第50話 初荷
土間の作業台の端に、手のひらに収まる大きさの小型携行カメラを置く。レンズを台秤と土間へ向け、俺は録画ボタンを押した。
背負子へ積む荷を台秤へ載せ、針が止まった位置を俺は立ったまま見下ろした。
十八キロ。通常の歩荷で背負う六十キロの三割ほどで、針の止まる位置はずっと手前だった。医師の診察を受け、平地から緩斜面へと段階的に歩行の負荷を上げてきた俺にとって、裏山の土を踏んで荷を運ぶのはこれが最初の仕事だった。右肩と腰に鋭い痛みはない。だが、日常の動作と、質量の偏った背負子を担いで斜面を登るのとでは、身体にかかる圧力がまるで違った。
土間に、今日の装備を並べていく。依頼された資材の包み、予備の水、雨具、救急箱、行動食。どれも山へ入る以上、削るわけにはいかない道具だった。私的な事情や負傷の経過には触れず、俺と宮坂さんは道具の名称と数量だけを淡々と確認し合った。
「資材の固定、よし」
「水と予備食、救急箱、よし」
宮坂さんが自分の荷の紐を締め終え、俺の背負子のパッキングを確認して頷いた。宮坂さんの荷は俺よりも重く、全体のバランスを取るように配分されていた。
準備の撮影を終え、俺はカメラの録画を一度止めた。本体を作業台から取り上げ、胸部ハーネスのマウントへしっかりと固定する。
土間の隅に伏せていたカゲが、音もなく身を起こした。白い日本狼に似た体躯を低く保ち、俺の足元へ寄ってくる。
「データは帰ってから受け取ります。無理はしないでくださいね」
居間の入り口から遼が見送りの声をかけた。山には同行せず、機材の予備確認と帰還後の作業準備を引き受けている。俺は短く頷き、背負子のショルダーベルトに腕を通した。ぐっと腰を落として立ち上がると、重みが両肩と腰骨に沈み込む。違和感を探るようにゆっくり息を吐き出してから、俺は表の引き戸を開けた。
裏高尾の関の前に立ち、俺は胸元のカメラの録画を再開した。
詰め所の窓口へ進み、入山手続きを行う。胸部カメラの画角には、前方の窓口の台と受付係員の手元が映る。書類を渡し、確認を受け、紙の手形を受け取る。手形番号や氏名が記された面は、胸のカメラに映り込まないよう指先で伏せて納めた。
木戸を抜け、裏山の領域へと足を踏み入れる。
外の気配がふっと途切れ、異界特有の湿った冷気が肌を撫でた。木々の葉が重なり合い、見上げる頭上を深い緑が覆っている。
先行するのは宮坂さんだった。丈三二〇〇の足取りは淀みがなく、一定の歩幅を保って傾斜を登っていく。俺はその数歩後ろに位置取り、カゲは俺の右斜め後ろ、道幅の狭い山道の端を滑るように追従した。
登りが始まると、背負子の荷が背中に張り付いた。
俺は意識して歩幅を小さく刻んだ。患部だった腰と右肩に過度な捻れが生じないよう、骨盤を水平に保ち、足裏全体で土を捉える。以前の感覚で大股に踏み出そうとすると、右肩の奥にわずかな強張りが走る。完治したわけではないという事実を、身体の軋みが正確に伝えてきた。
前を行く宮坂さんが、振り返ることなく左手をわずかに上げ、指先で合図を出した。登りの角度が変わる手前で、ペースを落とせという指示だった。俺は短く息を吐いて速度を合わせる。
腕時計に目を落とし、通過時刻を記憶する。手元の文字盤が胸カメラの前を横切った。撮影を意識して歩行や仕事の手順を変えることはない。足元と前方の宮坂さんの背中を見据え、仕事の流れのままに歩を進めた。
尾根筋を巻くように進んだ先、木々に囲まれた窪地に、平屋の番屋が見えてきた。裏高尾の低所を巡回する要員が使い、山内無線の中継設備を兼ねた維持施設だった。
広場に立ち、俺は背負子のバックルを外した。膝を突いて荷を地面へ降ろすと、背中から熱が逃げていく。
俺が一息ついて立ち上がると、カゲが足元から静かに前方を横切り、広場の隅の木陰へ移動した。
引き戸が開き、施設を維持する初老の管理員が顔を出した。
「沢渡か。待ってたよ」
「予定通りです。破損はありません」
資材の梱包を解き、中身を並べて伝票を差し出す。管理員が数を数え、受領の印を押し、控えを返してきた。
「助かった。このあたりも無線設備の点検で資材が要り用でね」
「また何かあれば連絡をください」
事務的なやり取りを終え、水筒の水を一口含んだ。腰と肩にずしりとした疲労が残っている。六十キロを担いでいた頃の負荷には遠く及ばないが、今の自分にとっては、この距離と重さを運びきったこと自体が確実な前進だった。
復路は下りになる。荷は軽くなったが、下りの着地衝撃は腰骨へ直接響く。俺は登り以上に慎重に重心を落とし、一歩一歩の衝撃を膝と太ももで吸収しながら山道を下った。
日陰に残った湿った石で、右足がわずかに流れた。止まって、土のある側へ置き直す。荷が軽い今日なら立て直せる。次の遠征で同じ靴に荷を載せるなら、足場を選ぶだけに任せたくはなかった。
帰ったら靴を替える。肩を戻すことと、道具を使える状態にすることは、別の準備だ。
関へ戻り、窓口へ手形を返す。係員が台帳と照合し、返却の手続きが完了した。丈の変動はない。二四〇〇のまま、何事もなく山を降りた。
関を出たところで、俺は胸元のカメラの録画を停止した。
