第32話 帰り道の先
閉じた岩戸の内側には、二人が並べるほどの平場があった。
その先は数歩で切れ、白い靄に沈んでいる。風は岩戸のさらに奥から低く鳴っていたが、もう進む必要はない。主が散ったため、立ち合いは終わっている。
宮坂さんは内壁の窪みから錫杖を抜き、救助索を巻き取った。それから俺の右肩へ触れないよう、上着の破れと腕の動きを確かめる。
「腫れはまだ出ていません。ただ、同じ受け方はもう駄目です」
「分かっています。帰りは新しい方を使いましょう」
俺は記録袋を胸ポケットへ収め、岩戸の地面を見た。
二枚の岩板は中央で噛み合い、足元の溝が左右へ伸びている。内側からでも、動く方向は同じだった。
「一人で両方を押すのはやめましょう」
宮坂さんが左の岩板へ掌を当てた。
「私が左を左へ。沢渡さんは右を右へ。動いたら手を離して、閉じる前に二人とも外へ出ます」
「俺の側が遅れたら」
「私が合わせます。正面の出力は私の方が上ですから」
それは遠慮ではなく、丈三二〇〇と二四〇〇の差を入れた判断だった。
俺は右の岩板へ両掌を置いた。右肩を庇って腕だけで押せば、足元が負ける。腰を落とし、右足を後ろの岩へ突っ張る。
「一息で終えます。沢渡さんから数えてください」
「三、二、一――」
二人の声が重なった。
【触れたるものを、この手に従え】
【ひとたびの力、ここに成せ――】
『手力』
掌から岩へ、短く太い力が入った。
腕だけが強くなったのではない。足で作った向きへ、肩、肘、掌の一続きが爆発するように押し出される。
右の岩板が溝を滑った。同時に左側では、宮坂さんの岩板が俺の側より半歩ぶん速く開く。
俺の右足が石の上をずり、身体ごと前へ持っていかれた。《手力》は足場まで用意してくれない。踏み外せば、押した本人が戸へ叩きつけられる。
それでも両側の隙間は、人が通れる幅まで開いた。
頂側からの風が、今度は俺たちの背を外へ押した。
「離して、出ます!」
宮坂さんが先に掌を外し、開口へ走った。俺も験の一動作が終わるのに合わせて手を離す。
岩板が戻り始める。
風に押されながら二人で門を抜けた。俺の右足が外の広場へ着き、続いて左足が出る。背後で戸が閉じた時には、宮坂さんと俺は門から四歩離れていた。
「沢渡さん、宮坂先達」
防護線から片桐たちが駆けてきた。
後衛支援が俺たちを一人ずつ指で追う。
「前衛、測量、隊長、宮坂先達、沢渡さん、私。現在六。欠員なし」
「二人とも自力歩行できます。沢渡さんの右肩は悪化していますが、腕と指は動きます」
宮坂さんの報告に、片桐が頷いた。
「岩戸の主は」
「二人が内側へ渡った時点で散りました。撃破ではなく、通過が主を散らす条件だったようです」
俺は胸ポケットの記録袋へ手を当てた。
「主素材も回収しました。それと、二人とも《手力》を継いでいます。直接触れたものを、一続きの動作だけ強く動かす験です」
片桐の視線が、岩戸から俺たちの掌へ移った。
「今、内側から戸を開けた力ですね」
「はい。ただ、足場までは支えてくれません。俺は押した勢いに引かれました」
「第二性質を解いてから、風を割る性質へ替えたことも確認しました。一度の立ち合いで二つを切り替えた事実は、報告に含めます」
「二つは同時に使えません。だから、戸を開いてから換装する時間が必要でした」
「初見の力を帰路へ組み込むなら、そこまで記録しておくべきでしょう」
片桐は端末へ時刻と二人の状態を入力した。十三時二十二分。岩戸に着いてから、まだ四十分も経っていなかった。
「この場で追加の試験はしません。荷を戻し、十分後に下ります。沢渡さんの背負子は、右肩を締めすぎないよう宮坂先達が確認してください」
「分かりました」
広場の入口で、俺は置いていた背負子を受け取った。宮坂さんが右の肩紐を一段緩め、代わりに腰帯を強く締める。重さを腰へ逃がすと、肩の鈍痛が少しだけ遠のいた。
来た道を六人で戻る。
三つ目の石門へ着いたのは、十四時を少し回った頃だった。継ぎ目の上下には、片桐が残した二つの石束が噛み、手の幅だけを保っている。
片桐は岩へ耳を当て、石束と可動溝を順に確かめた。
「ずれはありますが、支点は生きています。救出時のように一息で開く力はありませんが、今は急ぐ必要もない。上下の石束を交互に太らせれば、少しずつ幅を取れます」
片桐の声はまだ濁っていた。
「声を一度だけ使います。開いている間に、下手側へ順に抜けてください。通過後は石束を組み直します」
