は印をつけた位置と古い肩当ての傾斜を見比べ、仮留めを外した。新しい肩当ての端へ、リッパーの刃先を慎重に滑り込ませる。今朝がた綺麗に揃えたばかりの縫い目が、ぷつぷつと小さな音を立てて、端から開いていった。
*
榎本が手持ち無沙汰に待っている間にも、表の通りを台車が何度かガラガラと通り過ぎていった。
隣の加工所へ、採取地の荷札がついた木箱が運び込まれていく。蓋を閉めたまま作業台へ上げられる箱もあれば、受領印の手続きだけ済ませて、そのまま奥の保管棚へ運ばれるものもある。
戻ってくる台車には、空になった木箱が山積みにされていた。今度はその隙間へ、駅前の札屋へ卸す包みと、町外れの集荷場へ回す発送用のダンボールが手際よく積み込まれていく。
「今日も、あっち側は忙しそうだな」
榎本が出入口のガラス戸越しに外を眺めて言った。
「昨日届いた分が溜まっているみたいですね。うちにも朝から、梱包袋の追加注文が入ってます」
「また角を補強するやつか?」
「ええ。四隅ぜんぶに当て布をしてくれって」
「ああ、それなら俺が担ぎ下ろした石かもしれねえな。角が立ってて袋を突き破るんだよ」
榎本は棚に並んだ仕上がり品の袋を見上げた。真帆が手を伸ばして一つ手渡すと、榎本は底をばっと広げ、親指で四隅の縫い代を丹念になぞった。
「これなら縄も回しやすい」
「それ、注文書にも書いておいてほしいですね。寸法だけだと、どこを掴むかまでは分からないので」
「今度納品に行ったら、言っとくよ」
肩当ての端をほどき終え、真帆はリッパーを置いた。追加注文の紙には、四隅の補強のほかに『荷札の留めを付ける』とある。位置の指定はなかった。
「すみません、ひとつだけ電話を」
台の上の黒電話を引き寄せ、隣の加工所へかけた。袋は榎本が広げたまま持っていてくれた。
「朝の梱包袋の件なんですが、荷札はどこへ付けましょう。袋を開ける方も、同じ札を見ますか?」
受話器の向こうで、紙をめくる音がした。今度の石は、町の外の工場で機械の部品へ加工する分だという。先方では袋を解く前に、荷札と受入れの伝票を合わせるらしい。
「では、口を折り返しても隠れないところへ。今の口幅で、留めだけ下げれば大丈夫ですね」
真帆は榎本の手元の袋口を折り、小さな布の輪を当てた。ここなら、縄を回すところにも重ならない。位置を注文書へ描き添え、受話器へ告げる。
「はい。その形でお受けします。ありがとうございます」
電話を置くと、榎本が袋の口を元へ戻した。
「縄を回しても、そこなら見えるな」
「ええ。向こうで開けるところまで」
真帆自身は、山には入らない。榎本の背負子に残った砂が、どの道で付いたものかも知らない。今聞いた工場の作業場も見たことがないが、袋のどこへ糸を通せばいいかは決まった。
注文書を午後の仕事の脇へ置き、肩当ての当て布を手元へ戻す。まずはこちらを、昼までに。
榎本は広げた袋を、膝の上で丁寧に畳み直した。店先に見本として並んでいるのと同じ、折り目の立った几帳面な畳み方だった。
*
からん、と入口の鈴が鳴り、引き戸が開いた。ランドセルを背負った小学生くらいの女の子と、その母親が入ってくる。
「ごめんください。頼んでいた手提げ、できていますでしょうか」
「あ、ピアノの楽譜入れですね」
千夏が作業台から立ち上がり、棚から薄紙の包みを取ってきた。
真帆はミシンに糸を通し終え、そちらへ視線を向ける。紺色の厚手オックス生地で作った手提げ袋だ。学校で使う市販のバッグでは大きな楽譜が収まりきらず、端が折れてしまうと相談され、通常よりも縦の寸法を深めに取って仕立ててあった。
女の子は古い手提げから大きな楽譜の束を抜き出し、新しい袋へ滑り込ませた。背表紙まで、すっぽりと綺麗に収まる。だが、持ち手を両手で握ってぶら下げた瞬間、袋の底が床すれすれの高さまで沈み込んだ。
「……ちょっと長すぎたかしら」
母親が眉をひそめて覗き込む。女の子は小さく頷いた。
