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第25話 二つの振り子

既刊部分を大幅に改稿しました。主な変更点は、山の中でも電子機器を使える設定に変更したことです。

 表の清滝(きよたき)では、木々の芽吹きが冬枯れの枝を覆い始めていた。


 関(せき)を越えた内側、裏高尾(うらたかお)の山腹にある荷扱い用の平場には、四か月前と変わらない乾いた風が吹き抜けている。


 表の高尾山なら行楽客で賑わっている頃合いだが、関を徒歩で越えてここまで入ってくる者は、荷を試す歩荷(ぼっか)か、山の手入れに入る職人くらいしかいない。


 裏大山(うらおおやま)から、四か月が経っていた。


 十二月に負った右腕の裂傷と、無理な詠唱で潰れかけた喉は、年が明ける頃には治っていた。冬の間、俺は高尾周辺の荷運びと救助の嘱託をこなしながら、稼いだ山賃を次の装備と札、旅費の積み立てへ回してきた。


 平場の奥、太いクヌギの横木から二本の麻縄が垂れ下がっている。それぞれの先端に括りつけられているのは、小石と砂利をみっちりと詰めたズダ袋だ。一袋でおよそ三十キロ。この四か月、重さと高さを少しずつ増やしながら、数え切れないほど揺らしてきた試験道具だった。


 縄の脇では、防水ケースに収めた加速度計が記録を続けている。それでも、身体と足場へ逃げた力までは数字だけで読めない。袋を放す高さと振れ幅、白木灰の半円、靴跡も並べて残していた。


「沢渡(さわたり)さん、位置についてください」


 三歩ほど離れた位置で、野帳と鉛筆を手にした宮坂(みやさか)さんが声をかけてきた。


 首元に巻いた手拭いを直しながら、俺は二つの吊り袋のあいだへ身体を入れた。


 足元で伏せていた白い狼が、気配を察して音もなく立ち上がる。


 カゲの前脚から肩口にかけては、細い水路のような黒い螺旋模様が刻まれていた。大山で主の長杖から割れ落ちた、あの黒石の欠片を取り込んで以来、カゲの身体に定着した変化だ。


 冬のあいだ、他人だけが立ち合った主の素材を借り、カゲの前に置いてみたこともあった。白い鼻先で一度匂いを嗅いだだけで、取り込もうとはしなかった。


 俺が同じ立ち合いを通った主の素材にしか反応しない。その規則だけは、この四か月でほぼ確かめられた。


「カゲ、来い」


 俺が短く声をかけると、カゲは俺の右脚へ身体を寄せ、そのまま水が染み込むように輪郭を崩した。


 白い狼の姿が消え、代わりに両腕と背中の皮膚の下へ、ひんやりとした重みが滑り込んでくる。向かい風を切る第一性質ではない。水が流れるように、外からの力を受け流す第二性質だ。


 俺は右半身をわずかに前へ出し、右前腕の骨を立てて構えた。左手は後ろへ伸ばし、静止している二つ目の石袋の側面に、掌をぴったりと添える。


「いきます。高さは三つ目の結び目」


 宮坂(みやさか)さんが手前の石袋を抱え上げ、麻縄の赤布が所定の高さに揃ったところで手を離した。


 三十キロの石袋が弧を描いて迫る。


 袋の腹が、俺の構えた右前腕へ真っ向からぶつかった。


 衝撃が肉を叩いた瞬間、皮膚の下を走る冷気が跳ねた。


 右前腕の接触点から、肩、背中、左腕を通って左掌まで、黒い水路の線が一息に浮き上がる。


 ドン、と胸の奥が詰まるような衝撃が身体を抜けた。


 右の袋は勢いを失い、その場で真下へ垂れ下がった。直後、左掌に触れていた二つ目の袋が、見えない棒で突き飛ばされたように背後へ跳ね上がる。小石同士の擦れる音が、遅れて響いた。


