第20話 無言
宮坂さんの歩き方は、三日前の救助の晩とはまるで別物だった。
あの過酷な夜は、遅れがちな遭難者たちに合わせて何度も足を止めていた。遅いほうの歩幅へ合わせることこそが案内人の仕事だったからだ。
今朝の足取りは、一定の歩幅を寸分違わず保ち続けていた。濡れた岩の段差の手前でだけ、半歩ほど慎重に間を詰める。
それでいて、手にした錫杖は二十歩進むごとに規則正しく鳴り響いた。
三日前の晩、九人の隊列を闇の中で一筋に繋ぎ止めていたのと同じリズムだった。
いま後ろについて歩くのは俺一人だけで、目印の音がなくとも道を踏み外す心配はない。それでも、鳴らす間隔は一切乱れなかった。
俺の背負う背負子は拍子抜けするほど軽かった。括り付けてあるのは、湯筒と予備の油紙、それに昼飯の包みくらいのものだ。
運ぶべき本番の荷は、まだ山の上にある。これほど軽い荷で山を登るのは久しぶりで、余った脚力を持て余しそうになる。
俺はその余った意識で、頭上から降り注ぐ雨の分量を測っていた。
強まるでもなく、弱まるでもない。裏大山の雨は、今朝も変わらず一定の冷たさで木々を濡らし続けていた。
三合目の手前に差し掛かったあたりで、前を行く宮坂さんがふいに足を止めて振り返った。
「声を出してみてください」
「何を言えばいいですか」
「何でも構いません」
「――二千の紙の相場は、三十万円です」
「まだ奥が濁っていますね」
宮坂さんはそれだけ言うと、すぐに前を向き直して歩き出した。それきり、しばらく口を開かなかった。
声の濁りなど、《不動》を継いでひと月の俺の耳ではまったく聞き分けられない。
自分には分からない感覚を他人の耳で品定めされるのは、背負った荷の重さを客に天秤で量られているようで、どうにも座りが悪かった。
カゲは俺の右脇にぴったりと寄り添っていた。
白い毛並みは雨水を吸って重たそうに見えたが、背骨を貫く黒い筋のところだけは、油を塗ったように水滴を弾き飛ばしている。以前ここを歩いたときと何一つ変わらない姿だった。
◆
やがて視界が開け、雨煙に煙る荷場の小屋が見えてきた。片流れの板屋根が、雨を浴びて黒々と光っている。
詰め所の軒先から、分厚い蓑をまとった老人が姿を現した。老人は俺の顔と、背後の宮坂さん、そして差し出された依頼書の半券を順に見比べた。
「……本当に上げるのか」
「上げますよ」
「あんた、高尾の担ぎ屋だろう」
「担ぎ屋です。正式に荷主が付きましたから」
老人は無言で受領印を押し、依頼書の半券を突き返してきた。
それから奥の納め口へ向かい、太い注連縄をくぐって、板の間のいちばん手前に置かれていた一本を両手で恭しく抱え出してきた。
巻かれた白布は、三日前に俺が巻き替えた乾いた替え布のままだった。
老人はその上から、雨除けの藁を一重、手際よく巻き締めてくれた。
「濡れるぞ」
「濡らして構わないものなんですか」
「知らん。だが、濡らさずに済むなら、そのほうがいいに決まっとる」
受け取った木太刀は、記憶していた感触よりもずっしりと重かった。
これから雨水を吸い込めば、重量はさらに増していく。背丈をゆうに越える長物だからこそ、純粋な重さ以上に、風や歩行の反動で頭上が振られることを計算しなければならない。
俺は背負子の荷台へ太刀を垂直に載せ、切っ先を天へ向け、背骨の真裏へ沿わせるように麻紐で固く引き絞った。
重心が、両肩よりも遥かに高い位置へと跳ね上がる。
三日前の朝、麓からここまで担ぎ上げて覚えた荷だ。歩幅さえ微調整してやれば、十分に抑え込める癖だった。
老人は納め口の暗がりへ首を入れ、板の間に残った太刀を指先で数え直していた。
