第19話 同じ荷
「荷は、俺一人で上げます」
俺が告げると、宮坂さんは日付の下へさらさらと言葉を書き足してから、静かに顔を上げた。
「あなたの声は、いまどれくらい残っていますか」
「分かりません」
「それが答えです」
宮坂さんは膝の板を下ろし、俺の正面へ向き直った。
「昨日、あなたは沢で《不動》を二度使いました。二度目は川床を一筋丸ごと止めましたね」
「止めました」
「いま喋っているあなたの声も、まだ奥が濁っています。一晩休んでも、戻りきっていません」
《不動》を継いでひと月の俺の耳では、まだ自分の声の濁りを聞き分けられない。喉の調子も、朝起きたときから普段と何も変わっていないように思えていた。
「札を貸します。この峰の、頂の下で使えるものを私が用意します」
「借りた分は、きっちり運賃の勘定に付けてください」
「付けます。ですが、あなたに手渡して終わりにはしません」
宮坂さんは懐の札入れを膝の上で開き、一瞬だけ中を確かめてすぐに閉じた。
「札の切りどころは、二人で決めましょう。あなたの声が濁っているうちは、私の耳のほうが確かです」
「札を渡すだけなら、この場で俺に預けてくれれば済む話でしょう」
「手渡された札を使いどころも分からずに握りしめ、そのまま山で命を落とした人を、私はこの仕事で何人も見てきました」
俺は返す言葉を見つけられなかった。
荷を目的地へ配ることなら、俺の身体が最も知り尽くしている。だが、配ったあとの札がどう使われ、その人間の命をどう救うかを見届けることなど、これまで自分の仕事の計算に入れたことがなかった。
「……宮坂さんは、頂まで来るんですか」
自然と口から出た問いだった。
「行きます。頂まで」
宮坂さんは札入れを懐へ収めた。
「空手では通れませんよ」
「米を持っていきます。関へ納める分とは別に、頂へ届ける一合を」
「頂には主がいます。立ち合う覚悟が要ります」
「知っています。だから、あなた一人で行く話にはしていません」
膝に置いていた俺の手を、宮坂さんが見た。
「《不動》を使うには、唱える間が要るでしょう。荷を持って、攻撃を受けて、その間まで一人で作るつもりですか」
「作れなかったら、困りますね」
「私も困ります。隣にいる人が、荷を抱えたまま倒れるのは」
俺は膝から手を離した。
「なら、そちらが崩れたときは、俺が支えます」
「お願いします」
言い切ったあと、宮坂さんは小さく息を吐いた。
「今日は登りません。あの五人を麓の駅まで送り届けます。客を無事に娑婆へ還すまでが、案内人としての私の仕事です」
「入山は明日ですね」
「明日の朝、垢離場で待っています。そのとき、もう一度声を聞かせてください」
◆
宿の土間で、俺は遼に五人の見送りに同行するよう伝えた。
「荷場までなら、俺の丈でも入れるんですよね」
背嚢の紐を締めながら、遼が言った。裏山の制度を頭に叩き込んできた者の口ぶりだった。
「入れますよ。丈が九〇〇あれば、あの小屋までは資格の範囲内です」
「なら、俺も――」
「あの小屋で待つのは、いつ終わるか時間の読めない仕事ですよ。俺が何時に戻れるかなんて保証はどこにもありません」
遼の手が止まった。
「雨の中で、戻るかどうかも分からない人間を待ち続けるのがどういうことか、昨日の夜で骨身にしみたでしょう」
門前で雪を被りながら立ち尽くしていた姿が、俺の頭に浮かんだ。遼は唇を噛んで押し黙った。
「あれは門の外だから命があったんです。関の内側で同じことをやれば、ただの体温の奪い合いになりますよ」
遼は背嚢の紐を握りしめたまま、しばらくの間うつむいていた。
