第21話 立ち合い
石段は、全部で二十四段あった。
最後の一段を踏み抜いた瞬間、靴底が段の縁を越え、平らに均された岩盤へ載った。
風が止んでいた。頭上から落ちてくる雨の粒が、ここでは落下する勢いを失い、細かな飛沫となって淀むように空中に漂っていた。音が吸い込まれていくような、奇妙な静けさだった。
振り返っても、登ってきた石段は見えない。白く濁った雨煙が足首のすぐ後ろまで押し寄せ、下界との境目を完全に塗り潰していた。
一段後ろから上がってきた宮坂さんが、俺の右斜め後ろで足を止めた。愛用の錫杖を濡れた両手で握り直し、切っ先をわずかに下げて前方を睨み据えている。腰の小袋には、麓から担ぎ上げた米一合がしっかりと結び留められていた。
頂の広さは、歩幅にして三十歩四方といったところだった。長年の雨に洗われて平らになった黒い一枚岩が広がり、その中央に、苔むした四角い石組みが据えられている。
あそこが、荷を届けるべき場所だった。
背中の木太刀が、濡れた藁の上から背骨へずしりとした冷気を伝えてくる。
右脇に並んでいたカゲが、喉の奥で低く短く唸った。白い毛並みを逆立て、濡れた鼻先を前方の白さへ向けている。
俺は左手を下ろし、濡れた毛並みに触れながら影へ促した。カゲはその合図に応じ、輪郭を溶かすように足元の影へと静かに沈んでいった。
――来る。
前方の雨煙が、縦に割れた。
足音はなかった。水たまりを踏み分ける跳ね水も上がらない。ただ、白く濁った空間の中から、人の形をしたものが静かに染み出してくるように現れた。
背丈は俺とほぼ同じだった。身にまとっているのは、雨水を吸って黒ずんだ襤褸のような行衣だ。布の端々は長年の水流に削り取られたように解れ、足元へ向かって細い水の筋となって滴り落ちている。
顔には、目も鼻も口も、明瞭な形としては刻まれていなかった。
激流の底で角を落とされた川原の石のように、滑らかに削ぎ落とされた凹凸の奥に、ただ二つ、底の知れない暗い窪みだけがこちらを見据えていた。
手には、身の丈を超える一本の濡れた長杖を提げている。黒く湿ったその材は、木なのか、あるいは長年水底に沈んで錆び果てた鉄なのか判別がつかない。先端からは、絶え間なく清冽な水が湧き出し、杖の身を螺旋状に包み込みながら切っ先へと流れていた。
あれが、裏大山の主だった。
言葉はなかった。名乗りも、咎め立てもない。ただ、山頂の敷居を越えて荷を運び入れた異物に対し、山そのものが排除の意志を向けたのだと、肌の表面が粟立つ感覚で理解できた。
主が、濡れた長杖の石突を、足元の平らな岩盤へ静かに当てた。
カツン、と硬い音が一つだけ鳴り響いた。
その瞬間、足元の一枚岩を満たしていた薄い水膜が、波紋を立てて一斉に逆流を始めた。
「沢渡さん、跳んで!」
宮坂さんの鋭い声と同時に、俺は左へ身体を投げ出した。
直前まで立っていた足元の水が、鋭い槍の穂先のように跳ね上がり、空気を裂いて頭上の空間を突き抜けた。
水煙が弾け、砕けた飛沫が顔を打つ。
冷たい。ただの雨水ではない。刃物のように研ぎ澄まされた水圧だった。
着地した足が、濡れた一枚岩の上でわずかに滑る。
低く身を沈めて靴底のゴムを岩肌へ押し付けたが、背負った木太刀の切っ先が大きく横へ揺れ、肩の結束紐が鎖骨を激しく軋ませた。
この長大な荷を背負ったままでは、身体を支えきれない。
次の瞬間には、主の姿が眼前まで滑り込んできていた。
濡れた長杖が、横一文字に薙ぎ払われる。
先端を巡る水流が、鋭い三日月形の水刃となって飛び散った。
俺が体勢を崩しかけたその正面へ、横合いから金属の鋭い音が割り込んできた。
宮坂さんが踏み込み、両手で構えた錫杖の石突側を斜めに突き出して、水刃の腹を真横から叩き払っていた。
頭の真鍮が激しく鳴り響き、水刃が軌道を狂わされて頭上の空間へと撥ね上がる。
「荷を下ろしてください!」
短く叫びながら、宮坂さんは錫杖の柄を滑らせ、間髪を入れずに長杖の追撃を受け流す体勢を取った。
先達免許五年、丈三二〇〇。
荒れ狂う山で何人もの客を生かして還してきた身体は、咄嗟の白兵戦において俺より遥かに速く、迷いがなかった。
俺はその一瞬の隙に、胸元の結束バックルを親指で弾いた。
パチン、と金具が外れる。