「……七本になったな」
小屋を離れる背中へ、老人の低いつぶやきが雨音に混じって届いた。
◆
荷場から上へ続く斜面は、俺にとって完全に初めての道だった。
裏高尾では頂まで踏み抜いた経験があるが、この裏大山では、これまでの仕事はすべてあの小屋の前で終わっていた。
五年前から担ぎ屋として飯を食ってきたが、ここから先の道幅も、岩肌の滑りやすさも、何一つ身体に刻まれていない。
だが、先頭を行く宮坂さんの背中は、この過酷な道を骨の髄まで知り尽くしている者の歩き方をしていた。
登り始めて間もなく、踏み跡が不自然に横へと逃げていた。
斜面の大規模な崩落箇所の真上を、人ひとり分の危うい踏み幅で横切っているのだ。
頭上の斜面は脆い岩屑で覆われ、降り続く雨水を吸い込んでは、拳ほどの小石をぽろぽろと道へこぼし落としていた。
宮坂さんは崩れの手前で足を止め、じっと頭上を見上げていた。
視線は、落ちてくる個々の石ではなく、岩肌に刻まれた水の筋を追っている。石を数えているのではなく、石が転がり落ちてくる道の癖を読んでいる目だった。
「私一人なら、小石の落ちる合間を見て一気に駆け抜けます」
「俺の背中の荷じゃ、とても走れませんね」
「はい。ですから、止めます」
宮坂さんは、崩れた斜面の上手を指差した。
斜面の中ほど、泥の中から人の頭ほどの黒い岩が突き出している。
「あの岩を狙ってください」
「足元の道ではなく、上の岩ですか」
「あなたの《不動》は、狙った場所よりもずっと広く出ます。落ちてくる石はすべて頭上から来ます。上の岩を起点に止めれば、余剰の範囲が下の道幅まで自然と覆いかぶさります」
試したこともない使い方であり、俺の技術の未熟さをあらかじめ計算に組み込んだ、恐ろしく合理的な判断だった。
俺は宮坂さんが札入れを収めた懐へ目をやった。
そこにある二枚の千の紙なら、この標高でも十分に効果を発揮するはずだ。
「この先で声が足りなくなったら、どうします」
「だから、ここを越えたら声は温存します。札は還りに残します」
宮坂さんは札入れへ手を伸ばそうともしなかった。
俺は腹を括り、斜面の中腹にある黒い岩へ向けて右手を突き出した。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
狙い定めた黒い岩がぴたりと静止し、その周囲の砂利と、足元の泥道までを含めた幅三歩分の帯が、ひとかたまりの巨大な岩盤のように凍りついた。
上から滑り落ちてきた小石が、固定された帯の境界へ触れた瞬間に転がるのをやめる。帯の外側では、小石がバラバラと谷底へ落ち続けていた。
「渡ります。足元の前だけを見てください」
二人と一頭で、距離にしておよそ十四歩だった。
七歩目を踏み出したとき、固定された帯のすぐ外を小石が一つ、カタと音を立てて転がった。
帯の内側はまだ止まっていた。俺は足を緩めず、次の一歩を置いた。
十四歩目を踏み抜き、対岸の安定した岩場へ上がり切ったその瞬間、背後の斜面がジャラジャラと激しい崩落音を返してきた。
験が完全に切れたのだ。固定が保たれる長さは、こちらの都合に合わせて勝手に伸びてはくれない。
「声は出ますか」
「出ますよ」
「濁りがさらに増えましたね」
「さっき言われた通り、ここから上は足で越えます。声は頂に残します」
宮坂さんは俺の喉元を鋭く一瞥し、すぐに前へ向き直った。
「ええ。頂の直下まで、自分の足で越えられる場所は、すべて身体だけで越えてください」
◆
風の唸り声は、その姿を現すよりも遥か手前から耳を打った。
