第24話 勘定
湯を浴びて泥を落とし、乾いた木綿の着物に着替えると、ようやく身体の芯に居座っていた冷気が解け始めた。
板の間の火鉢には炭が赤く熾り、鉄瓶が心地よい湯気を立てている。
宮坂さんが髪を手ぬぐいで拭きながら戻ってきて、火鉢の向かい側に腰を下ろした。膝の上には、薄い板と算盤、それに墨の乾いた請求書の束が載せられていた。
「沢渡さん。勘定を合わせましょう」
「早いですね」
「明日の朝には、詰所へ最終報告を出さなければなりませんから」
宮坂さんは板の上に紙を二枚並べた。
「まず、三日前の救助であなたが提供した二千の紙、三十万円分です」
宮坂さんは懐から、朱肉の割印が捺された使用済みの封を四枚取り出した。
「基金からの六割、十八万円は後日、あなたの口座へ振り込まれます。残りの十二万円は、講の負担です。先ほど宿の電話で、帰宅した棟梁と話しました」
「棟梁は何と」
「太刀に傷と亀裂が残ったことも伝えました。それでも、折れずに頂へ納まったなら本望だと。あの若い方には、自分から知らせるそうです」
宮坂さんは淡々と、だがどこか緩んだ口調で続けた。
「振込先は確認できました。明日の朝に送金する、と。こちらが金額の控えです」
宮坂さんは請求書の端へ、電話で確かめた支払日を書き入れた。
「それから、太刀を頂まで上げた追加運賃です」
宮坂さんが新しい紙を指先で示した。
「荷場から頂まで、長物と悪路の分を入れて三万円。使った札の代金は、別に請求します。この条件で棟梁にも了承をもらいました」
「三万円ですか」
「安すぎますか」
「いえ。受け取ります」
「なら、決まりです。こちらも講の費用として承認を取りました。明日の朝、先ほどの十二万円と合算して十五万円が振り込まれます」
宮坂さんはそこで言葉を切り、膝の上の算盤の珠を一つ弾いた。
「問題は、今朝私が用意した千の紙二枚、十二万円分の扱いです」
「俺が崩れで一枚切りました。六万円ですね」
「はい。そしてもう一枚は、使わずに私の手元に残りました」
宮坂さんは懐から、未使用の青い札を一枚取り出し、自分の札入れへ戻した。
「残った一枚は、私の手持ちにします。使った六万円分は、先ほどの運賃と一緒に棟梁へ確認しました。札代として私へ振り込んでもらいます」
「借りた分は、俺の運賃から引く話でしたよね」
「そのつもりでした。でも、札代だけで運賃を超えます。ですから、荷を届けて還るための費用として、分けて頼みました」
俺はポケットから油紙を取り出し、切った封を板の上へ置いた。宮坂さんはそれを、救助で使った四枚とは別の請求書へ添えた。
それから、迷いのない手つきで請求書の末尾に捺印し、紙を畳んだ。
「これで、あなたの分は揃いました。あとは明日の入金を確かめます」
俺は火鉢の上の鉄瓶を見つめた。
救助基金から後日入る十八万円。
講から振り込まれる十五万円。
二千の紙の三十万円が戻り、その上に、太刀を運んだ三万円が残る。
五年間、山で荷を運んでは端数を合わせてきた。基金の戻りを待つことには慣れていたが、持ち出した残りまで受け取る欄は、いつも空いていた。
俺は差し出された控えを、折り目に沿って畳んだ。
「……宮坂さん」
「何でしょう」
「助かりました」
宮坂さんは算盤を片付け、湯呑みに茶を注ぎながら、小さく息を吐いた。
「仕事ですから」
その横顔には、沢の暗がりで遭難者たちを数えていたときと同じ、頑ななまでの実務家の表情が戻っていた。
◆
翌朝の空気は、前日までの重苦しい湿り気が嘘のように澄み切っていた。
冬の朝特有の鋭い冷気が、参道の石畳を白く凍らせている。
俺たちは夜明けとともに関の窓口へ向かった。昨日の立ち合いの報告を書き、二人の登破の登録を済ませる。