やがて深く息を吐き、机の上の空になった湯呑みを二つ重ねて盆へと載せた。
「……乾いた着替え、何人分用意しておけばいいですか」
「二人分です」
「了解です。湯も絶対に切らしませんから」
湯呑みを載せた盆を両手で抱え、遼は背筋を伸ばして土間の奥へと歩いていった。
昨日の朝は背負子の金具を外す向きが上下逆だった男が、いまは留守を預かる者の顔つきをしていた。
◆
関の窓口へ向かい、俺は単身での入山手形に筆を走らせた。
供物の米を一合、木の升へさらさらと落とし入れる。
ただの稽古であっても、山へ入る手続きは何一つ省略できない。
裏山で継いだ力は、関の外の日常では一切働かない。力を試したければ、米を納めて木の門をくぐる以外に道はないのだ。
《不動》を継いだこのひと月、荷下ろしのあとに一度だけ試したことはあった。だが、稽古のためだけに山へ入るのは、今日が初めてだった。
カゲで風を分けるほうも、狙って出せるようにしたかった。だが、昨夜の沢で使い、明日の荷にも当てにするのは《不動》だ。どこまでを、どれだけの間、止められるか。まずはそこを確かめるつもりだった。
一合目の太い杉の木陰で、俺は足元に転がっていた手頃な石を一つ拾い上げた。拳ほどの大きさで、長年の雨に洗われて角が丸く削れている。それを斜面の上へ置き、道の下に人がいないのを確かめてから蹴り落とした。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
斜面を転がり落ちていた石が、空中でピタリと静止した。
門の内側で影から抜け出していたカゲが、立ち止まった石を道の下流からじっと見上げている。
だが、静止したのは狙った石だけではなかった。
石を取り巻く周囲の濡れ落ち葉と、その下にある黒土まで、幅にして二歩分が丸ごと動かなくなっていた。
狙い定めたのは、あの石たった一つだったはずだ。
俺は呼吸を整え、もう一度同じ三行を声に出した。今度は力を込める範囲を、石の輪郭だけに絞り込むよう強く意識して放つ。
石は止まる。だが、周囲の落ち葉も、先刻とまったく同じ広さで硬直した。
範囲の広さは、何一つ変わらなかった。
固定が持続する時間も、いまは数える間だけだ。二度とも、もう少し保たせたいと思ったところで術が切れた。こちらの都合で引き伸ばす加減も、まだ掴めない。
三度目を試みた瞬間、喉の奥から肺にかけて、鉛を流し込まれたような重い疲労が押し寄せてきた。
四度目を放つのは、そこでやめにしておいた。
八年間、重さと歩数と札の枚数という確かな数字だけで生きてきた男が、半日の稽古で掴めた現実はたった一つだけだった。
俺の《不動》は、まだ俺の思い描いた通りの場所には出てくれない。
窓口へ手形を返却して門の外へ出ると、雨の気配は消え去り、静かな雪が再び肩に降りかかってきた。
◆
稽古を終えて宿へ戻ると、宮坂さんは俺の声を一言聞いただけで眉を寄せた。
「戻りきっていないと言ったのは、休んでくださいという意味です」
言い返す言葉はなかった。三度の《不動》で喉の奥から肺まで重たくなった感覚が、まだ残っている。
「明日の入山は延ばします。札と薬を補充して、もう一日置いてから登ります」
俺が先に言うと、宮坂さんは小さく頷いた。
「それでいいです」
湯と飯を腹へ入れて眠る。声は札のように枚数を数えられないからこそ、残りを惜しまず休むしかなかった。
翌日は、札屋と薬種屋を回ったあと、宿の布団からほとんど出なかった。宮坂さんも客を見送った後の身体を休め、荷と帰り道の段取りだけを紙へ書き出していた。
