第18話 上げる
膳が下げられて、土間には湯気の湿った匂いだけが残っていた。
カゲは土間の片隅で、前脚の上に器用に顎を載せて静かに目を閉じている。
宮坂さんは、若い男が寝かされている奥の座敷へ入ったきり、しばらく戻ってこなかった。
棟梁が腹の縄の擦れ跡を手のひらで撫でながら、板の間の端からこちらへ向き直った。
「担ぎ屋さん。あの太刀のことだがな」
「荷場の納め口に置いてありますよ」
「聞いたよ。雨で濡れた布まで、新しいのに巻き替えてくれたそうで」
棟梁はそこで言葉を切り、奥の襖へ視線を向けた。
気付けを一本使い、さらに俺の二千の紙で命を繋ぎ止めた若い男が、その向こうの布団で静かに息を立てている。
「あれは、あいつの太刀でね」
俺は手元の湯呑みを置いた。
「大山へ初めて入る年に一本納めるのが、うちの講の昔からの決まりなんだ。二十年、ずっとそうやって繋いできた」
「二十年ですか」
「もとは表の頂に納めてたんだがな。裏の山が開いてからは、ずっとこっちの山だ」
遼が湯呑みから顔を上げた。
「表じゃ駄目になったんですか」
「駄目になった。詳しい理由は俺たちにも分からん。山がそう決めたんだろうよ」
「今年が、あの人の大山初めての年だったんですね」
「材木から自分で選ばせたんだ。裏山の木で、節を残した無骨なやつがいいとあいつが言うもんで、職人に頼んでそう誂えさせた」
遼が湯呑みを両手で抱えたまま、微動だにしなくなった。
今朝、俺が背負って登った太刀の背には、削り落とせば消せるはずの節がぽつりと一つだけ残されていた。
あれは職人の手抜きではなく、あの若い男が自ら望んで残させた節だったのだ。
「来年、また登りに来ればいいじゃないですか」
遼が励ますように言ったが、棟梁は笑わずに力なく首を横に振った。
「来られりゃいいがな。だが、うちの講じゃ、大山へ初めて入った年に自分の足で山を下りられなかった者は、たいてい次の年から来なくなる。この二十年で、そういう若い奴を三人は見送ってきた」
その声に、責める色は何一つ混じっていなかった。
来なくなった三人の名前と顔を、いまでも全員はっきりと覚えている者の横顔だった。
◆
棟梁が奥へ引き取ってから、俺は懐から濡れを防ぐ油紙に包んだ依頼書の半券を取り出した。
高尾の詰所で須貝から受け取った紙だ。講中十二人の名が並び、今年入山した五人の横にだけ丸印が付けられている。
荷の欄に、墨で力強く記された品名。
納太刀 一本。
行き先の欄には荷場と書かれ、今朝、あの小屋の軒先で蓑を着た老人が押した受領の割印が赤く捺されている。
数え直すまでもなく、荷物は指定の場所へ届いた。
荷受の日数も、悪天候の割増も、金銭の勘定は寸分違わず合致している。
記録の上では、俺の仕事は完全に終わっていた。
それでも、あの納太刀を荷場の小屋に置いたままでは、自分の中でどうしても仕事が完結したとは思えなかった。
この五年間、俺は荷に付けられた名前の通りに生きてきた。
米は米として、油は油として、届け先へ降ろした瞬間に責任は消える。
だが、あの納太刀という名を持つ荷物だけは、途中の板の間に置いたままでは、どうしても歩荷の勘定が合わなかった。
◆
翌朝、夜明けとともに関の詰所へ向かうと、堀が壁の板図の前に腕組みをして立っていた。
裏大山の登山道が二本、墨の濃淡で引かれている。昨夜、俺がこの図の前で沢の水嵩を説明した板だ。
「沢渡。昨日の救助の報告書類は昼までに出すぞ」
「その前に、もう一度入山します」
堀が板図から視線を外し、怪訝そうに振り返った。
「入るだと」
「荷場の小屋に置いてきた荷があります。あれを上げに行きます」
「上げるって……どこまでだ」
「頂までです」
堀はしばらくの間、黙って俺の顔を見つめていた。
それから板図の最上部、墨の線がぷつりと途切れている山頂のあたりを、指先で無言のままなぞった。
「登るのか」
「上げるだけです。荷を届けるのが俺の仕事ですから」
堀の指が止まった。
「昨夜の嘱託救助は、六人を門の外へ還した時点で完全に終わっとる。今日お前が入るなら、公務ではなく、自分の届けで入るただの歩荷だぞ」