「私たちは最後に回りますか」
宮坂さんが尋ねる。
「いえ。沢渡さんの肩を考え、先に下手へ。前衛が受け取ります。私は最後に門を閉じます」
役割が決まると、片桐は継ぎ目へ両手をかざした。
【散る石は寄れ、伏す土は起きよ】
【継ぎ、支え、道を組め――】
『石組み』
上の石束が指一本ぶん太り、そこで岩を支えた。次に下の石束が太る。片桐は上下を交互に組み直し、少しずつ二枚の岩を左右へ押し戻した。救出時の一撃とは違い、時間を使って幅を稼ぐ開け方だった。
「通過前、六。沢渡さんから!」
俺は背負子を壁へ擦らないよう横向きになり、開いた門を抜けた。前衛警護が下手側で腕を添え、宮坂さん、測量担当、後衛支援が続く。
片桐が最後に通ると、組んだ石を少しずつ戻した。門は手の幅まで閉まり、二つの石束で再び止まる。
「通過後、六。全員揃っています」
帰路が消えていなかったのは、行きに片桐が支点を残したからだ。ただし、声なしで通れる道になったわけではない。
下りは登りより速かったが、急ぐほど足場を失う旧道だった。岩陰に黒いトカゲの影を見つけた時は、片桐が隊を止め、遠回りできる涸れ沢へ進路を替えた。戦わずに済む相手へ、残った声を使う者はいない。
最初の安全域へ戻った時、時計は十七時を回っていた。岩庇の外はまだ明るいが、谷底はもう青く沈み始めている。
「関までは」
俺が地図を開くと、測量担当が現在地と旧道入口を指した。
「明るい時間には届きません。ここから下に石門はありませんが、暗い旧道で足場と山のものを見落とす危険は変わりません」
片桐が全員を見回した。
「ここで二泊目にします。関へは明朝。異論はありますか」
「ありません」
宮坂さんが先に答えた。
「沢渡さんの肩も、今夜のうちに冷やした方がいいです」
「俺も賛成です」
「予備食は、こちらに明朝分まであります」
俺の報告に、後衛支援も自隊の残りを確かめた。
「資源庁班も同じです。燃料も一晩は持ちます」
片桐が防水無線を取り、低所用中継器の波へ合わせた。短い雑音のあと、関の管理所から応答が返る。
「現地調査班、帰着を明朝へ変更。同行する自主登破隊二名も安全域で一泊延長。人間六人、全員自力歩行可能です」
帰着期限の変更が復唱されるのを聞いてから、片桐は無線を収めた。
忌避香を焚き、前夜と同じ位置へ鳴子を張った。詳しい手順を繰り返す必要はなかった。片桐班が外周を作り、俺と宮坂さんが水と寝床を整える。
夜、鳴子のさらに外で枝の折れる音が一度した。香の煙の縁を何かが歩き、やがて谷の方へ遠ざかっていく。
俺は冷却材を巻いた右肩を岩へ預けた。
枕元では、カゲがまだ白い狼の姿で丸くなっていた。胸ポケットの白い継ぎ目を持つ石には反応を見せない。
関で記録を済ませるまでは、渡さないと決めていた。
◆
翌朝六時、二隊は安全域を発った。
入山日に踏んだ道と、片桐班が残した記録がある。道中で二度、遠くに山のものの気配を見た。一度は忌避香の残りを焚いて待ち、次は尾根側へ十数メートル回って避けた。
九時四十分、戸隠の関が木々の間に見えた。
「帰着、人間六人。負傷一、全員自力歩行できます」
片桐が無線で告げる。
門をくぐる前に、俺は足元を見た。白いカゲは当然のように右膝の横へいる。戸数えには最後まで入らなかった。
関の内側にある検査室へ入り、入山時に受け取った手形と装備を照合する。失った支柱二本、楔、二千の紙一枚は片桐班の損耗として記録された。俺の右肩には応急処置済みの札が付き、受診を勧める文言が端末へ入る。
俺と宮坂さんの登破記録には、戸隠と、新しく継いだ《手力》が加えられた。戸隠一九〇四は二人の既存の丈を下回るため、丈の数字はどちらも変わらない。
「登破者二名。験は《手力》で登録します。お二人とも、最高丈の更新はありません」
検査員の読み上げに、俺たちは順に頷いた。
最後に、俺は胸ポケットから記録袋を出した。
検査員が関節石を白い受け皿へ置く。二片が噛み合った形を四方から撮影し、重さと採取地点を記録した。
「立ち合いを越えたのは、沢渡迅さんと宮坂さんのお二人。主素材の保管者は沢渡さんでよろしいですか」
「はい」
俺が答えると、宮坂さんが続けた。
「カゲへの反応を確認するため、沢渡さんが持つのが妥当です。私も記録の共有者に入れてください」
「承知しました。性質は追加調査扱いです。現時点で断定できる記録はありません」
検査員は主素材を新しい透明袋へ入れ、封をせず俺へ返した。