崩落箇所を渡り終えて間もなく、道幅が極端に痩せ細った。両脇から切り立った巨大な岩壁が迫り出し、その狭い隙間の奥から、重低音を響かせる太い突風が絶え間なく押し寄せてくる。
宮坂さんが、岩壁の手前で足を止めた。
「この先に、絶対に声を出してはならない場所があります」
「もし声を出したら、どうなりますか」
「風が、身体をへし折って倒しに来ます」
「倒されたら」
「越えられません。今日という日は、二度と頂へ上がれなくなるということです」
「足音や物音は」
「構いません。禁じられているのは、人間の肉声だけです」
俺は右脇にいるカゲへ目を落とした。雨水に濡れた白い毛並みの中で、背の黒い羽筋だけが水を弾いている。
「高尾で一度、こいつを影へ収めたときに、向かい風が俺の前で割れたことがあります」
宮坂さんの視線が、カゲの背から俺へ戻った。
「験を使ったのですか」
「唱えていません。札も使わず、胸に当たっていた風だけが左右へ抜けました。空の背負子で、数歩進んだだけですが」
「荷を持って使ったことは」
「ありません。声を出せるうちに、ここで確かめたいんです」
俺は、両側の岩壁が迫り出す手前の足元を見た。まだ両足を開ける幅があり、後ろへ下がれば今しがた歩いてきた斜面へ戻れる。風が割れなければ、そこで荷を受け直せばいい。
「分かりました。ここなら話せます。私は荷の頭を見ます」
宮坂さんが一歩横へ退き、錫杖の石突を泥の下の岩へ据えた。
俺は吹き口へ身体を向けた。最初の一吹きが胸板を押し、肩口から高く突き出た木太刀の先端が、遅れて後ろへ引かれる。身体に来る風と、頭上の荷に来る風は別々に肩紐へ響いた。
「カゲ」
白い背へ左手を置き、足元の影へ促す。濡れた輪郭が畳まれていくところで、高尾で胸の前を風が抜けた感触を思い返した。
登山靴のゴムの縁に、黒い筋が回り込んだ。
乾いた和紙が墨汁を吸い上げるかのように、脛から腿、脇腹へと一本の筋が伸びていく。カゲの背骨を貫いていた羽筋の文様が、今度も右肩の後ろへ収まった。
次の突風が迫ってくる。右の視界の端で淡い白が揺らぎ、背中のあたりへ何かがふわりと重なった。振り返って確かめる間もなく、胸を押していた圧が抜けた。
風は俺の身体の手前で左右へ分かれ、両肩の外へ流れていく。高尾の平場で一度だけ起きたことが、いま、荷を背負った身体でも起きていた。
俺は一歩踏み出した。胸は押し戻されない。だが、頭上の太刀は後ろへ揺れ、背負い紐が両肩を引いた。
「太刀の先は、まだ煽られています」
「こっちにも来ています。いったん、枠を支えてもらえますか」
宮坂さんが錫杖を岩壁へ預け、背後へ回った。木枠を支えてもらいながら道端へ背負子を下ろし、俺は肩紐から両腕を抜いた。太刀を留めた麻紐を緩め、布と藁の上から刃の腹を確かめる。広い面を風へ晒さないよう、包みの細い側が前を向くまで回し、荷台の中央から重心をずらさずに上下の紐を締め直した。
背負い直して、もう一度、正面からの風を受けた。胸の前では風が割れ、太刀の揺れも先刻より小さい。消えたわけではないが、歩幅を狭めて腰で受けられる重さに戻っていた。
「これなら進めます。太刀の向きが変われば、また持っていかれますね」
「横からも吹きます。荷を見ますから、私を置いていかないでください」
「そんな足は残っていませんよ」
宮坂さんは木枠から手を離し、錫杖を拾い上げた。
「岩壁が切れるまで、およそ百歩です。あなたが先、私は三歩後ろに付きます。進めなくなったら、近づいて枠を支えます」
「戻るときの合図は」
「背負子を二度叩きます。振り向かず、私に合わせて後ろへ下がってください」
