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第26話 塞がれた新道

 四月下旬の長野駅善光寺口は、朝の冷気がまだ鋭く足元に残っていた。


 六時四十五分の二分前、改札から出てきた宮坂(みやさか)さんと目が合った。背負ったザックの横には、使い込まれた錫杖(しゃくじょう)がくくりつけられている。


「右腕はどうですか」


「腫れは引きました。握りも戻ってます」


「なら、予定どおり向かいましょう」


 短く確認を交わし、駅前から戸隠(とがくし)行きのバスに乗った。


 表側の山道には、数日前に解除されたばかりの冬季閉鎖の名残として、道脇へ寄せられた残雪が黒ずんで固まっていた。


 だが、目的地の関(せき)をくぐれば季節の勘定は消える。裏の山に春夏秋冬はない。あるのは標高と、地形と、登る人間の息の白さだけだ。


 山腹の林道脇に設けられた戸隠(とがくし)の関で、俺たちは自主登破の届出用紙を提出した。


 窓口の管理員が手元の端末を叩き、眉を寄せる。


「沢渡迅(さわたりじん)さん、宮坂鈴(みやさかすず)さん。二人とも丈と札の条件は満たしていますが、本日の戸隠(とがくし)はおすすめできません。前年通した新道が通行止めです。資源庁の現地班が状況確認に入っています」


「承知しています。旧参詣路の記録と、一泊分の野営装備、一日分の予備食を携行しています」


 宮坂(みやさか)さんが答えた。


「十四時三十分までに旧道の通行可否と安全域での野営の目処が立たなければ、そこで引き返します。天候が崩れた場合と、帰路用の札を切った場合も下ります」


「分かりました。現地班とは情報を共有してください。ただし、指揮系統は別です」


 俺たちは手形を受け取り、鳥居に似た木の門をくぐった。


 境目を越えた瞬間、外の鳥の声と風の抜け方が切り替わる。足元の影から白い毛並みが立ち現れ、カゲが俺の右膝の横に並んだ。前脚から肩には、大山の黒石を取り込んで増えた水路模様が走っている。


 関から小一時間、傾斜の緩い樹林帯を登り詰めたところで、前年の迂回路――新道の取り付きへ出た。


 俺は足を止めた。


「……崩れたんじゃないですね」


 宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)の石突を土に置き、頷いた。


 幅二メートルほど削られていたはずの歩道が、忽然と消えている。


 落石で埋まったのではない。崖が崩れて道が谷底へ滑り落ちたのでもない。


 谷を巻いていたはずの空間に、のっぺりとした灰色の岩壁が立ちふさがっていた。表面には割れ目も、砕けた岩肌の角もない。最初からそこが一枚の岩盤だったように、左右の尾根とつながって口を塞いでいる。


 歩荷(ぼっか)として崩落した道は何度も見てきたが、こんな塞がり方は自然の崩壊では起こらない。


 新道の取り付きに据えられていたはずの道標も消えていた。


 岩壁の前には、濃紺の野外服に山域資源庁の腕章を巻いた四人がいた。


 一人が三脚に据えた電子測量器で壁面を測り、もう一人はタブレットを操作しながら、小型ドローンで壁の上部を撮影している。最後尾の一人は周囲の樹林へ視線を配り、警戒を続けていた。


 壁の正面に立つ長身の男は、手にした電動探査工具を岩肌へ当てている。


 先端に付いた黒い山素材の錐が、甲高い回転音を上げた。


 摩擦音が谷へ反響し、白い粉がわずかに散る。錐は数ミリ削り込んだところで弾かれ、モーターの唸りが空回りした。機械は正常に動いている。山素材の刃を使っても、岩壁の表面に浅い傷をつけただけだった。


「そこまでだ。モーターを切れ」


 男が低く言った。


 三十前後に見える、引き締まった顔立ちの男だった。


 男は探査工具を近くの部下へ手渡すと、振り返って俺たちを見た。視線が俺の珠と背負子(しょいこ)を捉え、次に宮坂(みやさか)さんの錫杖(しゃくじょう)へ移る。


「沢渡(さわたり)さん、それに宮坂(みやさか)さんですね。資源庁の現場監督官、片桐征司(かたぎりせいじ)です。関から入山報告は受けています」


 丁寧だが、事務的な硬さのある声だった。


「ご覧のとおり、前年に私たちが開通させた迂回路は完全に消失しています」


「崩落の形跡がありませんね」


「ええ。上部に崩落源はなく、切通しの両側に置いた基準点も動いていない。入口だけが塞がれています」


「新道を通すのは無理ですか」


「まだ決めません。前年の岩肌と継ぎ目が内側に残り、表面だけを新しい岩が覆った可能性があります」


 片桐(かたぎり)は部下に合図して下がらせ、岩壁の前に立った。


 両足を肩幅に開き、重心を落とす。手袋を外した右手を、探査工具がつけた傷へかざした。


【散る石は寄れ、伏す土は起きよ】


【継ぎ、支え、道を組め――】


『石組み』


 片桐(かたぎり)の足元にあった砂利と、錐が削り落とした岩の欠片が、カチカチと音を立てて浮き上がった。


 右手が横へ動く。小石は扇状に広がって壁へ張りつき、探査工具の傷を中心に、細い列を組みながら上下へ走った。


 継ぎ目があれば、石が入り込んで押し広げる。


 だが、列はどこにも潜り込めなかった。小石が甲高い音を立て、次々に壁の表面を滑り落ちる。片桐(かたぎり)が掌を握ると、削れていた薄い欠片だけが壁から剥がれた。その奥にも亀裂はない。