みさか屋へ戻ると、遼が茶の間の座卓にノートパソコンとカードリーダーを用意して待っていた。
「お疲れさまでした。怪我はありませんか」
「問題ありません。張りはありますが、痛みは出ていません」
俺は胸元からカメラを外し、メモリーカードを取り出して遼へ手渡した。
遼はカードをリーダーに差し込み、手元の外付けストレージ二基へ並行してデータを転送した。キーボードを叩く乾いた音が部屋に響く。
「元データの複製を二重に取りました。タイムスタンプの時刻合わせも終わりました。……では、頭から確認しましょう」
三人で画面を覗き込む。
再生された最初の映像は、みさか屋の土間で作業台から撮影した計量と装備確認だった。台秤に載った荷の全体と、資材や安全装備を一つずつ確かめて背負子へ収める手元が映っている。秤の文字盤の数値は角度と距離から読み取れないが、手順そのものは明瞭に記録されていた。
続いて、関の前で再開された映像へ移る。
胸部カメラの視点から窓口を映した場面で、宮坂さんが画面を指差した。
「手形を受け取るところは、窓口の書類に書かれた手形番号や氏名が読めないか確認してください。少しでも怪しいなら切ってください」
「書類の記載が読み取れそうな区間を前後に広げて確認します」遼がタイムラインを拡大した。「提出書類と手形の文字が判読できる可能性のあるカットは全部切って、窓口の前に立つところから、木戸をくぐって入山する場面へ直接繋ぎます。これなら番号も名前も映りません」
映像が進む。急斜面を登り、尾根へ差し掛かる手前の場面で、宮坂さんが「止めてください」と声を上げた。
一時停止された画面には、登山道の脇にある大きな岩陰と、その隙間に打ち込まれた固定金具、足元から分かれる踏み跡がはっきりと映り込んでいた。
「ここは、現役の退路の分岐点と、支点の位置が分かりすぎます」宮坂さんが言った。「低所のルート案内として真似されたら危険ですし、固定金具の場所を特定されるのも避けたいです」
「ここを単純に削ると」遼がタイムラインを見つめた。「手前の登りからその先まで、映像の時間が飛びます。どういう登りを経て荷を届けたのか、移動にかかった時間や現場の判断が誤って伝わりませんか」
俺は画面に映る岩肌と、記録された通過時刻を見比べた。
「別な場所の映像を挟んで穴埋めするのはやめましょう。該当する登りの区間を削った上で、前後の通過時刻をそのまま字幕で出せばいいです。何分かかってその地点へ抜けたのか、元記録通りの時刻が示されていれば、途中の時間を省略したことは分かりますし、行動の順序を偽ることもありません」
「そうですね」宮坂さんが同意した。「削った理由を動画内でわざわざ説明する必要もありません。淡々と時刻だけ進めてください」
「分かりました。退路と支点が映る区間をそのまま省略して、前後のカットに実測の通過時刻テロップを入れます」
映像は維持施設の窪地へ入った場面へ進んだ。
荷を下ろして休止している俺の前を、カゲが足元から離れて静かに横切り、広場の隅へ向かう場面が再生された。
「これもこのままでいいですね」宮坂さんが言った。「余計なテロップや演出は付けずに、現場の流れ通り残してください」
遼が頷き、続けて管理員との受け渡しの場面を再生した。
「管理員さんの顔と、伝票の細かい文字はどうですか」俺が聞いた。
「画角は手元中心で、伝票の文字は潰れて読めません。顔もフレームから外れています」遼が該当箇所を拡大して示した。「会話の音声も確認しました。『沢渡』という呼びかけと、無線設備の点検用だという業務上のやり取りが残っています。管理員の氏名や所属、施設の具体的な場所は話していません。このまま通していいと思います」
「それなら問題ありません」宮坂さんが頷いた。
関へ戻った後の手形返却も、窓口の台帳や返却する手形の記載が判読できない範囲に収まっていることを確認し、編集が完了した。
動画投稿サイトの管理画面が開かれた。
タイトル欄には、裏高尾の低所へ荷を運んだ事実だけを示す簡素な文字列が入力されている。概要欄には、裏高尾低所の維持施設への運搬記録であること、天候、おおよその所要時間だけを簡潔に記載した。削った退路や固定金具についての言及は一切含まれていない。
「これで公開します」
遼が二人の顔を見た。
「いいと思います」宮坂さんが短く頷いた。
「お願いします」
俺が応じると、遼の人差し指がマウスの左ボタンを押した。
ステータスが切り替わり、動画が外部に向けて公開された。
画面に表示された再生回数はゼロのままだった。反響も、賞賛も、批判も、まだ何一つ届いていない。
遼が画面から目を離さないまま、更新ボタンを二度押した。
「押しても増えませんよ」
「分かってます。分かってるんですけど」
宮坂さんが口元を押さえて横を向いた。肩が小さく揺れている。俺は自分の手元が映った停止画面から、なんとなく目を逸らした。
俺は座卓から立ち上がり、軽く右肩を回した。確かな筋肉の張りがある。
今日の荷を運び終え、自分たちの責任で一つの記録を外へ出した。完全な復帰にはまだ遠いが、確かにここから始まった。




