第23話 還る
石組みの前に太刀と米を置いたまま、俺たちはしばし動けずにいた。
頭上から落ちてくる雨の勢いは変わらないのに、肌を打つ水滴の冷たさは、どこか遠い皮膚の表面で弾けているように思えた。
「……手当を、先に」
宮坂さんが掠れた声で言った。
荒い息を整えながら、彼女は破れた藁の蓑を肩から外した。袖の裂けた白い行衣が、濡れそぼって腕に張り付いている。
俺は防寒着の右袖をまくり上げた。水弾の飛沫に削られた傷口から、薄い血が雨水に混じって肘へ伝っている。
傷は浅い。だが、冷気に晒したままでは筋肉が強張る一方だった。
懐から取り出した手ぬぐいを歯で引き裂き、左手と口を使って傷口の上から固く巻き締めた。結び目を引き絞ると、鈍い痛みが走って頭の芯が少しだけ冴えた。
「沢渡さん、石を」
息を整えた宮坂さんが、足元の黒い岩盤へ視線を落とした。
「珠の石ですね」
「ええ。採って下りましょう」
石組みの基部、長年の雨流で角の取れた岩肌の隙間に、緑がかった硬い小石がいくつも転がっていた。水に濡れて、奥の青みが黒く冴えている。
俺は親指ほどの大きさのものを一つ拾い上げ、指先で泥を拭ってから雨具の左ポケットへ滑り込ませた。
右ポケットには、先ほど拾った主の残した欠片が入っている。二つが擦れ合わないよう、別の場所へ分けた。
宮坂さんも同じように、平らな小石を一つ選び取って腰の小袋へ収めた。
石段の脇へ戻り、俺は岩の上に置いてあった背負子を拾い上げた。太刀を包んでいた白布と藁を畳んで荷台へ縛り、湯筒と昼飯の包みが外れていないかを確かめる。背負い紐に両腕を通し、胸の金具を留めた。
驚くほど軽かった。
背丈を越える一本の木太刀がないだけで、背中に乗る重心がすっかり消え去っている。
だが、空になった背負子の軽さに反して、自分の両足は鉛を詰めたように重たかった。
「下りましょう。日没まで、急がないと」
宮坂さんが手にした錫杖の石突を岩へ当てた。
段の上を覆っていた白い雨煙の中へ、二人で足を踏み入れた。
◆
石段の二十四段を下り切ると、段の下の冷え切った空気が足元から這い上がってきた。
見上げても、先ほどまで立っていた頂の一枚岩は白濁した霧の奥へ消え、雨音だけが遠くで鳴っている。
「無言の場所を抜けます」
宮坂さんが歩調を緩めずに言った。
「声は出さないでください。足運びだけで行きます」
両脇から迫る切り立った岩壁の隙間へ、今度は下りから踏み入った。
登りであれほど身体をへし折ろうと吹き荒れていた突風は、下りでは背中を押してきた。カゲで分けたのは、胸の前へ来る風だった。背中側へどう回すかを、この疲れた足で探りながら下るわけにはいかない。俺は膝を曲げ、踏み出した足が流されない歩幅へ落とした。
肩口から高く突き出していた太刀の風受けがない。荷台が煽られることもなく、身体の向きを無理に開かずに済んだ。
カゲは俺の足元、右脇の黒土の上を、白い背を低く落として小走りに進んでいく。
風を割る羽筋の気配は、もう身体のどこにもなかった。
足を止めず、靴底が泥に滑る音だけを立てて岩の隙間を抜けた。太刀の先を岩へぶつけないよう身を捻る必要もなく、両側の岩壁が切れるまで歩幅を保てた。
風の唸り声が背後へ遠ざかり、斜面の開けた場所へ出る。
立ち止まる暇はなかった。
薄暮の光は刻一刻と青黒い闇へ沈みかけており、足元の登山道の輪郭が急速に曖昧になっていく。
やがて、斜面を横切る大規模な崩落箇所の手前に差し掛かった。
頭上の脆い岩屑から、雨水を吸った小石がぽろぽろと音を立てて落ち続けている。
主を打ち倒したからといって、山が崩した道が元に戻るわけではない。
宮坂さんが足を止め、俺の胸元を見た。
「沢渡さん、預けた札を出してください」
「ここで切りますか」
「使います。この高さなら、あの紙は働きます。あなたの声はもう使わせません」
俺は雨具の前を開き、札入れのいちばん手前から、青みを帯びた千の紙を取り出した。
油紙の包みを剥ぐ。写されているのは、《不動》だった。親指と人差し指で札の封を挟んだ。
「どこを狙います」
「あの黒い岩の下側です。小石の落ちてくる筋を止めます」
宮坂さんが錫杖の先で斜面の上手を指した。
「広くは止まりません。道が残っている側を、止まったら続けて渡ります」
俺は息を整え、黒い岩の下へ向けて札の封を切った。
声は出さなかった。
指先に、切れた封が残った。
黒い岩の下を転がっていた小石が、斜面の途中で止まった。
その下の泥も、細い踏み跡まで動きを止めている。両脇では、小石が落ち続けていた。
「渡ります」
宮坂さんが先に足を踏み出した。
俺とカゲがその背中に続く。
十歩。
十一歩。
十四歩目で、靴底が安定した岩を捉えた。宮坂さんが脇へ寄り、俺とカゲが抜ける場所を空けている。
その先まで離れてから、背後で小石の落ちる音が戻った。
