第22話 雨降り
宮坂さんが先に出た。
俺も右へ足を開き、息を吸った。長杖の先へ、周囲の雨粒が引かれていく。
【立つべき所に、立て】
主が石突を岩へ打ち付けた。
足元を走る水の筋が、俺たちの間で跳ね上がる。宮坂さんは左へ踏み替え、俺は反対側へ抜けた。水の柱が背中をかすめる。
濡れた岩で靴が流れかけた。足を置き直す間にも、長杖の先では水が太く束ねられていた。
【石は流れず、根は退かず】
宮坂さんが間合いへ入る。
長杖が突き出された。彼女は身を沈め、両手で握った錫杖を下から打ち上げた。
ガチン、と硬い音がした。
長杖の先が跳ね、水の槍が頭上へ抜けていく。だが、主はすぐに腕を引き、錫杖を押し下げにかかった。
宮坂さんの膝が折れた。
それでも、杖は落とさなかった。腰を沈め、柄の下へ肩を入れる。真鍮の輪が細かく震え続けている。
【われは、動かぬものなり――】
俺は長杖の先へ目を据えた。集まり直す水、その下の両腕と肩。止めるものは、そこに揃っていた。
『不動』
主の腕が止まった。
長杖も、その先に巻きつく水も動きを失う。広く出た固定は肩から胸元まで及んでいた。
宮坂さんの錫杖も、頭の部分が長杖に触れたまま宙へ残った。
「離して!」
彼女は両手を開き、左へ身体を投げ出した。
俺は反対側へ踏み込んだ。掲げられた長杖の外へ回る。切っ先の水を正面に置いたままでは、振り下ろせない。
右腕の傷から落ちた血が、柄を滑った。
握り直す。左手を柄尻へ寄せ、右手で重さを引き受ける。傷口が引きつれ、肘が落ちかけた。
目の端に、岩へ手を突いた宮坂さんが見えた。武器はまだ、主の長杖に触れたまま止まっている。
もう一度受けてもらうつもりで、ここへ来たのではない。
俺は左足を置き直し、腰の上へ太刀の重さを載せた。
頭上では、水が形を保っていた。どれだけ待てるかは分からない。俺は息を吐き、太刀を振り始めた。
長杖の先から、水が噴き出した。
固定が切れた。
水流は、俺の左肩より高いところを通り抜けた。主の腕が俺のほうへ杖を戻しにかかる。
その柄へ、落ち始めていた錫杖の頭が引っ掛かった。
一拍、長杖が下へ引かれる。
俺は右足まで踏み込み、腰を回した。もう太刀を止められない重さだった。
袈裟に落とした厚い木の刃が、主の左肩を捉え、胸元へ深く食い込んだ。
肉を斬る音ではなかった。
大木を根元から叩き割ったような、鈍く重い破壊音が頂の岩盤を震わせた。
木太刀の背に残された無骨な節が、猛烈な負荷に悲鳴を上げた。
メキリと木肌が裂け、節を貫いて縦に一本の深い亀裂が走る。
だが、折れなかった。
太刀は踏み止まり、主の胸を両断するように振り抜かれた。
主の身体が、打撃の衝撃に耐えかねてくの字に折れ曲がる。
滑らかな顔に、蜘蛛の巣のような無数の亀裂が走った。
その亀裂の隙間から、青白い光が溢れ出す。
主の動きが完全に止まった。
二つの暗い窪みが、俺の顔を、そして胸を撃ち抜いた傷だらけの木太刀を、静かに見つめていた。
そこに敵意はなかった。
ただ、山を越えて荷を運び上げた者たちを見届けるような、静謐な冷たさだけがあった。
主の身体が、肩の傷口からさらさらと崩れ始めた。
肉も骨も血もなく、ただ清らかな水煙となって、雨の中へと解けていく。
手放された長杖も、まとっていた襤褸の衣も、すべてが細かな光の粒となって、降り注ぐ雨の中に吸い込まれていった。
散ったのだ。
山が編み直す、その巡りの中へと。
主のいた場所には、雨に洗われた黒い岩の上に、小さな欠片が一つだけ残されていた。
◆
主が完全に消え去ったその瞬間だった。
頭上から降り注いでいた雨の気配が、ふいに変わった。
冷たく痛烈だった雨脚はそのままなのに、肌を打つ水滴の奥から、別の感触が染み込んできたのだ。
「……あ」
息が漏れた。知らない言葉が、その続きを形にしようとしていた。
主が散った空間から、目に見えない水の巡りが、俺の皮膚を通し、骨の髄へと流れ込んでくる。
同時に、左手の一枚岩の上で膝を突いていた宮坂さんが、はっと息を呑んで自分の両手を見つめていた。