左肩のベルトを抜き、右腕を滑り込ませて、背負っていた全重量を一気に前へ振り下ろした。
重い木枠が岩の上に落ち、鈍い音を立てる。
主は宮坂さんの受け流しを力でねじ伏せようと、長杖の先端から太い水流を噴出させた。
宮坂さんが靴底を滑らせながら二歩後退する。
「くっ……!」
押し込まれながらも、彼女は錫杖の柄を巧みに操り、水の直撃を肩口から後ろへと受け流していた。
その間に、俺は下ろした背負子の荷台から、太刀を縛り付けていた麻紐の結び目を指先で力任せに引き解いた。
雨除けの藁をむしり取り、濡れた白布をまとめて引き剥がす。
露わになったのは、削り出されたばかりの無骨な木肌だった。
背には、あの若い職人が自ら望んで残させた、丸い節がぽつりと一つ。
俺は柄を両手で掴み、木太刀を一気に引き抜いた。
ずしり、と両腕に確かな重みが乗った。
裏山の木で削られた太刀は、雨水を吸ってさらに重量を増していた。
剣道など習ったことはない。
刃筋の立て方も、太刀筋の理屈も知らない。
だが、この五年、俺は山で重い長物を何百本と担いできた。
どの位置を握れば最も力が伝わるか。
どの角度で構えれば、重力に腕の筋肉を食われずに済むか。
荷の重心を測る感覚だけは、身体の隅々まで染み付いていた。
俺は背負子と外した包みを足先で石段寄りの端へ押しやり、木太刀を低く構えて宮坂さんの右脇へと並び立った。
主が長杖を引き戻し、中段に構え直す。
二つの暗い窪みが、手にした太刀の木肌を、そして宮坂さんの構える錫杖を静かに捉えていた。
静寂の膜が、ふたたび張り詰める。
頭上からの雨脚が、目に見えて太くなり始めていた。
◆
主が踏み込んできた。
今度は遠距離からの水流ではない。
間合いを一気に詰め、長杖の切っ先が宮坂さんの胸元をめがけて直線に繰り出される。
速い。だが、軌道は真っ直ぐだ。
「左へ!」
俺が叫ぶより早く、宮坂さんは左へ半歩身体を開いていた。
突き出された長杖の穂先を、錫杖の真鍮の輪が引っ掛けるように絡め取り、外側へと強引に軌道を逸らす。
ガチィン、と金属と水流が擦れ合う甲高い音が弾けた。
逸らされた長杖の切っ先が宙を泳ぐ。
俺はその隙を見逃さず、右から踏み込んだ。
木太刀の切っ先を下げ、重みを利用して下から斜め上へと振り上げる。
払い落とすのではない。
荷の傾きを戻すように、杖の軌道の下へ刀身を潜り込ませ、てこの要領で外側へさらに押し開く。
木太刀の厚い刃が長杖の腹を叩いた。
鈍い打撃音が響き、主の体勢がわずかに右へ傾く。
「入る!」
俺が一歩前へ出ようとした瞬間だった。
足元の一枚岩を満たしていた雨水が、生き物のように俺の両足首へ巻き付いてきた。
冷たい水膜が、登山靴を岩肌へと縫い止める。
主が崩れかけた体勢のまま、長杖を手元でくるりと反転させた。
石突の鋭い一撃が、ガラ空きになった俺の脇腹をめがけて横から薙ぎ払われる。
足が動かない。太刀を戻す時間もない。
そこへ、背後から滑り込んできた影があった。
乾いた木と金属が噛み合う音が、耳の奥で弾けた。
宮坂さんが錫杖の柄を両手で水平に掲げ、俺の脇腹の前で長杖の石突を真横から受け止めていた。
凄まじい衝撃が走る。
丈三二〇〇の身体をもってしても、主の膂力と水の重みを完全には殺しきれず、宮坂さんの両足が一枚岩の上を半間ほど横へ押し流された。
「ぐ、っ……!」
「宮坂さん!」
「足元、切って!」
短く飛ばされた指示に、俺は木太刀の切っ先を真下へ向け、両足の間の岩盤へ力任せに突き立てた。
ガツン、と岩を穿つ衝撃が走り、足首にまとわりついていた水膜が四散する。
拘束が緩んだ瞬間、太刀の先を岩へ置いたまま右手で柄を支え、俺は左手を伸ばした。
押し流されかけていた宮坂さんの腰の帯を背後からぐっと引き戻した。
踏み止まらせる。
荷が崩れかけたときに、背負い紐を瞬時に引き直すあの要領だった。
宮坂さんが足を踏み直す。俺は帯から手を離し、太刀を両手へ戻した。
だが、主は追撃を緩めない。
石突を止められた長杖を引くのではなく、杖の先端から空中へ向けて、大量の雨水を扇状に撒き散らした。
撒かれた飛沫が、空中で一瞬にして親指ほどの太さを持つ無数の水弾へと姿を変える。
散弾のような水流が、二人の頭上から容赦なく降り注いだ。