いつ切れるか分からない札を、渡り終えるまで見張っている余裕はなかった。
「行きますよ」
宮坂さんは振り返りもせず、下り坂へ向けて大股に歩幅を刻み始めた。
俺は切った封を油紙へ包み直してポケットへ押し込み、背負い紐を締め直してその後に続いた。
◆
雨煙の向こうに、荷場の小屋の黒い板屋根が見えてきた。
小屋の軒先から、分厚い蓑を着た老人が姿を現し、雨具を濡らした俺たちの姿をじっと見つめた。
老人の視線が、俺の背中へ向けられる。
荷台の上には、畳まれた白布と藁が小さく括り付けられているだけだった。
長大な太刀の姿は、どこにもない。
「……上げたか」
「上げました」
俺が答えると、老人は深く息を吐き、納め口の薄暗い板の間へ一度だけ目をやった。
「そうか。七本になったままだな」
それ以上、老人は何も尋ねてこなかった。
俺たちも足を止めず、小屋の軒下を通り過ぎて参道の下りへと向かった。
背後で、老人が戸を引く重い音が、雨音に紛れて小さく響いた。
◆
山道を下り切るころには、頭上の木々の隙間に、日没前の光が細く残るばかりだった。
杉の巨木の間を抜け、やがて前方に素通しの木の枠が見えてきた。
裏大山の関だった。
敷居を踏み越えた瞬間、耳の奥で降り続いていた年中やまない雨の音が、ぷつりと途切れた。
冷たい夕風が頬を撫で、街灯の黄色い光が濡れた地面を照らし出している。
カゲが足元の影へするりと潜り込み、姿を消した。
窓口の格子越しに、腕組みをして座っていた堀が、がたりと椅子を鳴らして立ち上がった。
机の脇の石油ストーブが、赤い熱を放って油の匂いを漂わせている。
「……時間内だな」
堀が窓口の小窓を開けた。
俺と宮坂さんは、濡れた二枚の細長い手形を木の台へ差し出した。
堀は二枚の手形を窓口の明かりへ透かし、紙肌に染み上がった線を確かめた。
「到達高度、一二五二。二人とも無事だな」
「無事です」
宮坂さんが答えた。
堀が台帳へ書き込んだ数字は、この山の頂の標高だ。
だが、俺の身体に刻まれた丈二四〇〇も、宮坂さんの三二〇〇も、この数字で増えることはない。
二つの峰を越えても、身体の頑丈さや持久の限界を示す数字は、何一つ変わっていなかった。
「堀さん」
俺は防寒着の右ポケットから小さな欠片を取り出し、油紙を敷いた上へ置いた。
堀の目が、その欠片に留まった。
「……主を散らしたか」
「散らしました」
堀は欠片へ顔を近づけ、向きを変えて確かめた。
「立ち合ったのは、二人だな」
「はい。二人とも、《雨降り》を継ぎました」
宮坂さんの返事を聞き、堀は台帳へ筆を走らせた。欠片の記録を取り、油紙ごと俺の手元へ押し戻す。
「届けの確認は済んだ。正式な登録書類は明日でいい。今夜はさっさと宿へ行って身体を温めろ」
「ありがとうございます」
手形を返却し、俺たちは窓口を離れた。
◆
参道の坂道を下り、御師の宿の格子戸を開けた。
「こんばんは」
土間へ踏み入った瞬間、奥の板の間から激しい足音が響いてきた。
「沢渡さん! 宮坂さん!」
飛び出してきたのは遼だった。
引き戸の取っ手を掴んだまま、俺たちの泥だらけの足元と、無事な顔を交互に見つめ、それから大きく息を吐き出した。
「……本当によかった」
「留守番、助かりました」
俺が言うと、遼は慌てて土間の上がり框へ駆け寄ってきた。
「湯、沸いてます! 着替えも二人分、奥の座敷に広げてありますから!」
土間の片隅には、湯気の立ち上る大きめの木桶が二つ並べられ、洗いたての乾いた手ぬぐいが何枚も積まれていた。
門の前で雪に打たれながら立ち尽くしていた三日前の晩とは、まるで別人の手際の良さだった。
「宮坂さん、先に湯を使ってください」
「いえ、沢渡さんの腕の傷が先です。手ぬぐいに血が滲んでいます」
宮坂さんが俺の右腕を指差した。
「遼くん、救急箱と消毒液を」
「はい、すぐ持ってきます!」
遼が小走りで奥へ消えていく。
俺は背負子を下ろし、土間の上がり框に腰を落とした。濡れた登山靴を脱ぎ、重い靴下を剥ぎ取ると、足の裏からじわりと熱が抜けていくのが分かった。
カゲが影からするりと抜け出し、土間の隅の乾いた板敷きの上へ丸くなった。
遼が戻ってきて、俺の腕の手ぬぐいを手際よく解いた。傷口を湯で洗い、消毒液を染み込ませた脱脂綿を当てられると、染みるような痛みが走る。
「骨は大丈夫そうですね」
宮坂さんが俺の腕を覗き込み、それから自分の破れた行衣の袖を指先でつまんだ。
「私も、湯をいただいてきます」
「ごゆっくり」
宮坂さんが奥へ引き取ったあと、遼が新しい包帯を俺の腕に巻きながら、小声で尋ねてきた。
「……太刀、上がったんですか」
「上がりましたよ。石組みの台座の上に、ちゃんと納めてきました」
「あの人の、節の残ったやつですね」
「ええ」
遼は包帯の端を留め、満足そうに短く頷いた。
「よかった。あの人、駅へ向かう車の中で、ずっと窓の外を見てましたから」