「そのつもりです」
「荷主は誰だ」
「あの講です」
「あの連中は、お前に頂まで運んでくれとは頼んどらんだろう」
正論だった。俺は反論の言葉を持っていなかったので、ただ口を閉ざして黙っていた。
堀は机の上の冷めきった湯呑みへ手を伸ばし、一口も飲まずに元の場所へ戻した。
「頂を踏める験者が上がってくれば太刀を納めてくれると、荷場の番人が言っていました」
「言うだろうな。あそこの昔からの決まり文句だ」
「その験者は、本当に来ないんですか」
「来るさ。年に何人かはな」
堀は板図へ向けて顎をしゃくった。
「だがな、裏大山は空手じゃ頂を通してもらえん掟だ。だからどんな験者でも、門をくぐるときに何かしらの荷を背負って上がる」
「太刀でなくても通れるんですか」
「背負うものは何だっていい。米一合でも、酒一升でも構わん」
堀は湯呑みの縁を指でなぞった。
「あいつらが担ぎ上げるのは、自分が頂を通るための最低限の荷だけだ」
「いちばん軽い荷を選ぶわけですね」
「当たり前だろうが。頂で主と命懸けの立ち合いをやる人間が、他人の講の重たい太刀まで余計に背負い込んで上がる義理なんざ、どこにもねえよ。一銭の得にもならん」
俺は納め口の薄暗い板の間を思い返した。
長さも太さも削りも違う八本の太刀が、切っ先を揃えて静まり返っていた光景。
あそこに眠る太刀は、誰かがうっかり置き忘れた荷物ではない。
古いものは、頂まで担ぎ上げてくれる人間が現れないまま、何年もの歳月をあの雨の中で留め置かれてきた。そこへ昨日、俺が新しい一本を加えたのだ。
他人の重い祈りを背負って頂へ立つような酔狂な人間が、この山にはずっと現れなかったのだ。
「沢渡」
「はい」
「頂へ太刀を担ぎ上げるなら、主と立ち合う覚悟が要る。それはちゃんと分かって言っとるんだろうな」
「分かっています」
「なら俺が止める筋合いはねえ。また書類が増えるだけだ」
◆
御師の宿へ戻ると、宮坂さんが土間の上がり框に腰を下ろし、熱心に筆を走らせていた。膝の上に薄い板を渡し、その上に紙を重ねている。
濡れた雨具の左胸のポケットからは、昨夜預かった札の封が四枚、小さく頭を覗かせていた。
「沢渡さん。昨日の救助費用の請求書をまとめています」
「早いですね」
「日が経つほど、払う側も受ける側も記憶が曖昧になりますから」
用意されていた紙は二枚あった。一枚は講中宛てで、もう一枚は救助基金へ提出する公的な様式だ。
「あなたの二千の紙三十万円分は、こちらに組み込みました。基金から六割の十八万円、残りの四割にあたる十二万円は、この講の負担金として計上してあります」
「六割は基金から後日口座に振り込まれますが、四割の持ち出し分は、普段は戻ってこないのが普通ですよ」
「普段戻らないのは、請求するべき人間が請求手続きをしてこなかったからでしょう」
ぐうの音も出ない正論だった。
宮坂さんは迷いのない筆致で次の行へ墨を走らせた。
「それから、太刀を頂まで上げる運賃です」
「運賃は要りませんよ」
「そういう話ではありません」
昨夜の沢で聞いた台詞と、まったく同じトーンで返ってきた。
「上げるのでしょう」
「上げます」
「なら、正規の運賃はいくらですか」
俺は口を開きかけて、そのまま閉じた。
背丈を越える長物の割増も、悪路の割増も、頭の中で計算すること自体はできる。だが、その先を導く基準がなかった。
「……相場が分かりません。あの小屋から頂まで太刀を上げる運賃なんて、聞いたことがありませんから」
宮坂さんは筆を置いた。
「なら、私が決めます」
「講の金でしょう」
「講の太刀ですから」
板の上の紙の端が、土間の湯気で微かに波打っていた。
「さっき詰所で堀さんに言われましたよ。荷主に頼まれてもいないのに勝手に運ぶ気かって」
「いま私が頼みました」
宮坂さんは書きかけの紙を裏返し、新しい面へ迷いなく日付を書き入れた。
「納太刀一本、荷場から頂まで。荷主はうちの講です。これで正式な依頼になりました」




