第35話 止まった手形
石鎚山への申請は、翌朝、受理されないまま戻ってきた。
障子を通した四月末の白い光が、アパートの六畳間に落ちていた。俺は畳の上に正座し、携帯の画面を指先で弾いた。管理システムの画面上部に、見慣れない赤い通知枠が出ている。
最初は、昨日、戸隠の蕎麦屋から送った石鎚山への自主登破計画が弾かれたのだと思った。四国の山域は遠く、入山枠の制限や事前提出書類の不足で差し戻されることは珍しくない。修正箇所を確かめようと、通知のリンクを叩いた。
表示されたのは、個別の登山届に対する返答ではなかった。
『沢渡迅 個人手形ステータス:一時利用停止』
太い赤文字の横に、事務的な文面が並んでいた。
『未登録の作用の所持、および山中における換装の疑いについて、実態確認および安全性の検証が完了するまでの間、全山域における手形発給および入山資格を一時的に停止する。決定主体:資源庁審査部門』
画面を一度閉じ、開き直してみたが、文面は変わらなかった。
石鎚山への登山届だけではない。俺の名義で行う入山手続きのすべてが、根元から止められていた。失効や取消という確定処分ではないが、審査が終わるまで俺は日本中どこの関もくぐれない。
「……全部か」
声に出すと、喉の奥がかすかに軋んだ。
右腕をゆっくり持ち上げて首の後ろへ回そうとしたが、肩口から背中の中央にかけて鈍い痛みが走り、途中で止めた。戸隠の岩戸で、主の打撃を第二の性質によって岩板へ流したときの名残だ。
骨に異常があるかはまだ分からない。服を着替える、箸を持つ、画面を操作するといった日常の動作に支障はないが、今すぐ背負子を背負って歩ける状態ではないことは、自分の身体がよく知っていた。
俺は画面を戻し、停止の影響がどこまで及んでいるかを一行ずつ確かめた。
自主登破の申請不可。
他山域への一般入山手形の発給停止。
そして、山岳救助嘱託の待機資格停止。
救助は常勤ではなく、管内の山で事故が起きた際、出動ごとに日当と危険手当が出る嘱託契約だ。だがそれも、有効な手形を保持していることが大前提になる。
待機連絡網のアプリを開くと、管区内の登録者一覧の中で、俺の名前の横にだけ灰色の印が付いていた。
『出動待機除外(手形停止中)』
要請が届いても、今の俺は関のゲートで弾かれる。
続いて、頭の中で直近の予定をめくった。壁に掛けたカレンダーには、明後日の日付に赤ペンで印がついている。
裏高尾の日帰り歩荷が入っていた。低所の補修に使う金具と木材、それに固定式の忌避香の補充缶、合わせて六十キロを山腹の作業小屋まで上げる仕事だ。日当は九万五千円。
俺は連絡先から手配窓口の番号を選び、発信ボタンを押した。
呼び出し音が三回鳴って、聞き慣れた現場担当者の声が出た。
「はい、沢渡さん。明後日の件ですね。受け渡しは朝六時の関前で」
「すみません。明後日の荷ですが、俺のほうで入れなくなりました。手形の一時停止がかかりまして」
電話の向こうで息を呑む気配がした。
「停止? 沢渡さんがですか。現場で何か規律違反でも?」
「いえ、現場の事故や違反ではありません。未登録の作用についての確認が審査部門に回ったためです。関を通せなくなりました。穴を開けるわけにいかないので、今日の午前中に別の歩荷へ回してもらえますか」
担当者はわずかに言葉を濁したが、すぐに仕事の手順へ意識を戻したようだった。
「……分かりました。理由がそれなら現場側ではどうにもなりませんね。荷の重さは六十キロで変わりませんか」
「六十キロです。受渡時刻も朝六時のままで大丈夫です。荷の半分が金具で重心が下に寄りやすいので、背負枠の低めの位置に当て木を噛ませてあります」
俺はカレンダーの脇に留めた経路図へ目を移した。
「それと、先週の降雨で沢沿いの巻き道が一部緩んでいたと聞いています。無理に沢を通らず、尾根側の補修道へ回るよう、入る人に伝えてもらえると助かります」
「助かります。現場への注意点も添えて、すぐ別の歩荷を手配します。手形が戻ったらまた連絡をください」
「手数をかけます」
通話を切り、息を吐いた。
九万五千円の稼ぎが消えた。
だが、出ていく金が消えるわけではない。戸隠への往復交通費と現地の宿泊費で約四万円。これから行く病院の診察代と薬代。さらに次の遠征や消耗した登山靴の更新に備えた積み立てが控えている。
戸隠の立ち合いで札を一枚も切らずに済んだため、高価な札の補充費用が発生しなかったのだけが救いだった。
