第27話 還す手順
旧参詣路は、新道と違って重機が入った痕跡がない。山肌を細く削っただけの道幅は一人半ほどで、右手が切り立った岩壁、左手は雑木が茂る急斜面になって谷へ落ちていた。
先頭を資源庁の片桐班四人が進み、五メートルほど間隔を空けて俺と宮坂さんが続く。カゲは俺の右足元、岩壁の影に身を潜めるようにして、足音もなく爪先を運んでいた。
歩き始めて二十分ほど経ったとき、片桐班の前衛警護が不意に右手を水平に掲げた。
隊列が同時に止まる。
警護の視線は、旧道の上手を覆うブナの梢へ向いていた。細い枝先が風もないのに揺れ、人の掌ほどもある黒い羽が一枚、道へ落ちてくる。
続いて、頭上の枝葉を縫うように、濡れたような黒い影が三つ、旋回しながら高度を落としてきた。
「伏せろ。画面を伏せ、金属の反射を隠せ」
片桐が抑えた声で指示を出す。
「烏天狗だ。上空に三羽いる」
俺と宮坂さんは膝を折り、岩肌に身を寄せた。カゲも腹を地面につけ、耳を伏せる。
烏天狗は裏高尾など各地の低山にもいる、既知の山のものだ。人ほどの胴に烏の翼を持ち、高い位置から獲物へ急降下する。動くものや光るものを執拗に追う性質があり、夜の裏高尾で遭遇したときは、岩に張りついてやり過ごした。
だが、今は昼だった。
木漏れ日の差す旧道の上で、三羽は旋回をやめない。やがて最も大きな一羽が、十数歩先で道を塞ぐ枯れ木の横枝へ音もなく舞い下りた。そこだけ岩壁が浅く窪み、枯れ木一本分ほど道幅が広がっている。
黒い羽毛に覆われた人型の胴。突き出た嘴が、カチリと硬い音を鳴らす。金色の目が、道の中央を見下ろしていた。
「道を退かないな」
片桐が横枝の影を見据えたまま、低く告げた。
「回避できない。定型の対処へ移る」
片桐班の動きには迷いがなかった。
測量担当が電子測量器とタブレットを岩壁の窪みへ寄せ、片桐がその前を塞ぐ。前衛警護は上手、後衛支援は下手、測量担当は谷側へ向き、互いの穂先が交わらないよう半歩ずつ位置をずらした。
三人がザック脇のホルダーから抜いたのは、一メートル半ほどの短い槍だった。柄は軽量なアルミ合金の規格品だが、先端に固定された三十センチほどの穂先だけが、鈍い黒光りを放っている。山素材から削り出された官給品だ。
俺は背負子のチェストストラップを緩め、重心を落とした。
上手、谷側、下手。俺から見ても片桐班の死角は埋まっている。横で錫杖を構えかけた宮坂さんを見る。
「出ますか」
「いえ、待ちましょう」
宮坂さんは静かに首を振った。
「隊形がすでに完成しています。私たちが前へ出れば、かえって穂先の間合いを乱します。退路を固めてください」
「分かりました」
俺はカゲの頭を軽く押し、岩陰に留まらせた。他隊の指揮系統へ不用意に割り込まない。退路を背負い、余計な手を出さないことも隊行動の判断だ。
片桐班の後衛支援が、腰のポーチから拳大の金属筒を取り出した。側面には銀色の反射帯が巻かれている。
後衛支援は手首を返し、枯れ木の下へ向けて筒を滑らせた。
カラン、と乾いた金属音が響く。反射帯が陽光を浴び、鋭い光を跳ね返した。
枯れ木の一羽が、即座に反応した。
甲高い声を上げ、両翼を広げて急降下する。嘴と鉤爪を、転がる金属筒へ向けた一直線の滑空だった。
前衛警護は動かずに引きつける。
烏天狗が筒を掴もうと翼を広げ、速度を落とした。その瞬間、警護が一歩踏み込み、腰の捻りとともに短槍を突き上げた。
黒光りする穂先が、烏天狗の喉元へ深く突き立つ。
硬い衝撃音が谷へ反響した。傷口から黒い靄が噴き出し、烏天狗は羽ばたく間もなく輪郭を崩して散った。
だが、残る二羽は同じ罠に突っ込まなかった。
一羽目が散るのを見た二羽は、上空で左右に分かれた。そのうち一羽が谷側の急斜面へ潜り、木々の間を低く回り込んだ。
枝の下から浮き上がり、下手を受け持つ後衛支援の左後方へ迫る。谷側を見張っていた測量担当だけが、その軌道を捉えていた。
「後衛、谷側!」
測量担当が短く叫ぶ。