「肩にも掛けられるようにと思って、持ち手を長めにしておいたんですけど……」
千夏がその場にしゃがみ込み、持ち手の長さを確かめた。女の子も、じっと自分の手元を見つめている。
「肩にかけるの、あんまり好きじゃない」
「そうなんだ。手で提げて歩くのが好きなのね」
千夏は持ち手の根元を指先でつまみ、少し手繰り寄せた。
「このくらいならどう?」
「……もう少し、上」
「これくらい?」
女の子が腕をまっすぐ下ろしてみせる。重みで布地が引っ張られても、底は床から拳ひとつ分、しっかりと浮いていた。
作業台の向こうで、真帆と榎本の目が合った。
「今日は、つくづくそういう巡り合わせの日ですね」
「俺は袋を引きずったりはしねえぞ」
「もし引きずったら、そのときは持ち手も詰め直しますよ」
榎本は苦笑いしながら、膝の上で畳み終えた袋をそっと台の上へ戻した。
千夏が持ち手の直しにかかっている間、女の子は手持ち無沙汰そうに売り場の棚を眺めていた。無骨な道具袋や荒縄が並ぶ片隅に、ちょこんと小さな布の花が置かれている。千夏が前掛けを縫ったときの端切れで作った、ブローチのような小物だった。
「これ、売り物ですか?」
母親が気づいて指をさした。
千夏がはっと顔を上げた。ミシンの脇に置いてあったボビンに袖が引っかかり、からからと転がりかけたのを慌てて手で押さえる。
「あ、はい! ええと、売れます」
「売れるのと、売ってるのは違うよ」
真帆が言うと、千夏はこちらへ目を向けた。
「……売ってます!」
「おいくらですか」
尋ねられ、千夏は答える前にもう一度真帆を見た。
「作った人が決めて」
女の子は棚の前で背伸びをしたまま、花には触れずにじっと待っていた。
千夏がおずおずと金額を伝えると、母親は娘の顔を見て、優しく頷いた。
持ち手を直し終えた千夏が、袋を女の子に渡す。それから棚の花を取り、紺色の布に当ててみせた。
「手提げに付けたいの?」
母親が聞いた。
「うん。ここ、斜めにして」
女の子が花の端を指で傾けると、紺色の布の上に、ぱっと明るい差し色が灯ったように見えた。
千夏は花を当てたまま、女の子へ顔を向けた。
「ここに、糸で縫い付けちゃっていい?」
「……取れなくなっちゃう?」
「外したくなったら、いつでも糸を切ってあげられるよ」
「じゃあ、お願い」
女の子は初めて、自分の手でしっかりと手提げ袋を差し出した。
*
右の肩当てを閉じ直し、端の始末を終える頃には、柱時計の長い針が正午の少し手前を指していた。
真帆は榎本を呼び、仕立て直したばかりの肩当てを取りつけた。もう一度同じ重しを固定し、背負子を背負ってもらう。
榎本は先ほどと同じように出入口まで歩き、戻ってきた。だが今度は、すぐに荷を下ろそうとはしなかった。背筋を伸ばし、わずかに上体を左右へ揺らし、肩の収まりを確かめるように息を吸い込む。
「どうですか」
「……落ち着いたな」
「前のと、同じくらいになりましたか」
「いや。前のは布が硬く固まっちまってたからな。こっちの方が、当たりがずっと柔らかい」
真帆は、胸の奥に溜まっていた息をようやく吐き出した。
榎本が背負子をよいしょと下ろす。真新しい生成りの布には、わずか数歩歩いただけの、榎本の肩の丸みに沿った皺がしっかりと刻まれていた。左右の形は、もうきっちりとは揃っていなかった。
「実際に山で荷を担いでみて、また気になるところがあったら遠慮なく持ってきてくださいね」
「ああ、分かった」
真帆は型紙の端切れに、今回の補正位置と角度を鉛筆で書き写した。『榎本・背負子』と書かれた修繕台帳の控えに、古い肩当てから測り取った寸法メモと一緒に挟み込む。
「古い方の肩当て、処分しておきましょうか」
作業台の足元にある裁ち屑入れへ手を伸ばしかけると、榎本が慌てて片手を振った。
「いや、それは持って帰る」
「まだ何かに使うんですか?」