この一件ですぐに生活が破綻するわけではない。だが、裏へ入れなければ歩荷の稼ぎは完全に途絶える。手形はただの入山証ではなく、俺が山で飯を食うための道具そのものだった。
土間に置いた背負子の脇に、白い影が音もなく座っていた。日本狼を思わせる白い毛並みの獣――カゲだ。
人語は話さず、こちらの様子を気遣う素振りも見せない。ただ前脚を揃え、静かに俺を見上げている。
その右の前脚には、戸隠の主素材を取り込んだ痕跡である細い黒い輪が一本、墨で引いたように巻き付いていた。
「お前が増えたから、向こうも確かめなきゃならなくなったわけだ」
カゲは耳をわずかに動かしただけで、何も答えなかった。
着信音が鳴り、画面に宮坂さんの名前が表示された。通話ボタンを押す。
「沢渡さん。通知、見ましたか」
「見ました。石鎚の申請どころか、俺の手形自体が全面的に止まりました」
「私の手形は生きています。審査中になっているのは沢渡さん個人だけですね」
宮坂さんの声は落ち着いていた。戸隠から戻った翌朝の疲労を感じさせない、平坦で実務的な声音だ。
「宮坂さんのほうまで巻き込まれなくてよかったです」
「よくはありません。私たちは二人隊で石鎚へ行くと決めたはずです。あなたが入山停止のまま、私一人で登る選択肢はありません」
感情的な抗議ではなく、合意した事実を淡々と確認する口調だった。
「怒鳴り込んでも解除される性質のものじゃありませんね」と俺は言った。「決定主体は資源庁の審査部門です。片桐さんが戸隠での出来事を正確に上げた結果でしょう」
「ええ。片桐さんが現場監督官として当然の職務を果たしただけです。登録外の事象を現場で握り潰すような人ではありません。問題は、何を提示すれば審査部門が停止を解くかです」
「関の外じゃ、カゲの力は何も出せません。机の上で書類を何枚書いても、安全の証明にはならない」
「その通りです。ただ、今日すぐ窓口へ行っても話は進みません。まずは肩の状態を戻してください。背負子を担げない状態で裏へ入る検証など、私からも許可できませんから」
「分かっています。受診して、医師の見立てを聞いてきます」
「診察が終わったら連絡をください。それから日程を決めましょう」
通話を終え、俺は着替えのために立ち上がった。
近所の整形外科の待合室は、近隣の高齢者で混み合っていた。受付を済ませてから四十分ほど待たされ、診察室へ呼ばれた。
医師は問診票の「山での負傷」という項目に目を落としながら、俺の上着を脱がせた。
「右の肩甲骨から僧帽筋にかけて、かなり強い内出血がありますね。腕を前に倣えの位置から、ゆっくり上へ上げてみてください」
言われた通りに動かす。水平を越えたあたりで、背中の奥に鈍い痛みが走り、肩が少しすくんだ。
「そこから先で痛みますか」
「はい。真上まで行けなくはないですが、引っかかる感じがあります」
医師は俺の首筋から肩口、背骨の脇を指先で順に押していった。筋肉が強く張っている場所で指が止まる。
別室で画像を撮り、診察室へ戻る。医師はモニターに映った肩と背を順に確かめた。
「画像上、骨にヒビや変形はありません。深部の筋挫傷と強い打撲です。何か非常に重いものを受け止めましたね?」
「ええ、そんなところです」
「日常の動作――食事や着替え、字を書く程度なら問題ありません。ただし、重量物を肩にかけるのは駄目です。背負子を担ぐのは論外ですね。痛みを堪えて荷を背負えば、かばった側の腰や膝を痛めて長引きますよ」
「どれくらいで背負えるようになりますか」
「湿布と鎮痛消炎剤を出します。まずは三日間、肩に重みをかけずに休んでください。腕を真上に上げて引きつりが消え、深呼吸したときに背中が痛まなくなったら、軽い荷から試していい。目安としては四、五日後です」
診察室を出て、薬局で湿布の束と痛み止めを受け取った。
会計を終えて外に出ると、初夏の強い日差しがアスファルトを照らしていた。
携帯を取り出し、宮坂さんへ短い文面を送る。
『診察終了。骨に異常なし。打撲と筋挫傷で、三日は休養。四、五日後には軽い荷なら背負える見込み。審査窓口へ行くのは、肩の痛みが引いて動けるようになってからにしたい』
数十秒で返信が届いた。
『了解しました。四日後の午後、管区事務所の審査窓口へ同行します。それまでは大人しく休んでいてください』
画面を伏せ、ポケットに収める。
裏へ戻るために、何を示さなければならないのか。まずは身体を治し、自分の足で立てる状態を作るところからだった。