 ズッ、と右の登山靴が土を削った。


「……っ」


 右腕から背中へ、熱い鉄板を押し当てられたような痛みが走る。力が消えたわけではない。身体を通り抜けた力の余波で、踏ん張った脚にも、相応の軋みが残っていた。


「手前は接触点の真下。背後は四つ目の目盛りまで。沢渡(さわたり)さんの後退は靴底半分」


 宮坂(みやさか)さんが淡々と告げ、鉛筆を走らせた。


「……消えたんじゃなく、抜けただけですね」


「ええ。右から入った力が、あなたの身体を通って左の袋へ流れました」


 俺は息を吐き、左手を袋から離した。


 まとっていた冷気を解くと、足元の土の上に白い毛並みが戻る。カゲは平然と四本足で立ち、何事もなかったかのように耳を掻いた。


 右前腕をさする。骨に異常はなさそうだが、皮膚は赤く、肩甲骨の周りが重く強張っている。


「消去でも防壁でもない、受け流しです。綺麗に流せても、通り道になった身体には負荷が残る。足場が滑れば、流す前にあなたが飛ばされます」


「姿勢と足場が作れなきゃ、ただの的だ」


「そこまで分かっているなら、戸隠(とがくし)へ持ち込めます」


 俺は腕をゆっくり回した。


 四か月前は、一度流すごとに肩が外れそうになった。どの角度で受ければ背骨を痛めずに済むか。反対側の接触点へ、いつ力を抜けばいいか。身体に覚え込ませたものが、ようやく実戦の勘定へ入るところまで来た。


「験のほうはどうですか。《雨降り(あめふり)》は」


「水を一筋に絞るところまでは。地面を濡らして足を崩すか、霧にして視界を切るなら、声を食いすぎずに使えます」


「十分です。戸隠(とがくし)までに役割を増やすより、どこまでなら確実か分かっているほうがいい」


 宮坂(みやさか)さんは野帳を閉じ、木に括りつけた麻縄を解き始めた。手際よく石袋を下ろし、口を解いて中の砂利を平場の隅へ戻していく。


 俺も横木から縄を外し、手早く束ねた。四か月間、週に二度は使ってきた麻縄は、すっかり毛羽立って手のひらに馴染んでいた。


 道具を片付け終えると、平場の縁にある平たい露岩の上へ、一枚の書類を広げた。風に煽られないよう、四隅に小石を置く。


「昨日、戸隠(とがくし)の関を預かる還丈院(かんじょういん)の出張所から知らせが届きました。表戸隠の冬季閉鎖が、予定どおり今週で解かれたそうです」


 宮坂(みやさか)さんが岩の横に歩み寄り、紙面を見下ろした。


 冬の合間に調べ、二人で直してきた裏戸隠(とがくし)の山行計画だった。


 裏戸隠(とがくし)・一九〇四。


 俺の認定丈は二四〇〇、宮坂(みやさか)さんは三二〇〇。二人とも入山規定の範囲内だが、一九〇四を越えて還っても丈は更新されない。丈を伸ばすだけなら、まず選ばない標高だった。


「通常なら、日帰りが基本の山ですね」


 宮坂(みやさか)さんが図面の一角を指でなぞる。


「新道を使えば、昼過ぎには関へ戻れる見積もりです。ですが、あなたの計画には一泊分の野営装備と、一日分の予備食が入っている」


「日帰りで抜けるつもりでも、荷は泊まりの前提で組みます」


 俺は図面の脇に添えた、古い記録の写しを指で示した。


「兄貴の――峻(しゅん)の手記の写しです。三年前、新道ができる前に、兄貴は古い参詣路を通っています。『閉じる道では、先を見る前に後ろを数えろ』『岩戸は人の手では動かない』。それと、兄貴の隊は六人だった」


