第30話 六人と二人
三つ目の石門を抜けてから二十分、旧道は切り立った岩壁に挟まれた袋小路のような広場で行き止まりになっていた。
片桐が手を挙げ、全員が足を止める。
腕時計の針は十二時四十分を指していた。継続判断の期限である十四時三十分まではまだ余裕があるが、目の前に立ちふさがる光景に、誰からも軽々しい声は出なかった。
正面の岩壁をくり抜くようにして、左右二枚の巨大な岩板が噛み合っていた。
高さは三メートルを超え、厚みは先の石門の比ではない。中央には縦に真っ直ぐな継ぎ目があり、左右の地面には岩板がスライドするための溝が深く刻まれている。
新道を塞いでいた一枚岩とは違い、確かに動く構造の「門」だった。だが、隙間から風が吹き出してくる気配は一切ない。
俺は背負子のチェストストラップを外し、一度肩から下ろして右腕をゆっくりと回した。肩の奥と背中の筋肉に、鉛を流し込まれたような重い鈍痛が走る。痛むが、関節の引っかかりはない。拳を握り、指先がしっかりと利くことを確かめる。
「沢渡さん、腕は」
横に立った宮坂さんが、俺の動作を見落とさずに声をかけてきた。
「痛みますが、上がります。握る力も落ちていません」
「無理に隠さないでくださいね。私の声はまだ残っていますが、無制限に使えるわけではありません。帰路の分も勘定に入れます。ここで使い切るわけにはいきません」
「分かっています」
測量担当が三脚を据え、タブレットの画面を片桐へ向けた。
「隊長、岩戸の基部および側面に複数の人工的な擦痕を感知。過去に山素材の楔を打ち込み、てこをかけた跡です」
「見せてくれ」
片桐が画面を覗き込む。その声は、先の門で《石組み》を深く使った代償で、低く濁っていた。
俺は胸ポケットから、防水袋に入れた兄貴の記録の写しを取り出し、該当の頁を開いた。
「兄の記録にもあります。『戸の右脇、幅三寸の亀裂に支点を求めたが、人の腕力では動かず』。……位置が一致しています」
「……物証として符合しますね。単なる記憶や創作ではない」
片桐は端末から視線を上げ、岩戸を見据えた。
「ですが、資源庁班はここまでです。私の声は濁り、手持ちの支柱と楔を失った。何より、先の石門を帰路に通す際、私がもう一度石を組んで幅を保つ必要がある。班員を無事に還す責任がある以上、この状態で未知の立ち合いに自隊を巻き込むことはできません」
「当然の判断だと思います」
宮坂さんが静かに頷いた。片桐はさらに言葉を重ね、俺と宮坂さんを見た。
「あなた方の自主登破を、私が職権で止めることはできない。だが、十四時半の期限以前に、沢渡さんの肩、宮坂先達の残りの声、そして帰路の不安定さを考えれば――明確な策が立たない限り、ここで撤退すべきです」
「ええ、その通りです」
宮坂さんが俺に向き直った。
「沢渡さん、峻さんの記録があるからと、意地で突っ込むなら私は下ります。二人で安全に越え、還る手はありますか」
「手がないなら引き返します。約束ですから」
俺は記録の紙面を指先でなぞりながら、視線を岩戸へ向けた。
「記録から使える事実は四つです。一つ目は、『戸は人の手では動かなかったが、主が触れた時だけ動いた』。二つ目は、『戸が開けば、内側から風が吐く』。三つ目は、兄貴の隊が六人で越えたこと。そして最後に、六人全員が《手力》を継ぎ、その力で内側から戸を開いて戻ったことです」
「ええ。峻さんの隊は六人でした。私たちは二人です」
宮坂さんの指摘に、俺は首を縦に振った。
「同じようには登れませんね。兄貴たちは三人が主を誘導し、二人が楔で位置を整え、最後の一人が飛び込んだ。その手順を、二人で分担して再現するのは不可能です。ただし、越えた後に《手力》で戻れることは記録に残っています」
「なら、六人の手順は捨てましょう。使えるのは、主だけが戸を動かせるという事実と、開けば強風が吹くという点だけです」
「はい。主を倒してから扉を開けるのではなく、主の守りそのものを使って門を動かします」
片桐が岩戸の継ぎ目から、俺たちの立つ広場へ視線を戻した。