俺は頷き、胸の金具と麻紐をもう一度引いた。黒い筋は肩に残り、カゲの姿は足元にない。狭い道に入ってから狼と並ぶ場所を探す必要もなかった。
◆
岩の隙間へ踏み込むと、風の音が両側の壁で重なった。
胸の手前を左右へ分かれた流れが、両頬の脇をかすめて後ろへ抜けていく。俺は上体を前へ倒し、太刀の頭が振れるたびに、次の足を置くまでの間をわずかに詰めた。
背負った木太刀の重みは変わらず、雨も顔を冷たく打ち続けていた。足元は泥のままだ。風に押し戻されなくなったからといって、普段の歩幅で踏み出せば、濡れた靴底が滑る。
十歩目で右足が指一本ぶん後ろへ流れた。俺は次の一歩を短くし、泥の下の硬いところへ足裏を載せ直した。奪われた歩は勘定に入れず、確実に前へ進んだぶんだけを頭の中で刻んでいく。
背後で真鍮の輪が鳴った。顔を上げて振り向かなくても、宮坂さんが同じ間隔でついてきていることが分かった。
四十歩を数えたところで、岩肌の裂け目から鋭い横風が叩きつけてきた。
細い側を正面へ向けていた太刀の腹が、今度は横から風を受けた。切っ先が大きく振られ、俺は左手を濡れた岩壁へ突き、右の片膝を泥の上へ落とした。
胸の前では、まだ風が割れていた。それでも、頭上の荷に引かれた腰は外へ逃げていく。
背後の錫杖が鳴るのをやめた。すぐに背負子の木枠を後ろから掴まれ、傾きが止まる。肩越しの端に、白い行衣の袖が見えた。
荷の重みを受け直した拍子に、喉の奥から唸り声が出かかった。
五年間、重い荷を担ぎ上げるたびに無意識に吐き出してきた、身体の癖のような呼気だった。俺は奥歯を噛み締め、歯の裏側でその音を押し潰した。
力を入れれば出る声を、今日は出してはいけない。
俺は右手で肩紐を引き、壁を押した左腕と、残った左足で荷の重心を引き戻した。太刀が裂け目の真正面に居座らないよう、膝を上げる前に身体を半歩先へ送る。上体を起こしすぎれば切っ先が岩へ当たる。濡れた壁に指を滑らせながら、頭上の長さを確かめて腰を上げた。
背負子を支えていた手が緩み、離れた。二度叩く合図は来ない。
一歩。今度は、荷がついてくる。
二歩。頭上の揺れを腰の真上で受け止められる。
頭の中の四十へ、いま進んだ二歩を足した。胸の前で風が分かれるぶん、荷を受け直す足を前へ出せる。太刀の向きと足場を選び、後ろから支えてもらって、ようやく重みごと先へ進んだ。
宮坂さんの真鍮の音が、再び三歩後ろへ戻った。
切っ先が一度、岩壁にカツンと当たった。俺は肩を下げて荷の頭を離し、次の裂け目では横から来る雨筋を先に見た。風向きが変わる手前で歩幅を詰め、片足へ全重量が乗る時間を短くする。
両側の岩壁が不意に途切れ、視界が左右へ広がった。
狭い道へ入ってから、正味九十二歩だった。
風の唸り声が背後へ遠ざかる。右肩の後ろにあった黒い感触が薄れ、足元の影がふわりと膨らんだかと思うと、カゲが俺の右脇へ滑り出てきた。
俺は背負い紐を握ったまま、いま抜けてきた岩の間を振り返った。高尾では空の枠で数歩だった。今日は、あの太刀を載せたまま越えてきた。
「……荷があっても、使えましたね」
「荷があると、手も要りますね」
宮坂さんが木枠を支えた左手を握り直した。俺も泥のついた膝へ目を落とし、短く息を吐いた。
「助かりました」
「次は、横から来る前に合わせましょう」
カゲが濡れそぼった白い身体を震わせ、二人の靴へ景気よく泥水を飛ばした。
◆
岩陰の安全な窪みへ入る手前で、俺はもう一度カゲの背へ手を置き、影へ収めてみた。ここには風がない。胸の前を流れが抜けた感触を思い返しても、黒い筋は身体へ上がってこなかった。
