第31話 岩戸と風
地面を打った反動のまま、岩戸の主の左腕が横へ走った。
俺は後ろへ二歩退き、宮坂さんは反対の岩壁際へ身を寄せた。腕は門前を端から端まで薙ぎ、さっきまで俺たちがいた空間を低い唸りとともに押し潰す。
主は岩戸の右脇に立ち、俺たちはその正面、十メートルほど先に分かれていた。岩戸から三十メートル離れた広場の入口では、片桐班の四人が、俺たちの荷と退路を背に防護線を保っている。
「倒しには行きません。門までの道だけ残します」
宮坂さんの声に、俺は頷いた。
兄貴の記録が残した勝ち方は、主を散らすことではなく、戸を越えることだった。俺たちも門までの道だけを作ればいい。
主の右腕が地を擦り、今度は下から俺を掬い上げに来た。俺は懐へ踏み込まず、腕が通り過ぎる側へ回る。宮坂さんも錫杖を突いて間合いを外し、左右から門前へ残った。
主は追ってこなかった。岩戸から三歩離れたところで巨体を返し、俺たちと戸の間へ割り込む。
俺が中央の継ぎ目へ寄れば、主は長い腕で押し返す。宮坂さんが逆から回れば、もう一本で道を塞ぐ。俺たちを倒すより、戸へ近づけないことを優先していた。
三度目の薙ぎ払いを岩戸の際でかわした時、主の平らな顔が俺たちを順に向いた。
次の瞬間、主は背後へ右手を伸ばし、右の岩板へ指をかけた。
ごり、と石同士が擦れた。岩板が地面の溝に沿って横へ滑り、中央に肩幅ほどの隙間が開く。
内側から、圧し固められていた空気が一気に噴き出した。
風は狭い隙間で絞られ、正面にいた俺の胸を突いた。靴底が石の上を半歩滑る。左側の宮坂さんも錫杖を地へ突き、身体を低くして耐えていた。
押し出して戸から離すつもりだ。
「沢渡さん、今です!」
俺は右の岩板へ手を向け、息を吸った。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
声が岩板へ通った。
主が押し戻そうとした右の岩板だけが、溝の上で止まる。主の太い腕が力を加えても動かない。隙間は開いたまま残り、風が俺たちを外へ押し続けた。
「止まりました。渡ってください!」
宮坂さんが一歩踏み出しかけた。
だが、左右の岩壁から低い軋みが返った。
止めた岩板の外側で、戸を囲む岩そのものが膨らみ始めていた。灰色の壁が隙間の上下と左右からせり出し、開口を塞いでいく。
「岩板ではありません。周りの壁が動いています!」
宮坂さんが足を止めた。
《不動》は効いている。狙った岩板は動いていない。だから山は、験の外にある壁を動かした。
戸の周囲まで広く止めれば、声をどこまで削るか分からない。帰りの旧道には、まだ閉じる門が残っている。
「最初の手は捨てます!」
俺は《不動》を解いた。
右の岩板がすぐに戻り、中央で噛み合った。風が途切れ、せり出していた壁も止まる。
宮坂さんが俺のそばまで下がり、主を見たまま尋ねた。
「肩と声は」
「肩は上がります。声も残っています」
「なら、予備案へ替えます。私が右脚を崩します。沢渡さんは戸の正面へ」
「分かりました」
主はもう岩板へ手をかけなかった。風だけでは俺たちを退けられないと見て、両腕を広げ、戸の前を塞いでいる。
宮坂さんが右へ走った。錫杖の石突で岩を一度叩き、主の注意を引く。
主の顔がそちらを向いた。右腕が伸び、宮坂さんを掴みに行く。宮坂さんは腕の外へ逃げず、届く寸前まで引きつけてから、岩戸へ向かって斜めに退いた。
主が一歩、追う。
右足が、中央の継ぎ目から二メートルほど手前へ乗った。
「そこです」
宮坂さんが錫杖を返した。
【湧く水、集いて奔流と成せ――】
『雨降り』
濡れた岩肌から水が湧き、一本の流れになって主の右足の下へ走った。
水は巨体を持ち上げなかった。踏み込んだ足と岩との摩擦だけを奪った。
主の右足が戸の方へ滑る。宮坂さんへ振り下ろしかけた上体が半身ぶん回り、平らな胸が岩戸を向いた。
俺は中央の継ぎ目まで踏み込み、左掌を右の岩板へ当てた。
主は倒れなかった。左足を踏み直すと、戸に触れた俺を先に排除しようと、太い左腕を横殴りに振るう。
「カゲ、来い」
白い狼の輪郭がほどけ、俺の身体へ入った。
黒い水路模様が右手首から前腕へ浮かぶ。第二性質だ。