「戸隠の頂は岩戸の内側として記録されています。ただ、主と相対するのは門前です。岩戸へ近づけば、戸を越える前でも主との立ち合いになります。今なら旧道へ下がれます」
「なら、主へ手を出す前に撤退判断をします」
宮坂さんの確認に、片桐は頷いた。
俺は岩戸の継ぎ目と足場を見定めながら、言葉を継いだ。
「まず、主に岩戸を動かさせます。隙間ができた瞬間に、俺が《不動》をかけて岩板の動きを一時的に留める。宮坂さんが先に隙間から内側へ渡り、錫杖とロープを固定してください」
「私が先ですね。渡った後、内側からロープを張って固定します。……ですが、あなたが《不動》を解けば、岩戸は再び閉じますし、内側からの猛烈な向かい風が吹き出しますよ」
「俺は《不動》を解いた後、カゲを風切りに換装します。風を割りながら、宮坂さんが張ったロープを使って隙間を跳び越えます」
宮坂さんは顎に指を当て、数秒の間を置いた。
「《不動》で門全体を止め続けられるとは限りません。声の消耗もあります。短時間で私が渡れる幅ができなければ、戸へ入る前に中止です」
「分かっています。それと――もし主の押し込みが足りず、人が通れる幅まで隙間が開かなかった場合の予備案があります」
俺は痛む右肩に手を当てた。
「さっきの門と同じです。俺が第二性質をまとい、主の打撃を右前腕で受け、左掌から岩戸へ流して最後の一押しにする」
「危険すぎます」
宮坂さんの声が鋭くなった。
「先の門は、片桐さんの《石組み》で圧力が減り、敵も小型の紅葉衆でした。主の一撃を受け流すとなれば、あなたの身体が受ける負荷は跳ね上がります。それに、第二性質をまとっている間は、風切りを同時に使えませんよ」
「ええ。だから門を開かせた直後に第二性質を解き、風切りへ切り替える必要があります。条件が厳しすぎるのは承知しています。……宮坂さんが主を正面へ誘導し、《雨降り》で足元を滑らせて門へ身体を向けさせられるかどうかが前提です」
「……分かりました。私が主の摩擦を崩し、門へ誘導する役を引き受けます。ですが、主を正面に向けられない、戸が動かない、あるいはあなたの肩が持たないと判断したら、私が戸を越える前に中止します。越えた後は、二人で抜けるしかありません。いいですね」
「了解です」
二人のやり取りを聞いていた片桐が、小さく息を吸い込んだ。
「……二人だけで越える筋道としては、合理的です。資源庁班は岩戸の手前三十メートル、広場の入口で退路と記録を守ります。通過前に中止して下がる場合は、前衛と後衛が即座に収容する。背後は任せてください」
「ありがとうございます、片桐さん」
片桐が踵を返し、部下たちへ低く命じた。
「前衛は旧道の退路を監視、後衛は無線を維持しろ。測量は岩戸の変形と風圧の変化を記録。通過前に二人が中止の合図を出したら、即座に収容して退路へ下げる」
資源庁の三人が手際よく散り、広場の外縁に防護線を敷く。
俺と宮坂さんは余分な荷を資源庁班の防護線内へ下ろし、身軽な状態で岩戸へ向けて歩き出した。足元には、白いカゲが静かに影を落として追従している。まだ狼の姿のままだ。
岩戸の前、十メートルまで踏み込んだ時だった。
ごご……と、足元の岩盤が微かに震動した。
噛み合った巨大な岩戸の右脇、その壁面から、まるで泥を絞り出すようにして黒い岩肌が盛り上がり始めた。
削り出されたのは、人の輪郭だった。
胴体は無骨な巨岩そのもので、顔には目も鼻もなく、平らな石板のようになっている。飛び道具も、手にした得物もない。
だが、その両肩から生え出た二本の腕だけが、胴体の倍ほども太く、地面を削るほど長く垂れ下がっていた。岩戸を守るためだけに削り出されたような、異様な剛力の像――岩戸の主だ。
主がその太い両腕を地面へ打ち付けると、どしん、と腹の底まで揺らす地響きが走った。
「来ます!」
宮坂さんが錫杖を構え、低く叫んだ。
「沢渡さん、配置へ!」
「了解!」
俺は痛む右肩に力を込め、重心を低く落とした。