手を離すと、カゲは白い獣の姿で影から滑り出てきた。風のある場所で二度できたことを、まだ好きなときに呼び戻せるわけではなかった。
窪みへ身を滑り込ませ、俺たちは雨具の奥から湯筒を取り出して回し飲んだ。
「入口で、風が割れる直前ですが」
立ち上る湯気の向こうから、宮坂さんが切り出した。
「あなたの背中に、白い狼が覆いかぶさるように立って見えました」
「白いのは、視界の端に少し見えただけです。どんな形をしていたかまでは、自分じゃ見えませんでしたよ」
「この狼がそのまま、重なるような形でした」
宮坂さんの視線を追うと、カゲは岩陰の縁に丸くなり、雨を見つめていた。自分の背にあの輪郭があったという。肩の後ろへ黒い筋が収まった感触と、初めて形が繋がった。
「いまの場所を抜けるのに、声は減りましたか」
「《不動》のときの感触はありません。あれだけ歩いても、高尾のときと同じでした」
「札も使わずに済みましたね」
「この先へ残せました」
宮坂さんは短く頷き、湯筒の蓋を締め直した。
「あの向かい風なら、あなたが先。私は荷の頭を見ます。この隊の決めごとに加えておきましょう」
「足元は、俺が見ます」
白い狼を影へ収めるだけでは、いつも同じことが起きるわけではない。だが、胸の前で風が分かれる感触は二度とも同じだった。二度目は、俺が使う場所を選んだ。
太刀を背負うと、どこまで風が逃げ、どこへ重さが残るのか。その境目を、肩と膝が覚えていた。次に同じ荷を受けるときは、最初から数に入れられる。
俺は空いた湯筒をしまい、濡れた背負い紐を両手で引き直した。
◆
岩陰を抜け、傾斜の急な斜面を登り詰めると、山道は突如として人工的な岩の段へと姿を変えた。
苔むした石段の始まりの場所で、宮坂さんがぴたりと足を止めた。
「ここで、荷を確かめます」
見上げてみても、頂の様子はまったく窺い知れない。
二十段ほどの石段が雨煙の中へ続いており、その先はただ一面、白く冷たい雨の幕に閉ざされていた。
宮坂さんは腰の小袋に触れ、結び目を締め直した。麓から運んできた米の包みが、蓑の裾からわずかに覗いている。
「札です」
懐から取り出した油紙の包みは二つ。そのうちの一つが、俺の手へ渡された。
青みを帯びた千の紙が一枚。もう一枚は、宮坂さんが自分の札入れへ戻した。
「頂で、主を相手に当てにする札ではありませんでしたね」
「ええ。下りて、本領の高さへ戻ってから使います。一枚ずつ持っていましょう」
俺は預かった包みを、胸元の札入れのいちばん手前へ差した。これで千の紙は、自前の二枚と預かった一枚で三枚。別に裾の紙が三枚。自前の札は、ここでも当てにできない。
「使いどころは、二人で決めるんでしたね」
「はい。使うところまで、二人で下ります」
俺は札入れを閉じ、雨具の前を重ね合わせた。
「日没までは、あとどれくらいありますか」
「二時間半です」
「帰りの分も、残さないといけませんね」
宮坂さんは頷き、手にした錫杖の石突を段の縁へ置いた。
「唱えるときは、先に言ってください。そちらへ攻撃を通さないように動きます」
「止められないときは、そちらも言ってください」
「言います。黙って倒れられると、隣は困りますから」
俺は背中の木太刀の結束を確かめ、両肩に食い込む背負い紐をぐっと入れ直した。
太刀の背に残された無骨な節が、肩甲骨の裏側でコトリと小さく音を立てた。
カゲが俺の右脇へ並び立ち、石段の先を見据える。
段の上は一面の白さに覆われ、雨の音すら不思議なほど薄く遠のいていた。
俺は一段目の濡れた石の上に、登山靴の底をしっかりと乗せた。
一段後ろで、真鍮の輪が短く鳴った。
残された石段の数を、俺は一歩ずつ数え始めた。




