第17話 置いた
対岸の泥の上へ這い上がり、背中の若い男を岩壁の窪みへ慎重に下ろした。
男の唇は完全に紫色へと変色し、浅い呼吸の間隔が恐ろしいほど開いていた。
堀が懐から湯筒を取り出した。だが、男は呼びかけにも反応しない。口元へ運びかけた湯筒を引き、俺のほうを見た。
俺は濡れた手で、胸元の防水の札入れを開いた。二千の紙が一枚。千の紙が二枚。裾の紙が三枚。
この場所で、命の瀬戸際にある男へ使うなら、いちばん上の一枚だ。残りの札では、ここまで冷え切った身体を戻しきれるかを当てにできない。
俺は迷うことなく二千の紙を抜き取り、宮坂の前へ差し出した。
「これを使ってください」
宮坂はすぐには受け取らず、まずその札の裏面に記された朱印を確かめた。
「二千ですね」
「ええ」
「相場で三十万円です」
「相場通りの価値ですよ」
「そういう話をしているのではありません」
宮坂は札を受け取りながら、俺の開かれた札入れの奥へ鋭い視線を滑らせた。上から下へ、三度視線が往復した。
「残りの札では、この冷えには足りませんね」
「気休め程度にはなるでしょうが、命を繋ぐ当てにはできませんね」
「これを使えば、あなたの手持ちの有効札は実質ゼロになります」
「使うべき相手が目の前に倒れているなら、手元がゼロになっても勘定は合いますよ」
「困るのは、下山の途中で次にあなたが落ちたときです」
俺は答えなかった。
宮坂はそれ以上何も言わず、指先で札の封を素早く引き裂いた。そして、荒い息を繰り返す若い職人の雨具の前をはだけ、素肌の胸元へと直接その札を滑り込ませた。
じわり、と男の胸元から淡い湯気が立ち上り、紫だった頬へ劇的に血の気が戻り始めた。広がりきっていた呼吸の間隔が、規則正しい確かなリズムを取り戻していく。
宮坂は引き裂いた札の封を丁寧に折り畳み、自分の左胸のポケットへと深く押し込んだ。
これで彼女のポケットには、元から入っていた三枚の封に、いまの俺の二千の封が加わり、計四枚の封が収まったことになる。
「救助費用の請求はどうしますか」
「公的な救助基金から六割が出ます。十八万円です」
「残りの四割は」
「俺の持ち出しです」
「十二万円ですね」
宮坂は封の収まったポケットを、外側から手のひらで強く一度叩いた。
「切った封は、私が責任を持って預かります。この講の全体の勘定に、後日きっちりと付け回しておきます」
「基金の補填と二重請求になっちまいますよ」
「基金は基金の制度です。あなたが自腹で持ち出した十二万円は、あなた個人の身銭から削るべき筋合いのものではありません」
淀みのないその言い分は、普段俺が荷物の運賃を値切られそうになったときに返す台詞と寸分違わなかった。
ただ決定的に違っていたのは、その計算が自分の利益のためではなく、他人の懐を守るために向けられている点だった。
「……覚えておきますよ」
「口先で覚えると言う人ほど、山を下りたら真っ先に忘れるものです」
宮坂は立ち上がり、若い男の脇の下へ再び手を差し入れた。
「背負ってください。あと二十分で下りられます」
◆
二十分で下りきれるはずがなかった。
宮坂自身、そんな時間で辿り着けないことなど百も承知だったはずだ。
極限状態の遭難者に聞かせる数字は、厳密な正確さよりも、前へ足を踏み出させるための希望でなければならない。
雨で道が消えているというのは、地面そのものが崩落したという意味だけではない。
踏み固められた道と、足を踏み外せば谷底へ滑落する斜面との境界が、泥と雨水によって完全に同じ質感に塗り潰されているという意味だ。
先発の三人に付き添う詰所の若者が手探りで足元を探り、踏み跡を外れるたびに立ち止まって引き返す。
そのわずかな足踏みのたびに、全員の体温が冷気へと削り取られていく。
隊列の中ほどに位置を取った宮坂は、二十歩進むごとに錫杖を規則正しく二度鳴らした。
前を行く先発隊がその音を背中で受け止めて進路のブレを修正し、後ろを行く俺たちがその音を頼りに歩幅を揃える。
六つの灯りが点いていても、雨煙と人の背中は数歩先を容易く隠した。視界よりもその真鍮の音こそが、九人の命を一筋の鎖のように繋ぎ止めていた。
俺は背中の男を時折揺すり直しながら、その金属音の間隔を頭の中で数え続けた。
数えたところで距離が縮まるわけではない。だが、足取りが乱れてもその音は同じ間隔で返ってくる。先発と最後尾の間に、まだ宮坂がいる。
五合目の分岐で本道へ戻り、四合目の尾根筋に差し掛かったとき、道端の中継標に埋め込まれた赤い灯りが、雨の向こうで二度瞬いた。
堀の肩で、沈黙していた山内無線が短く鳴った。
「関、こちら救助班。六名確保。救助側三名を含め九名、全員生存。これより還る」
雑音の奥から返答が届いた。堀は一度だけ目を閉じ、送信ボタンから指を離した。
詰所の若者が、前を向いたまま言った。
「山帰りの道にも、中継を置ければいいんですが」
「置いた。去年な。冬を越す前に、土台ごと山に呑まれた」
「人が通い続けられる道にしか、設備は残せません」
宮坂の声が、錫杖の音の合間から静かに届いた。