「峻(しゅん)さんの隊は六人。私たちは二人です」


「同じようには登れません。使えるのは、主が触れたときだけ岩戸が動いたという事実だけです」


「二人で越える手が立たなければ?」


「岩戸で引き返します。現地を見ないまま、兄貴の手順を真似るつもりはありません」


 宮坂(みやさか)さんは記録の写しから計画書へ視線を戻した。


「帰りへ残す札は?」


「別の札入れに分けました。帰路へ移るまで切りません」


「荷の割り振りは?」


「登りは六対四で俺が多く持ちます。宮坂(みやさか)さんが先頭に立ち、札をすぐ切れる余裕は残す。昨日の七対三は赤で戻されたので」


「当然です。あなたが鈍れば、荷と地形読みを一度に失います」


 宮坂(みやさか)さんの赤鉛筆で直された数字が、計画書の隅に残っていた。


 俺は息を吸い、胸元に手を当てた。


 襟元から覗く二つの珠。高尾の石と、大山の石。その冷たい感触を指先で確かめながら、言葉を選ぶ。


 四か月前、大山の麓の飯屋で、宮坂(みやさか)さんは荷が決まる前に声をかけてくれと言った。見積もりからなら受けると。


 だが、今日頼むのは戸隠(とがくし)一山きりの案内ではなかった。


「宮坂(みやさか)さん」


「はい」


「戸隠(とがくし)が終わったあとも、俺と一緒に登ってもらえませんか」


 平場を吹き抜ける風が、カゲの白い毛先を揺らした。


 宮坂(みやさか)さんは表情を変えず、言葉の続きを待っている。


「俺は、兄貴が登った山を辿るつもりです。兄貴が何を求めて山へ入り、最後に消えた裏剱で何をしようとしていたのかを知りたい。これからは誰かの荷を待つだけじゃなく、自分で山を選んで、自分の山行として届けを出します。戸隠は、その最初です」


 俺は計画書へ目を落とした。


「俺一人では足りません。俺が選ぶ峰に、先達(せんだつ)として、同行者として来てほしいんです。一回ごとの雇いではなく、その先も」


 宮坂(みやさか)さんは腕を組み、俺を見た。


「登る峰をあなたが選ぶ。それはいいでしょう。峻(しゅん)さんの足跡を追うことも、あなたが決めることです」


「なら――」


「条件があります」


 宮坂(みやさか)さんは俺の言葉を切った。


「撤退するかどうかは、私にも決めさせてください」


「宮坂(みやさか)さんにも」


「ええ。どちらか一人が下りると判断したら、その場で引き返す。あなたが行けると思っていてもです」


 岩の上で、計画書の端が風に鳴った。


「あなたは、隊を還すための勘定はできます。ですが、最後に自分だけを勘定から外す」


 宮坂(みやさか)さんの声は、いつもどおり静かだった。


「大山でも、右腕と声を使い切ってなお、まだ動けるつもりでいました。あなたの無茶に従うつもりはありません。自分を勘定に入れ忘れたときにも、私が隊を下ろせること。それが呑めないなら、戸隠(とがくし)にも、その先にも同行できません」


 計画書を押さえる宮坂(みやさか)さんの指は動かなかった。大山の主の前でも、残る札と還りの道を数え続けていた手だった。


「……分かりました」


 俺は顔を上げた。


「俺か宮坂(みやさか)さん、どちらか一人でも下りると言ったら、下ります。俺がまだ登れると思っていても」


 宮坂(みやさか)さんは数秒、俺の顔を見ていた。


「それなら受けます」


 彼女は計画書を引き寄せ、余白へ鉛筆を走らせた。


 日帰りを続けるか判断する時刻は十四時三十分。それを越えれば安全域で野営し、天候急変か帰路用の札を切った時点で下山する。


 最後に、二人のどちらかが撤退を決めた場合、と一行が加わった。


「厳しいですね」


「山の判断に甘さを残してどうするんですか。私の日当と経費は?」


「三項目です」


 宮坂(みやさか)さんが目を通し、小さく頷いた。


「妥当です。出発は?」


「三日後なら動けます。前日のうちに長野へ入ります」


「明日の朝、右腕に腫れが残っていたら延期します。切符は変更できるものを取ってください」


「異論ありません」


「では三日後、長野駅の善光寺口に六時四十五分。一分でも遅れたら、置いていきます」


「遅れませんよ」


 俺たちは計画書を畳み、防水の袋へ収めた。


 平場の奥で、淡い木漏れ日を浴びながらカゲが小さくあくびをした。立ち上がって伸びをしてから、関の出口へ続く下り道へ鼻先を向ける。


 横木の下には、飛び散った白木灰と、俺が踏ん張った靴跡が残っていた。


 流した力は消えない。身体を通って、別の場所へ動いただけだ。


 俺はザックを背負い、胸紐を引き絞った。


「行きましょう、宮坂(みやさか)さん」


「ええ」


 背中の荷は、冬のあいだより少し重くなっていた。


 踏み出した足の下で、乾いた土が確かな手応えを返す。


 三日後に向かう裏戸隠(とがくし)への道は、もうここから始まっていた。


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