濡れた掌を握り、開き、驚いたように胸元へ当てている。
宮坂さんにも、何かが起きていた。
頭の奥底で、これまで知らなかった言葉の連なりが、確かな型となって結び合わされていく。
この峰の詠唱を、喉がもう知っていた。
――『雨降り』。
その名を、俺の身体が、そしておそらくは彼女の身体も、確かに理解していた。
宮坂さんにとって、これが初めて手にする自分自身の験だった。
「……これが、験……」
彼女が掠れた声で呟き、濡れた顔を上げて俺を見た。
いつもなら先に足元を確かめる人が、まだ自分の掌を見ていた。指を握り直しても、その震えは止まらなかった。
俺は片膝を岩へ下ろし、太刀を腿の上へ横たえた。割れ目にこれ以上、力をかけたくなかった。
喉の奥には重い疲労が沈み、いまこの場で新しい験を試すような余力はどこにもない。
右腕の裂傷が痛み、指先から血が滴り落ちていた。
隣でも、宮坂さんが岩へ足を置き直していた。二人とも、自分で下りなければならない。
丈は増えていない。
俺の二四〇〇も、宮坂さんの三二〇〇も、そのままだ。
だが、俺たちは確かにこの峰の頂を踏み抜き、二人で主との立ち合いを越えたのだ。
カゲが足元の影から滑り出し、濡れた鼻先を俺の垂れ下がった左手へそっと寄せてきた。
白い毛並みは雨を吸って重たそうだったが、その瞳は静かに俺の顔を見上げていた。
「……終わったよ」
呟いて、俺は腿の上の太刀を左手で支え、右手で足元の小さな欠片を拾い上げた。濡れた指先で摘まみ、防寒着の奥のポケットへと滑り込ませる。
それが何であるかを確かめるのは、山を下りてからの仕事だ。
それから、手元の木太刀を見下ろした。白木の肌は、見る影もなく傷だらけになっていた。刃先は削れ、側面には長杖を押し開いた際の打痕が刻まれている。
そして、背の中央には、あの若い男が残させた無骨な節を貫くように、縦に一本の黒い亀裂が走っていた。
あと一撃振るえば、おそらく真っ二つに割れていただろう。
だが、この太刀は折れなかった。
節のところで踏み留まり、一本の太刀としての形を、最後まで保ち続けていた。
宮坂さんが落ちた錫杖を拾い、石突を岩へ置いて立ち上がった。俺も太刀を右腕に抱え、左手を自分の膝へついて腰を上げた。
宮坂さんは錫杖を肩へ預け、空いた手で腰の小袋の紐を解いた。中から取り出されたのは、油紙で丁寧に包まれた米一合だった。
「納めましょう」
「そうですね」
二人は並んで、中央の石組みの前へと歩み寄った。
苔むした四角い石組みの上には、古い注連縄が巻かれていた。その中央に、平らに削られた石の台座が据えられている。
納め口だった。
俺は息を整え、両腕の震えを抑え込みながら、傷だらけの木太刀をその台座の上へと静かに横たえた。
続いて、宮坂さんがその太刀の脇へ、米一合の包みを丁寧に並べて置いた。
太刀が石へ当たった音のあとに、油紙の擦れる小さな音が続いた。
雨が、太刀の背と白い紙包みを静かに洗っていく。
削れた刃先も、黒い打痕も、そして背に残された一本の亀裂も、雨水に濡れて黒々と光っていた。
綺麗に運ぶことはできなかった。
新品のまま届けることもできなかった。
だが、この太刀はここまで上がってきたのだ。
あの若い職人が自ら山の木を選び、節を残させ、祈りを込めて誂えさせた一本が、雨の峰の頂へと確かに届いた。
太刀も米も台座に収まり、静まり返っている。
受領を告げる声も、鈴の音も聞こえない。
ただ、降り注ぐ雨の音だけが、静かに山頂を満たしていた。
俺たちは深く頭を下げ、それからゆっくりと背筋を伸ばした。
納太刀一本。
荷場から頂まで。
その隣には、麓から運ばれた米一合。
五年間の歩荷の仕事の中で、重さよりも先に、手間の見積もりを外した依頼が、いまようやく完了した。
空を見上げると、白く濁った雨煙の向こう側で、わずかに光の輪郭が薄暮の色を帯び始めていた。
日没までに下りなければならない。俺は、石段のほうへ残してきた背負子を見た。




