第28話 戸数え
夜明け前の冷気の中、安全域の周囲を改めた前衛警護が戻ってきた。
張られた鳴子の外側、湿った黒土の上に、人の拳ほどもある獣の爪痕と、何かを引きずったような細い溝が残されていたという。だが、忌避香の煙が届く範囲には踏み込まれておらず、鈴も一度も鳴らなかった。
「全員、荷と装備の点検を済ませてください」
片桐の声に従い、それぞれが装備を確認する。
ツェルトを畳み、背負子のバンドを締め直す。昨夜の交代見張りを無事に終え、片桐班の四人にも、俺と宮坂さんにも負傷はない。主要な機材もすべて揃っていた。
「出発します。人間は六人、欠員なし」
片桐が短く告げ、六時ちょうどに窪地を発った。
足元には白いカゲが寄り添っているが、誰の口からもその数についての確認は出ない。関の手形と同じく、この山で数えるべき頭数は人間だけだ。
歩き始めて四十分ほど経った地点で、旧道は切り立った二枚の巨岩の隙間へ吸い込まれていた。
人一人が通れるほどの幅しかない天然の割れ目だ。左右の岩壁が門のように向き合い、頭上の合わせ目から乾いた細石が絶え間なくこぼれ落ちている。
「止まれ。閉じる地形だ」
片桐が手を挙げ、班員が即座に持ち場へ散った。
前衛警護が岩の基部に平たい山素材の楔を打ち込み、後衛支援が両端に同じ素材の受け金を備えた折り畳み式の支柱を狭窄部の角へ噛ませる。岩と岩がこれ以上擦れ合わないよう、物理的に突っ張りを入れる手順だ。
「通過前、六」
後衛支援が並んだ人間を指先で追って声を出した。
片桐班の前衛警護がまず門をくぐり、抜けた先で短槍を構えて周囲を警戒する。続いて測量担当、片桐、宮坂さん、俺の順で、一人分ほど間隔を空けながら狭い岩の間を抜けた。
岩肌に肩が触れた瞬間、ズズ……と耳の奥に響くような低い地鳴りが伝わってきた。岩そのものが、わずかに隙間を狭めようとしている。
最後尾の後衛支援が支柱のロックを外し、素早く身を滑り込ませた。
全員が抜け出たのを確認し、後衛支援が振り返って声を張る。
「通過後、六。全員揃いました」
俺はその一連の流れを見届けながら、兄貴の手記に書かれていた一文を口にした。
「『閉じる道では、先を見る前に後ろを数えろ』……これのことですね」
「そうです。戸数えですよ」
宮坂さんが錫杖を突き直し、岩の門を振り返りながら言った。
「旧道の石門は、人が通る振動や時間の経過で少しずつ隙間を狭めます。先へ急ぐあまり後ろの通過を確かめなければ、挟まれたり、一人だけ向こう側へ取り残されたりする。だから門を越えるたび、前と後ろで人数を合わせるんです。数が合わなければ、決して先へは進みません」
呪いや儀式ではなく、現場で生き残るための実務的な安全作法だった。
だが、旧道の険しさは地形だけに留まらなかった。
八時十五分、涸れ沢を渡る地点の岩陰に、体長一メートルほどの黒いトカゲに似た山のものが二匹へばりついていた。こちらへ喉を鳴らしたが、道を塞ぐ位置ではない。片桐は進路を右手の尾根筋へわずかに迂回させ、刺激せずにやり過ごした。
片桐が端末を取り出し、画面へ手短に入力する。
「八時十五分、接触二回。回避」
九時十分、崩れた石垣の隙間から、泥を固めたような名もない人型が這い出してきた。前衛警護が即座に間合いを詰め、山素材の穂先を胸へ突き入れる。人型は黒い煤となって霧散した。
「九時十分、接触三回。撃破一」
十時五分、上空の濃霧から烏天狗の鳴き声が響き、二羽の影が旋回を始めた。二隊は岩壁の窪みに身を寄せ、タブレットの画面を伏せ、金属の反射を隠して十分間待機した。獲物を見失った影が尾根の向こうへ去るのを見届けてから、再び足を前へ進める。
「十時十五分、接触四回。やり過ごし」
十一時半、二つ目の石門を越えた直後の細道で、木の根元から小型の山のものが飛び出してきた。後衛支援が短槍の山素材の穂先で突き、短く散らした。
二つ目の門でも戸数えは「通過前六、通過後六」で滞りなく完了していたが、端末を操作する片桐の表情は険しかった。