逃げれば、主は戸と俺の間へ戻る。俺は左掌を岩板から離さず、右足を半歩引いた。荷を背負って斜面で踏ん張る時と同じように、踵ではなく足裏全体へ重さを落とす。
主の腕を、右前腕で受けた。
がつん、と骨の内側まで響く衝撃が入る。
黒い線が右前腕から肩へ走り、背中を斜めに抜け、岩板へ置いた左掌まで一息に繋がった。
入った力を消さず、増やさず、身体の中を通す。
右肩で衝撃の一部が弾けた。先の門で痛めた筋が悲鳴を上げ、足元の石が靴底で砕ける。それでも腰を開かず、残った力を左掌から岩板の可動方向へ流した。
どん、と主自身の一撃が戸へ入った。
右の岩板が溝を走った。それ一枚が横へ退いただけで、人一人が通れる幅を越えて中央が大きく開いた。
先ほどと同じように、開口の縁では周囲の壁がせり出し始めた。だが、今度の隙間は広い。塞がれるまでに、二人が抜ける数秒はある。
今度の風は、細い穴から出た時より太く、重かった。
頂側から外へ向かう流れが、戸の正面にいる俺の胸と膝をまとめて押す。左掌が岩板から剥がれ、身体が二歩ぶん外へ運ばれた。
「私が先に渡ります!」
宮坂さんは主の足元から身を返した。錫杖を杖にして風へ身体を伏せ、腰の救助索を繰りながら岩戸の中央へ進む。
一歩ごとに雨具が背後へ引かれた。それでも丈三二〇〇の身体で足を置き直し、閉じ始めた隙間へ肩から入る。
宮坂さんの姿が内側へ消えた。
数秒後、岩戸の向こうで金属が岩を噛む音がした。内壁の深い窪みへ錫杖を横に渡し、その中央へ救助索を回したのが、狭まる隙間から見えた。宮坂さんはさらに自分の腰へ索を通し、両足で内壁を踏んでいた。
「固定しました! 索を取ってください!」
結び目を作った端が、風に煽られながら俺の足元へ滑ってきた。
主は体勢を立て直し、両手を岩板へ伸ばしていた。俺を殴るより、先に戸を閉じるつもりだ。隙間はもう、最初の半分まで狭まっている。
俺は第二性質を解いた。
黒い水路模様が消える。身体からカゲが一拍だけ離れた気配があり、目の端を白いものが横切った。
すぐに、第一性質の風切りへ換装する。
黒い羽筋が靴の縁から脇腹を通り、肩まで駆け上がった。
風は消えない。正面から来る流れだけが俺の輪郭に沿って左右へ分かれ、頬と脇を強く擦って背後へ抜けた。膝への圧力は残っているが、前へ足を出せる。
俺は救助索を両手で掴んだ。
「引きます。三歩です!」
「お願いします!」
一歩目で身体を低くする。二歩目で、動く岩板から左肩を離す。三歩目を踏み切ると同時に、宮坂さんが索を引いた。
戸の縁が背負子のない背中をかすめた。
俺は内側へ転がり込み、両膝と左手を岩へついた。宮坂さんが索を緩めず、俺の上着を掴んでさらに奥へ引く。
直後、二枚の岩板が噛み合った。
腹へ響く音とともに風が止む。
閉じ切る一瞬、外側で主の胸から亀裂が走るのが見えた。両腕、胴、平らな顔の順に崩れ、門前の岩へ戻るように黒い砂となって散っていく。
俺の身体から風切りが抜け、白いカゲが隣へ降り立った。
宮坂さんはカゲではなく、しばらく俺の背中を見ていた。
「沢渡さん、右腕を動かせますか」
「上がります。さっきより痛みますが、指も利きます」
俺が拳を握って見せると、宮坂さんはようやく救助索を外した。
足元で、硬いものが一度跳ねた。
親指ほどの黒い石だった。二片が指の関節のように噛み合い、その境目だけが白い。
同時に、喉の奥から両腕へ熱が落ちた。
知らないはずの言葉と、触れたものを一動作だけ動かす感覚が、筋肉の内側へ刻まれていく。
宮坂さんも自分の掌を見つめていた。
「……二人とも、越えたようですね」
「ええ。《手力》です」
二人とも、閉じた岩板へ背中を預け、しばらく動かなかった。吸って、吐く。三度目でようやく、膝の震えが岩へ伝わらなくなった。戸の向こうからは、もう何の音もしない。
「兄貴の記録の通りでした」
息が揃うのを待って、俺は言った。
「……倒さずに、越えました」
宮坂さんは窪みに渡したままの錫杖へ目をやり、閉じた継ぎ目を一度だけ見上げた。
「ええ。二人で」
戸の外には、まだ片桐班の四人がいる。
俺は白い継ぎ目を持つ石を拾い、記録袋へ入れた。