 片桐(かたぎり)はすぐに右手を引いた。験を止めると、残った石が足元へ落ちた。


「訂正します。表面の被覆ではありません。切通しそのものが、奥まで一枚岩へ置き換わっています。私の《石組み》では、新しい割れ目を作れない」


 片桐(かたぎり)は動いた石と動かなかった壁を一度見比べ、それ以上は声を使わなかった。


「通常の発破は、山に根差した地形へ通りにくい。重機を関から分解搬入して山素材の刃を使い続けても、復旧時期は読めません。現場判断で続けられる作業ではない」


「片桐(かたぎり)さん」


 俺は背負子(しょいこ)の雨蓋から、防水袋に入れた紙束を取り出した。


「兄の――沢渡峻(さわたりしゅん)の記録です。三年前に裏戸隠(とがくし)を越えたときの手記を写してきました」


「沢渡峻さんの」


 片桐(かたぎり)の目がわずかに細くなった。


「新道ができる前、この崖の下を巻いて、沢沿いを通る旧参詣路がありました。取り付きの目印も記録されています。そちらは調べていますか」


「記録の存在は知っています。ですが、未還者の私的記録だけを根拠に、資源庁の班を未確認の旧道へ入れることはできません。落石と地形変化を理由に放棄された道です」


「事実と推測を分けます」


 俺は紙を指で押さえた。


「事実として、新道は消えました。兄の記録には、旧道の取り付きとなる目印が残っています。ここまでは確かです」


 片桐(かたぎり)は黙って続きを待った。


「ここからは推測です。山が人の作った迂回路を拒んで、元の参詣路へ戻そうとしているなら、旧道は今、通れる形になっているかもしれない」


「山が新道を拒んだ、ですか」


 片桐(かたぎり)は岩壁を振り返った。


「私的記録だけなら、手掛かりにしかなりません。ただ、新道が物理的に消えたことは、こちらでも再現できる物証です。旧道へ班を入れる前に、入口までは確認します」


 峻(しゅん)の記録にある二股の杉を探し、岩壁から斜面を数十歩下った。


 杉の根元で、宮坂(みやさか)さんが立ち止まる。


「沢渡(さわたり)さん。これではありませんか」


 落ち葉の間から、苔むした石標が立ち上がっていた。


 側面には、資源庁が付けた白い管理線と番号が残っている。片桐(かたぎり)が表面の土を手袋で払い、数字を確かめた。


「間違いありません。前年、旧道から撤去して、新道の取り付きへ移した道標です」


「さっきの岩壁にはありませんでした」


「ええ。ここへ戻っている」


 石標の根元には、枯れた榊の枝と薄い木片が重ねられていた。木片の削り口だけが白い。


 測量を担当していた班員が、タブレットの記録を確かめた。


「冬季閉鎖中、戸隠(とがくし)の関に入山届は一件もありません」


「撤去記録とも入山記録とも合いませんね」


 片桐(かたぎり)は立ち上がり、俺たちへ向き直った。


「私の見立て違いです。新道の復旧は中止します。これより班の目的を、旧道の現況調査へ切り替えます」


 宮坂(みやさか)さんが錫杖(しゃくじょう)を握り直した。


「私たちは、別隊として旧道へ進みます。登破計画書には旧道の使用も記載済みです」


「承知しています。あなた方の自主登破を止める権限は私にはありません。ただし、昨年の迂回路より危険度は高い。閉塞と、山のものとの遭遇を想定してください」


「ええ。十四時半を継続判断の期限にしています。道が塞がれているか、安全域での野営の目処が立たなければ、そこで引き返します」


「結構です」


 片桐(かたぎり)は宮坂(みやさか)さんの胸ベルトに付いた防水無線を示した。


「共通連絡波を合わせます。退路の状況と引き返し地点は随時交換しましょう。ただし、指揮系統と撤退判断は別です。それでよろしいですね」


「助かります」


 俺が答えると、片桐(かたぎり)は部下たちへ短く命じた。


「隊列を組む。前衛警護を先頭に、旧道の第一確認点まで進む。足元に注意しろ」


 資源庁班が手際よく機材をまとめ、警護役を先頭に動き出した。


 古びた石標の先には、細い道が杉の根のあいだを縫っている。


 俺と宮坂(みやさか)さん、そして足元のカゲは、資源庁班とは別の隊列を保ったまま、旧参詣路へ踏み込んだ。


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