休養を終えた翌朝の垢離場へ下りていくと、宮坂さんはすでに水際に立っていた。
白い行衣の上から分厚い藁の蓑をまとい、愛用の錫杖を杉の太い幹へ立てかけている。足元には、手桶が二つ伏せて置かれていた。
カゲは水際まで歩み寄り、冷たい水流へ鼻先を近づけただけで、身震いして戻ってきた。
「札です」
宮坂さんが懐から取り出したのは、千の紙が二枚だった。
俺の札入れに残っているものと比べると、紙の繊維が微かに青みを帯びている。
「この裏大山の紙です。参道の札屋で、店にある中で、いちばん高いところの材で作ったものを買ってきました」
「頂の一二五二まで届きますか」
「本領は頂より下です。上でもまったく働かないわけではありませんが、主を相手に頼れる紙ではありません」
宮坂さんは二枚の札を、丁寧な手つきで油紙へ包み直した。
「二千の紙なら、もっと強く通るでしょう」
「通ります。ですが、紙の高さだけで主に勝てるわけではありません。それに、札が立ち合いを肩代わりした分は、継ぐ験の深さにならない」
「札で勝ってもですか」
「登破にはなります。験も継げます。ただ、浅い。先の山へ行けば、その浅さで止まります」
「だから、頂では使わない」
「生きて還れないなら別です。そのときは、浅さを払ってでも切ります。この二枚は、そのための札です」
札の相場は、一枚六万円。同じ千の紙でも、俺が高尾で買ったものの倍の値がつく、高いところで採れた紙だった。
二枚で十二万円。あの遭難の晩、俺が自腹で持ち出した金額と寸分違わぬ数字だった。
「持つのは私です」
「そのつもりでいました」
「頂の直下で、一枚ずつに分けます。立ち合いの決め手にはせず、帰りへ残します」
「俺の声と、二人の手足ですね」
「私の錫杖も、数に入れてください」
俺は防寒着を脱ぎ捨て、手桶で二度、首の後ろから冷水を一気に浴びせ落とした。
十二月の水は、二杯目のほうが痛い。一杯目で縮んだ肌に、同じ冷たさがもう一度刺さる。
宮坂さんは背を向け、迷いのない動作で頭から冷水をかぶった。
真鍮の輪が一度だけ微かに鳴り、それきり冷え切った朝の静けさが戻ってきた。
◆
関の窓口で、当番の役人が台帳を広げた。
カゲは門の前で俺の足元へ寄り添い、その白い輪郭を影の中へと静かに沈ませた。
「二名だな。届けの編成は」
「二人で一つの隊です」
宮坂さんが淀みなく答えると、役人は筆を止めて眉を上げた。
「先達と客の組み合わせか」
「違います」
「じゃあ、何の届けだ」
「同じ荷を上げる、二人の担ぎ手です」
役人は少しの間考え込むように俺たちの顔を見比べ、それから台帳へ二人の名を横に並べて書き入れた。
二枚の細長い手形が、木の窓口を滑り出してくる。
供物の米を、升へ二合。
宮坂さんは空になった包みを畳み、腰に結んだ小袋を確かめた。油紙で包んだ別の一合は、頂まで持っていく荷だ。
門には扉がなく、素通しの木の枠が立ち並んでいるだけだった。
この門をくぐっても、もう幹の太さには驚かなかった。敷居を踏み越えた途端に頭上から落ちてくる、年中降り止まない雨の冷たさだけが、前と同じだった。
カゲが足元の影から滑り出し、当たり前のような顔で俺の右脇へ並んだ。
上へ向かって、濡れ光る一本の山道が伸びている。
歩荷は客より早く出て、客より早く下りる。
この八年間、俺が山で守り続けてきた鉄則はそれだけだった。
だが今日は、そのどちらも守るつもりはなかった。
宮坂さんが先に歩き出し、二十歩ほど進んだところで、錫杖の石突を濡れた岩肌へ静かに当てた。
ジャラリ、と二度。間を置いて、また二度。
後ろについてくる客は、もうどこにもいなかった。