「直ったって言ったら、あいつ、どこをどう直したのか絶対に見せるよう言うからな」
真帆は思わず笑ってしまい、外した肩当てを重ねて茶紙で包んだ。粗い縫い目の飛び出した端が、包み紙の口からほんの少しだけのぞいている。
榎本が帳場で代金を支払ったちょうどそのとき、胸ポケットの携帯電話が小刻みに震え出した。
「おう、俺だ。……ああ、ちょうど終わったところだ。今から行く」
榎本は電話を耳に当てたまま、ちらりとこちらを盗み見た。
「いや、文句なんて言ってねえよ。ちょっと、当たりを直してもらっただけで……」
奥で、千夏が笑いを堪えるように口元を手で覆った。真帆も聞こえないふりをして、伝票の角を指先でとんとんと揃えた。
電話を切ると、榎本は背負子を抱え、包みを小脇に挟んで引き戸へ向かった。
「助かったよ、真帆さん」
「約束の時間、間に合いそうですか」
「店はすぐ近くだからな、走れば平気だ」
「奥さんと、どこへ行かれるんです?」
「駅前の家具屋だよ。部屋のカーテンを見に行くんだが、俺も一緒に来いって」
背負子を抱えたまま、榎本は少し肩をすくめてみせた。
「俺が選ぶと、大体いらねえって言うんだがな」
「榎本さんに決めてほしいんじゃなくて、一緒に選ぶ時間がほしいんじゃないですか」
口にしてから、真帆は作業台の上の型紙に目を落とした。
「……何にせよ、選ぶ前にちゃんと希望を聞いた方がよさそうですね」
「そりゃ、そうだ」
榎本は照れくさそうに笑い、からんと鈴を鳴らして駆け足で出ていった。
*
正午を告げるサイレンが遠くで鳴り響くと、隣の加工所から聞こえていた作業音がぴたりと止んだ。
戸口の前にいた運送会社の男が、台車を壁際に寄せて腰を下ろし、アルミの弁当箱の蓋を開けている。表の通りをふと見やると、先ほどの手提げ袋を提げた女の子が、母親の半歩先を弾むような足取りで歩いていくのが見えた。
袋の底は、舗装された道路を擦ることもない。腕を大きく振るたびに、紺色の布地に縫い付けられた布の花が、ひらひらと揺れて誇らしげに覗いていた。
千夏はその背中が見えなくなるまで、開け放した戸口に寄りかかって見送っていた。
「……もう少し、作っておこうかな」
「何を?」
「あの、布の花」
「いいんじゃない。作れば」
千夏は店内へ向き直り、がらんと空いてしまった陳列棚の隅を見つめた。
「あの色、山用の道具袋には派手すぎるかなと思って、ずっと奥に引っ込めてたんです」
「楽譜を持ち歩く子には、ぴったりの色だったじゃない」
千夏は嬉しそうに頷き、作業台の下から余り布を詰め込んだ段ボール箱を引っ張り出した。頑丈な道具袋用の生成り帆布も、町場の酒屋の前掛けに使った藍染めの木綿も、ここでは小さく折り畳まれて雑多に重なり合っている。
紺色の端切れの横から、くすんだ黄色の布が顔を出した。その下をかき分けると、今度は鮮やかな赤い木綿が覗く。
「午後の分の仕上げが終わってからね」
真帆が言うと、千夏は「はーい」と調子のいい返事をして片手を上げた。口ではそう言いつつも、布を握った手はなかなか箱へ戻そうとしない。
真帆は棚の奥から、午後一番で取りかかる修繕品をひとつ引き寄せた。
町の金物屋が配達に使っている革の鞄だった。挟み込まれた預かり札には、店の屋号と、預け主の名前が几帳面な文字で記されている。擦り切れた持ち手の革を確かめ、いつものように型紙を当てて左右の長さを測りかけ――真帆はふと、手を止めた。
台の上の黒電話を引き寄せ、札に書かれた番号を指先で回す。
「お世話になっております、工房の真帆です。お預かりしている配達鞄の件で、ひとつ確認したいことがありまして。普段これをお持ちになるときは――」
受話器を耳に当てた真帆の背後から、千夏の声がした。
「真帆さん」
「何?」
「あの……値札の予備って、どこに入ってましたっけ」
真帆は苦笑し、受話器を手で覆いながら、帳場の一番上の引き出しを顎で指し示した。