関の境目を越える前、検査室脇の石床で俺はしゃがんだ。
「カゲ」
白い狼が顔を上げる。
俺は袋から黒石を出し、掌に載せた。
「これは、お前に渡す」
自分の意思で鼻先へ差し出す。
カゲは一度匂いを嗅いだ。黒い石へ口を触れた途端、その輪郭が水へ沈むように白い胸の内側へ消えた。
前脚に刻まれていた黒い水路模様の下へ、細い輪が一本増えた。白い境目を写したような、途切れのない黒い輪だった。
それ以上の変化はない。
カゲは前脚を一度舐めると、何事もなかったように俺の隣へ座った。
「何が増えたかは、まだ分かりませんね」
俺が言うと、宮坂さんは輪の増えた前脚と、俺の顔を見比べた。
「ただ、比べられることは増えました」
「大山と、今回ですか」
「ええ。四か月の検証で借りた、他人だけが立ち合った主素材には反応しなかった。大山と戸隠では、沢渡さんが立ち合いを越えたあと、その素材を取り込んだ」
片桐も端末を手に、少し離れた場所で聞いていた。
宮坂さんは言葉を選ぶ間を置いた。
「カゲは、峻さん本人ではありません」
「俺も、今はそう思っています」
兄貴なら、俺の命令を待って足元へ伏せたりはしない。何も話さず、答えも教えず、俺が越えた立ち合いの分だけ形を変える。
「峻さんと沢渡さんの間に残った何かが、沢渡さんの登破を通して形を増やしている。私は、そう考えます」
「どうして残ったのかは」
「そこまでは分かりません」
宮坂さんははっきりと首を振った。
答えではなく、分からない範囲までを含めた推測だった。
片桐が端末を閉じ、俺の前へ来た。
「沢渡さん。岩戸であなたが選んだ手順は正しかった。最初の策を声が残るうちに捨て、宮坂先達と二人で越えた。私の班を主戦へ入れなかった判断も含め、異論はありません」
「ありがとうございます」
「ただし、カゲの件はそれとは別です」
片桐の視線が、黒い輪へ落ちた。
「当人たちにも作用を分類できず、立ち合いを越すたびに外見が変わっている。資源庁へ報告します。私には、これを記録から外す権限がありません」
「分かっています」
片桐は短く頷いた。
報告をしないよう頼む理由はなかった。片桐は最初から、自分の班を還し、再現できる手順を残すために動いていた。
その横顔を見ながら、俺はいつの間にか、この人を頭の中でも片桐さんと呼んでいた。
すべての記録を終えて関を出ると、表の春が戻ってきた。鳥の声が近くなり、携帯電話には圏外だった間の通知がまとめて入る。
俺と宮坂さんは、戸隠の参道にある蕎麦屋へ入った。
湯気の立つ山菜蕎麦と炊き込みご飯が運ばれてくる。箸で蕎麦を持ち上げると、温かい出汁の匂いが鼻へ抜けた。
軒下の席で、カゲは味を付けずに分けてもらった鶏肉と飯を食べている。黒い輪は増えたが、食べ方は昨日までと何も変わらない。普通の飯は、腹を満たすだけだ。
隣の卓で、誰かのスマートフォンが一瞬こちらを向いた気がした。顔を上げると、もうその画面は品書きへ向いていた。
「右肩で箸は持てますか」
「箸は。背負子は、二、三日休んだ方がよさそうです」
「それを聞けるなら、少し安心しました」
宮坂さんが蕎麦を啜る。
俺は左手で携帯電話を操作し、保存していた山域資料を開いた。戸隠と同じく、長く祀られ、登られてきた峰を高さ順に並べる。
「次の山を見てもらえますか」
画面を卓上へ置いた。
宮坂さんは最初の候補を指で広げた。
「石鎚山。一九八二ですか。沢渡さんの丈より低いですね」
「丈を上げるためではありません」
俺は戸隠の調査記録と、石鎚の山域資料を並べた。
「新道を消して、古い参詣路を戻した。戸数えも、岩戸の主も、長く使われた道や語られ方に寄っています。なら、同じように信仰と登山の積み重なった別の峰を見たい」
「戸隠で得た仮説を、一つの山だけで答えにしないためですね」
「はい。それに、今の二人の丈なら入れます」
宮坂さんは画面を下へ送り、関から旧道、想定所要時間の欄まで確認した。
「自主登破なら、今回と同じ条件です。どちらかが撤退を決めたら下りる。帰路の声と野営装備を先に分ける。現地の記録が想定と違えば、その場で計画を捨てる」
「異論ありません」
「では、次は石鎚山にしましょう」
俺は申請画面を開いた。
依頼番号の欄は空白のままにした。参加者へ俺と宮坂さんの名を入れ、目的地の欄へ、自分の指で入力する。
――石鎚山。
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