それから、稽古のために二人一組の入山届けを出した。
供物の米を一合ずつ升へ納める。
裏山で継いだ力は、関の外の日常では一切働かない。
昨日の頂で身体に刻み込まれたあの新しい型を試すには、もう一度門をくぐる以外に方法はなかった。
敷居を踏み越えると、途端に頭上から冷たい雨が落ちてきた。
杉の木立の陰、人が通らない安全な斜面の窪みへ入ると、宮坂さんが愛用の錫杖を濡れた土へ突き立てた。
「……やってみます」
「どうぞ。離れて見ています」
カゲが足元の影から顔だけを覗かせ、耳をぴんと立てて宮坂さんを見上げた。
宮坂さんは深く息を吸い込み、両手を前へ差し出した。
その立ち姿には、長年札を切り続けてきた案内人としての重心の確かさがあった。
静かに、唇が動く。
声を張り上げるのではなく、喉の奥底から絞り出すような、澄んだ低い詠唱が木々の間を震わせた。
唱え終えた瞬間だった。
頭上から落ちてきていた雨粒が、宮坂さんの両手のひらの上へ向けて、急速に吸い寄せられていった。
細かな飛沫が一瞬にして束ねられ、二本の指ほどの太さを持つ、青白く澄んだ水の螺旋となって空中に立ち昇る。
渦を巻く水流が、鋭い水圧を孕んで唸りを上げた。
強い。
昨日、頂で主が見せた水の一端が、確かに彼女の手の中で形を成していた。
だが、水流は長くは留まらなかった。
宮坂さんが手首を返し、流れを丸く収めようとした瞬間、螺旋の先端が強烈に暴発した。
制御を失った水流が破裂し、宮坂さんの足元の落ち葉と、白い行衣の裾を派手に濡らした。
水滴が霧となって四散し、朝の静けさが戻ってくる。
「……っ」
宮坂さんは濡れた自分の両手を凝視したまま、小さく息を呑んだ。
それから、握りこぶしを作り、ゆっくりと開いた。
「……思った以上に、重いですね」
「俺の《不動》より、ずっと綺麗に出ていましたよ」
俺が言うと、宮坂さんは濡れた前髪を払いのけ、ふっと口元を緩めた。
札入れへ伸ばしかけた手が、途中で止まった。宮坂さんは自分の手を見て、もう一度笑った。
「これが、自分の声ですか」
「今度は、封を拾わなくていいですね」
「声を使い切ったら、結局は札の出番ですよ」
「それは、もう教わりました」
宮坂さんはそう言いながらも、濡れた掌を愛おしそうにもう一度見つめていた。
俺自身の喉の奥には、まだ昨日の疲労が鉛のように沈んでいた。
試射をする余力などどこにもなかったが、彼女の手の中に立ち昇ったあの水の軌道を見ているだけで、自分の身体の奥底にも同じ力が眠っているのだという確信が持てた。
関の窓口へ手形を返却し、俺たちは麓の参道へと戻った。
◆
参道の中ほどにある、古い木造の札屋へ立ち寄った。
軒先には様々な山の素材で作られた札が並び、奥の作業場からは、石を削る乾いた音が規則正しく響いてきている。
「親父さん。珠を二つ、お願いできますか」
俺が声をかけると、奥から前掛けをした老職人が眼鏡を押し上げながら出てきた。
俺は雨具の左ポケットから、宮坂さんは腰の小袋から、昨日の頂で拾った小石を取り出し、布の上に並べた。
職人は指先で石をつまみ上げ、窓からの光に透かしてじっと見つめた。
「……いい大山石だ。角がよく締まっとる。頂の石だな」
「仕上がりに、どれくらいかかりますか」
「一時間ほど見てくれ。二人とも裏大山でいいな」
「お願いします」
職人は短く頷き、石を持って奥の作業場へ引き取っていった。
札屋の軒先のベンチに腰を下ろし、俺たちは湯呑みの茶をすすりながら待った。
やがて奥から戻ってきた職人の手には、二つの丸い珠と、宮坂さんが選んだ細い組み紐が載せられていた。