後衛支援は声と同時に身を沈め、谷側へ半身を返した。測量担当が下手へ一歩詰め、短槍の穂先で烏天狗の左翼の付け根を横から払う。
山素材の刃が黒い羽を裂き、急降下の軌道が谷側へ流れた。
後衛支援が低い姿勢から、流れてきた烏天狗の胸へ穂先を突き上げる。
二羽目も黒い霧となって散った。
残された一羽は、梢の上で激しく羽ばたいて急上昇した。二羽が散らされたのを見て、明確に不利を悟った動きだった。身を翻し、尾根の向こうへ飛び去っていく。
前衛警護がその影へ穂先を向けたところで、片桐が告げた。
「追うな。隊形を維持し、周囲と負傷、装備を確認しろ」
「前方、異常なし」
「谷側、異常なし」
「後方、異常ありません」
宮坂さんの報告に、片桐は頷いた。
「負傷者なし。主要装備の損耗なし」
二羽目が散った地面には、黒い羽の芯が数本と、親指大の鉤爪が二つ転がっていた。
後衛支援は先に反射筒を拾い、表面に傷がないことを確かめた。それから革手袋で羽と爪を検体袋へ収め、ザックへ戻す。希少な主素材ではないが、道中の山のものが残す通常の素材だ。
片桐は胸ポケットから堅牢な野外端末を取り出し、時刻と場所を入力した。
「十時四十五分、接触一回。烏天狗三羽、撃破二、離脱一。既知の相手なら、この手順で問題ありません」
端末を収めた片桐が、こちらに向き直る。
「沢渡さん、宮坂さん。待機と後方警戒、助かりました」
「手慣れていますね。無駄がありませんでした」
宮坂さんが淡く応じた。
大袈裟な称賛ではなく、実務者としての観察だった。規格化された装備、決まった隊形、死角を補い合う役割分担。個人の突出した腕前ではなく、組織の練度で既知の山へ対処する。資源庁の強みはそこにあった。
片桐は腕時計を確認した。
「十四時半までに最初の安全域へ届かなければ、こちらは調査を打ち切ります」
「私たちも同じです」
宮坂さんが答える。
「では、先へ進みましょう」
三人が短槍を収め、機材を持ち直した。二隊は間隔を取り直し、旧参詣路の奥へ向けて歩き出した。
旧道は高度を上げるにつれて傾斜を増し、沢沿いの湿った岩肌を縫うように細くなっていった。重機はおろか、かつて人が背負って運んだ資材の痕跡さえ、黒ずんだ苔に呑まれている。
烏天狗を退けてから三時間近く、荷の重みが肩の奥へ沈み込み、息が熱を帯び始めたころ、前を行く片桐班が足を止めた。
右手から張り出した巨大な岩壁が、庇のように頭上を覆う窪地だった。幅五メートルほどの平坦地があり、上からの落石を避けられる地形になっている。
片桐が時計を確認し、振り返った。
「十三時四十分。最初の安全域です。この先、次の安全域まで最低四時間。途中に幕営できる平場はありません」
「十四時半の継続判断前ですが、進めば周囲の確認と設営を明るいうちに終えられませんね」
宮坂さんが錫杖の石突を土へ置き、息を整えながら言った。
「私たちはここで止めます。一泊して、明朝から奥へ向かいましょう」
「妥当です。資源庁班も本日はここまでとし、この安全域で幕営します」
片桐の短い指示で、班員たちが動き出す。
測量担当が風向きと地面の傾斜を測り、前衛警護が窪地の周囲を見回る。後衛支援はザックから機材を下ろし、真鍮製の小さなスタンドを平らな石の上へ据えた。
取り出されたのは、指ほどの太さがある茶色い棒状の塊だった。火を点けると、細い煙とともに、焦げた樹脂と薬草の混ざった重い匂いが立ち上る。
「忌避香ですね」
宮坂さんがツェルトの支柱を組み立てながら言った。
「ええ。低山素材を加工した官給品です」
片桐は風下側へもう一つスタンドを置いた。
「通常の山のものが近づく確率を下げます。ただし、縄張りを守るものや血を追うもの、知恵のある相手には当てにならない。風雨でも効きが落ちます」
「完全な結界ではない。だから鳴子と見張りも置く、ということですね」
「そのとおりです」
後衛支援は香を置いただけで作業を終えず、窪地の外周へ黒い細紐を張っていく。紐には小さな真鍮の鈴が間を空けて結ばれていた。