「十一時三十五分、接触五回。……烏天狗を入れて五度です」
片桐が端末を胸ポケットへ戻し、俺たちを振り返る。
「再開直後の旧道調査にしても、遭遇の頻度が高すぎる。昨日の新道消失といい、この旧道一帯の活動が明らかに上がっています」
「ええ。道中の山のものが、これだけ縄張りを詰めてきているのは異常です」
宮坂さんも同意し、錫杖の握りを確かめた。
「警戒を一段引き上げます」
片桐の指示は短かった。
「二隊の間隔を三歩に詰めろ。武器は手元に保持。岩の亀裂と死角は、通過前に必ず前後から確認する」
旧道はいよいよ険しさを増し、標高を上げるにつれて左右の岩壁が迫り、空が細い帯のようにしか見えなくなっていった。
十二時十分。三つ目の石門へ差しかかった。
これまでの門より左右の岩が分厚く、通路は五メートルほど奥へ続いている。頭上の合わせ目からは小石混じりの土砂が断続的に落ち、岩壁同士が押し合うような軋みが谷風に混じって響いていた。
「……閉じる圧力が強いですね」
俺が言うと、片桐が頷いた。
前衛警護が小型灯で入口側の亀裂を照らし、短槍の穂先で届く範囲を探った。後衛支援も脇道と背後を確かめる。土と岩のほかに動くものはなく、カゲもまだ声を立てなかった。
「敵影なし。楔を二本打つ。支柱も二重に噛ませろ。急いで通るぞ」
前衛警護が山素材の楔を左右へ打ち込んだ。後衛支援が、受け金付きの支柱二本を岩壁の間へ固定する。
「通過前、六」
号令とともに、前衛警護が走り抜けた。出口側の死角を確かめ、安全を告げる。続いて測量担当、片桐、宮坂さんが通り、俺も狭い通路へ足を踏み入れた。
岩肌からは冷たい湿気が立ち込めている。両側の岩盤が目に見えないほどの速さで狭まり、空間全体が軋んでいるのが肌に伝わってきた。
俺とカゲが向こう側へ抜け出た瞬間――。
カゲが進行方向ではなく、抜けてきたばかりの門の入口へ鋭く身を翻した。喉の奥から、低い唸り声が漏れる。
確かめたはずの入口側の亀裂、その光の届かなかった奥から、何かが這い出してきた。
痩せこけた人の形をしていた。皮膚は土色に乾き、赤褐色に変色した古い山装束の切れ端が、細い身体へ貼りついている。
一体ではない。三体、四体と、亀裂の暗がりから音もなく現れた。
「紅葉衆です!」
宮坂さんが叫んだ。
狙いは、最後尾を守る後衛支援の身体ではなかった。
一体が腰のザックにある荷紐と札入れへ鉤爪を伸ばし、別の二体が岩壁を突っ張る支柱へ群がった。そのうち片方が固定帯へ爪を掛け、残る一体が支柱の中央へ全身でぶつかる。
「離せッ!」
後衛支援が短槍を横へ振り、山素材の穂先で一体の胸を裂いた。黒い煤が噴き出し、紅葉衆が身を引く。
だが、固定帯を引かれた片側の支柱は、山素材の受け金を岩から外されていた。支えを失った側の圧力がもう一本へ集中する。金属の軸が甲高く軋み、二本目の支柱も横へ弾け飛んだ。
打ち込まれていた楔が、岩の圧力で次々に砕ける。
「退け! 門が閉じるぞ!」
片桐の声に、後衛支援が紅葉衆を振り払って入口へ駆けた。
間に合わなかった。
左右の岩盤が地鳴りを上げて内側へ動く。五メートルの通路が奥から押し潰され、二枚の巨岩が激しい粉塵を吹き上げて噛み合った。
さっきまでの入口には、砂煙を吐く岩の継ぎ目だけが残された。
「後衛がまだ向こうです!」
「戸数えを! 後ろを数えて!」
宮坂さんの鋭い声に、俺は振り返り、立ち並ぶ人間を数えた。
前衛警護。
測量担当。
片桐。
宮坂さん。
そして、俺。
「通過後、五人。後衛支援がいません」
片桐の目が、閉じた門へ向いた。
足りないのは一人。最後尾で周囲を警戒していた、資源庁班の後衛支援だ。
片桐が胸元の無線へ手を伸ばすより早く、共通波へノイズ混じりの声が割り込んだ。
『――隊長! こちら後衛! 無事です、生きています!』
息の切れた声が、途切れながらも確かに届く。
『ですが、門が完全に塞がれました! 周囲の亀裂から、紅葉衆がさらに集まってきています――!』