「下がって!」
宮坂さんが叫びながら錫杖を頭上で激しく回転させる。
真鍮の輪が鳴り、顔へ向かう水弾が砕けた。宮坂さんは錫杖を返しながら、俺と同じ側へ退いた。
だが、防ぎきれない飛沫が彼女の藁の蓑を容赦なく削り取り、白い行衣の袖を切り裂いた。
俺も木太刀の腹を斜めに掲げて頭を庇ったが、太刀の側面にバチバチと無数の小石を叩きつけられたような衝撃が走り、右腕の皮膚を浅く切り裂かれた。
血が滲み、雨水と混じり合って柄へと滴り落ちる。
二人は一枚岩の端、石段の手前まで押し戻されていた。
呼吸が荒い。
肩で息をするたび、跳ね上がった心拍が耳の奥でドクドクと鳴った。
主は追ってこず、中央の石組みの手前へと静かに足を戻す。
その周囲では、降り注ぐ雨粒が螺旋を描いて渦を巻き、近づくものを拒む強固な水の壁を立ち上げ直していた。
強い。
標高は裏高尾の倍以上、千二百を超えている。
この山頂を支配する水の濃密さと、攻防の隙のなさは、あの天狗の暴風とは質の異なる重圧を孕んでいた。
遠距離では水を束ねて射抜かれる。
近寄れば足元を捕らえられ、長杖の重撃と水弾に晒される。
手元にある手札を、頭の中で冷徹に数え直す。
懐には、預かった一枚を含めて三枚の千の紙。
宮坂さんの懐にも一枚。
だが、ここは頂だ。
手元の紙は本領の高さを越えている。まったく働かないわけではないが、主を相手に勝ちを預けられる札ではない。
宮坂さんが言った通り、これは生きて還るための札であって、ここで立ち合いを肩代わりさせるための武器ではなかった。
カゲで割れたのは、身体へ来る風だ。足首を締める水も、杖先から飛ぶ水も防いだことはない。さっき岩陰で呼び戻せなかった力に、次の一撃を預けるわけにはいかなかった。
この攻防に確かに使えるのは、俺の声と太刀、それに隣の錫杖だった。
俺は喉の奥を舌で探った。鉄の味がかすかに混じっている。
三日前の救助で二度。
二日前の稽古で三度。
そして、先ほど崩れを越えるために使った一度。
宮坂さんには奥が濁っていると言われたが、自分の耳ではその濁りを聞き分けられない。
ただ、喉の奥から胸のあたりにかけて、鉛を流し込まれたような重い疲労が沈殿していることだけは分かった。
あと何回、まともに形を保って放てるか分からない。
二度目を撃てる保証はどこにもなかった。
次の一発で、確実に終わらせなければならない。
そして、俺の《不動》は未熟だ。
狙った場所だけに小さく収まってはくれない。
広く、余計な範囲まで巻き込んでしまう。
主の足だけを止めようとしても、足元の岩盤ごと止まる。
だが、足が止まったところで、この主は手にした杖を振るえるし、空中の雨を操って首を刈り取ることができる。
足を止めるだけでは、勝機にはならない。
――では、何を止める。
隣で錫杖を構え直した宮坂さんが、荒い息を殺しながら低く言った。
「沢渡さん。声は」
「出ます。……出しますが、次は一度きりだと思ってください」
「分かりました」
宮坂さんは迷いなく頷いた。
俺は、主の長杖へ寄り集まる水を見た。
「杖と腕を、水ごと止めます。上へ向けられますか」
「跳ね上げます。ですが、押さえておけるのは一度だけです」
宮坂さんが錫杖を低く構えた。
「私が前へ出たら、唱え始めてください。上がってからでは間に合いません」
「左へ抜けてください。俺は反対から入ります」
「止まるまで、杖は離しません。私の手元まで来ますか」
崩れの斜面で、狙った岩の周りまで止まった帯を思い返す。まだ、端をきれいに選べたことはない。
「分かりません」
「なら、離せるうちに離します」
短く答え、宮坂さんは錫杖を握り直した。
俺は木太刀の柄を、血で滑る掌で力任せに握り直した。
太刀の背を確かめると、長杖を押し開いたときの打痕のすぐ先に、あの丸い節が確かに残っていた。
二十年、大山へ初めて入った年に自分の足で山を下りられなかった若者を、何人も見送ってきたという講の歴史。
材木から自分で選び、節を残して無骨に誂えさせたという、あの若い職人の意地。
そして、いま隣で蓑を裂かれて錫杖を構える案内人の覚悟。
そのすべてが、いま俺の手の中にある。
「……行きます」
俺が呟くと、宮坂さんは無言で頷き、足を引いた。