俺は背負子を下ろし、自分たちの設営場所にある転石を片づけ始めた。握り拳ほどの石が何層も重なっており、人の手で退けるには骨が折れる。
隣では、片桐が折り畳みスコップの先を石の下へ差し込み、梃子にして一つずつ端へ転がしていた。
「片桐さん。《石組み》を使えば、足場を均すのは一瞬じゃないですか」
「できますよ」
片桐は作業の手を止めずに答えた。
「ですが、使いません。手と道具で片づく作業に、声を削る理由がない」
「温存ですか」
「それと、再現性です。新道では《石組み》でなければ確かめられない仮説があった。しかし野営の整地は、スコップと人の手があれば誰でもできる。代わりが利くなら、まずそちらを使います」
片桐は浮いた石を両手で持ち上げ、窪地の端へ置いた。
「深く継いだ験者なら、岩壁を動かして石室を作り、地面を一息で均すこともできるでしょう。しかし私の《石組み》は、そこまで深くありません」
「深く継がなかったんですか」
「深さを取りに行かなかった、と言う方が正確です」
片桐の声には、自嘲も悔恨も混ざっていなかった。事実を報告書へ記すような響きだった。
「私が主と立ち合ったとき、班員に退路と側面を支えさせ、必要な札を切り、山素材の道具へ負荷を逃がしました。移動も判断も危険も、私一人ではなく班全体を通した」
片桐はスコップを置き、手袋を外して右の掌を見た。
「山は勇気や覚悟を採点しません。本人を通った分だけを返す。私は深さより、全員が生きて還り、次の班へ渡せる手順を取りました。その結果が、亀裂を広げ、足場を組める程度の《石組み》です」
「後悔はしていないんですね」
「ええ。深く継ぐ一人を作るより、同じ手順で十人を還す方が、私の仕事には価値があります」
片桐の視線が、俺の首元にある高尾と大山の珠へ向き、足元で伏せているカゲへ移った。
「沢渡さんは高尾で単独の立ち合いを越え、《不動》を持ち帰った。だからといって、私の部下に同じ登り方をしろとは命じられません」
「……そうですね」
「その狼も同じです」
片桐の声が、わずかに低くなった。
「あなただけに付き、あなたしか扱えない。個人の特異な力が現場を救うことはあるでしょう。しかし、他人が再現できないものは公的な手順には組み込めない。評価する前に、それが何で、どんな条件で動くのかを確かめる必要があります」
糾弾する響きはなかった。だが、職務としていずれ突き当たる境界を、片桐は正確に引いていた。
俺は足元の石を両手でどかした。
片桐の言うことは筋が通っている。俺が担げる荷でも、別の歩荷へ同じ重さを命じていい理由にはならない。一度できたことと、誰でも繰り返せる手順は別物だ。
ツェルトのペグを打ち終えた宮坂さんが、話の切れ目で歩み寄ってきた。
「片桐さん、外周の見張りは二隊から一人ずつ出しましょう。交代時刻を合わせてもらえますか」
「ええ。初番は、うちの前衛警護を出します」
「こちらからも一人出します。鳴子は共有しますが、異常があれば先に声を掛ける。単独で外へ出たり、追ったりはしない方針で」
「了解です。互いに無駄な消耗は避けましょう」
会話は設営の段取りへ戻った。
やがて、裏山の空が鉛色から深い闇へ沈んだ。
風が凪ぎ、安全域の周囲に漂う忌避香の煙が地表を薄く這っている。
だが、闇の向こうは眠っていなかった。
鳴子のさらに外で、枯れ枝を踏む重い足音が一度だけ響いた。気配は香の匂いを探るように立ち止まり、やがて遠ざかっていく。谷の底からは、何かの低い声が返ってきた。
香があっても、ここが裏の内側であることに変わりはない。
地形を選び、道具を使い、順番に見張りを立てて、ようやく人は山の中で目を閉じられる。
俺は背負子を岩肌へ立てかけ、枕元へ置いて腰を下ろした。
カゲが音もなく歩み寄り、俺の右腕の横で丸くなって顎を前脚へ乗せる。前脚から肩へ走る黒い水路模様は、闇の中でもかすかに光を吸い込んでいた。
俺はその額に軽く触れ、静まり返った旧道の奥を見据えながら、長く息を吐いた。