濃い緑色をした石肌は、丁寧に磨かれて濡れたような光沢を放っている。光の加減によって、奥底に沈んだ深い青が微かに揺らめいて見えた。裏側には、細い鏨の跡で『裏大山』と刻まれている。
宮坂さんは自分の珠を受け取り、掌の上で転がした。
「……初めての、珠です」
宮坂さんは組み紐を指先で丁寧に整え、珠を首から提げた。
俺も自分の首の後ろへ手を回し、黒い組み紐の結び目を解いた。高尾の珠を落とさないよう押さえながら、新しい一粒を通す。
高尾の札屋で仕立ててもらった、黒いチャートの珠。
その隣に、新しく濃い緑の大山石が並んだ。
結び直して首へ戻すと、二つの石が微かに触れ合った。背負子の胸紐より上で、コトリと硬い音がする。
丈は増えなかった。
だが、俺の胸元には、確かに二つ目の峰を越えた証がぶら下がっていた。
◆
宿へ戻ると、宮坂さんが電話で講からの振込を確認した。俺への十五万円と、宮坂さんへの札代六万円。控えの支払日の横に、受領の印が付いた。
宿代を払い、遼と荷をまとめて出たのは昼過ぎだった。参道の角にある古い蕎麦屋へ入る。
店内には出汁の甘い匂いと、茹で上がった蕎麦の白い湯気が満ちていた。
畳の小上がりに腰を下ろすと、間もなく大きな角盆が運ばれてきた。
湯気を立てる山菜蕎麦、出汁で炊いたご飯、それに木綿豆腐の湯豆腐が、所狭しと並べられている。
遼は目の前の丼を引き寄せ、待ちきれない様子で割り箸を割った。
カゲは土間の片隅に伏せ、宿から持ってきた器に入った煮干しと刻んだ干し肉を、無心になって噛み砕いている。
「いただきます」
俺は箸を取り、熱い蕎麦を手繰り上げた。濃いめの醤油出汁が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。豆腐に箸を入れると、しっかりとした弾力とともに大豆の濃い甘みが口いっぱいに広がった。
「沢渡さん」
向かいで湯呑みを置いていた宮坂さんが、箸を止めてこちらを見た。
「何でしょう」
「これから、高尾へ戻るのですか」
「ええ。昼の電車で戻ります。荷の仕事がたまっていますから」
「そうですか」
宮坂さんは小鉢の豆腐を一口運び、それから湯気越しに俺の顔を見据えた。
「今朝、窓口で名前を並べて書いたでしょう」
「ええ」
「昨日の届けの控えを、今朝の登録のときに読み返しました。先達と客ではなく、二人の担ぎ手、と書いてありました。少し妙な感じがしました」
宮坂さんは淡々と、だが淀みのない口調で言った。
「私はこれまで、客を連れて山へ入ることばかりを考えてきました。ですが、昨日分かりました。重い荷を背負って頂を踏むには、私一人では足りません」
「俺一人でも、太刀を折らずに納めることはできませんでしたよ」
「なら、次はどうしますか」
箸を持ったまま、宮坂さんが問いかけてきた。
俺は箸を丼の縁へ置いた。
「次も、来てもらえますか」
宮坂さんは少しだけ目を見張った。
「荷が決まる前に、声をかけてください」
「受けてからでは遅いですか」
「札も、還りの道も要りますから。運賃も」
「なら、次は見積もりからお願いします」
「そこからなら、任せてください」
宮坂さんが短く笑い、再び箸を動かし始めた。
遼が口いっぱいにご飯を頬張りながら、嬉しそうに俺たちの顔を見比べている。
土間の片隅で、カゲが器を綺麗に舐め終え、前脚の上に器用に顎を載せて静かに目を閉じた。
窓の外では、十二月の柔らかい冬の陽射しが、参道の石畳を静かに照らし出していた。
背中の荷は、もうどこにもなかった。
だが、胸元の二つの石の重みと、温かい飯の確かな手応えが、俺の身体の真ん中にしっかりと残っていた。