電気が動いても、道そのものを人間の側へ繋ぎ止められるわけではない。中継標の赤い灯りは、俺たちが通り過ぎる背後ですぐに雨へ霞んだ。
四合目の平坦な尾根に出たところで、先頭を歩いていた棟梁が、不意にその場へ崩れ落ちるように膝をついた。
「……歩けます」
口ではそう強がりながらも、棟梁自身がなぜ自分の足が止まったのか分かっていないような、呆然とした表情を浮かべていた。
岩棚を発つ前に、堀が腰の縄をずり上がらないよう結び直していた。棟梁が手で押さえておく必要は、もうなかった。
だが、岩棚で長く縄を握り締めていた両腕には、まだ強張りが残っていた。下山のあいだも肩に力を入れ続けて、疲れ切った足がついに止まったのだ。
「棟梁、無理に腕を張らなくていい。もう歩くだけでいいんだ」
堀が棟梁の脇の下へ肩を差し入れ、身体を支え起こした。後発の男には、宮坂が代わって肩を貸した。
そこから先は、九人が互いの足取りに合わせて泥の坂道を下った。
杉の幹の太さが次第に痩せていき、道幅が広がり、頭上を叩いていた雨音が、遠くの波音のように微かなものへと遠のいていく。
素通しの木の門柱が闇の中に浮かび上がったとき、誰一人として歓声を上げる者はいなかった。
安堵の言葉を口にするための呼気すら、全員がそこへ至るまでの泥道ですべて使い果たしていた。
◆
関の門をくぐり抜けたのは、夜の十時を回った頃だった。
詰所の板張りの窓口で、当番の役人が分厚い台帳を広げ、未還着の欄に残されていた六つの名の横へ、無言で一本ずつ赤い線を引いた。
「宮坂。講の五名。全員、還着」
乾いた筆の走る音が、静まり返った詰所に響いた。
門を隔てたこちら側は、音もなく舞い落ちる白い雪の世界だった。ほんの十歩手前まで全身を打ちのめしていたあの猛烈な雨の気配は、境界を越えた途端に嘘のように消え去っていた。
俺の足元の影から、滑らかな白い毛並みがすっと抜け出し、カゲが雪の上に四本の足を静かに下ろした。
裏山の雨の中では影の奥底に気配を潜め、この過酷な救助行が終わる瞬間をじっと待っていたのだ。
門柱の脇に、見慣れた人影が直立していた。
宿で待つように言い含めておいたはずの遼だった。
だが、その姿を見て叱責する気には到底なれなかった。
肩口や背嚢の頭に分厚く積もった雪の白さと、寒さで強張った立ち姿を見れば、この男がどれほどの時間、この吹きさらしの門前で山の上を見つめ続けていたかは一目瞭然だった。
「……乾いた着替え、六人分揃えてあります」
掠れた声で、遼が言った。
「二十人分くらい要りそうな顔をして突っ立ってますよ、あなたは」
「湯も、一度も切らしてません」
「上出来です。満点ですよ」
背負っていた若い男を詰所の板の間へ下ろすと、堀が奥から分厚い毛布を何枚も抱えて持ってきた。
俺は肩から外した背負子の結束紐をほどき、人間を括り付けるための形から、本来の荷を運ぶための標準の組み方へと手早く戻した。
手持ちの札入れからは有効な二千の紙が消え、いまや千の紙二枚と裾の紙三枚だけが寂しく残されていた。
行きに背負ったものと、帰りに背負ったもの。
担ぎ屋として背中に乗せた重みの種類はまるで違っていたが、道具の役目はどちらも同じだった。
◆
御師の宿の土間へ戻ると、あの手つかずだった夕飯の膳が、ようやく綺麗に片付けられたところだった。
カゲは土間の隅、雪の当たらない乾いた板敷きの上で、真っ白な身体を小さく丸めて微睡んでいた。
棟梁は腹の縄が食い込んで赤く腫れ上がった皮膚を女将に見咎められ、手酷く叱られながら生姜湯を啜っていた。
二千の札を使った若い職人は奥の座敷の布団へ運ばれ、泥のように深い眠りに落ちている。
残りの三人は、手拭いで髪を拭いながら、明日の帰りの段取りについて低い声で話し合っていた。
遼が湯気の立つ湯呑みを両手で抱え、俺の座る上がり框の隣へ腰を下ろした。
「……あの、太刀って、結局どうなるんですか」
土間の奥で、食器を下げていた女将の手がピタリと止まった。
俺の手元も止まった。
「納め口の小屋に置いてありますよ」
「でも、あれ、納めに行ったんじゃないんですか」
「置いたんです」
「置くのと納めるのって、何か違うんですか」
同じであるはずがなかった。
俺が引き受けた仕事は、あの長大な木太刀を荷場の納め口まで運び上げ、番人の割印をもらうところで完全に完結している。
受領の判ももらい、運賃の勘定も合っている。
だが、あの太刀は依頼書の品名に、はっきりと「納太刀」と墨で記されていたのだ。
ただそこへ運び込んで横たえることと、山の頂へ至って神仏へ奉納することは、言葉の文字も意味もまるで違う。
「あの講の人たちは、頂までは登れませんからね」
「じゃあ……誰が上げるんですか」
「次に、あの峰の頂を踏める人間が現れたときですよ」
「その人って、いつ来るんですか」
土間のいちばん奥で、棟梁が湯呑みを板の間へコトリと置く音がした。
俺には、その問いに返す答えがなかった。
頂の直下、雨に洗われ続けるあの簡素な小屋には、いま八本の木太刀が切っ先を揃えて並んでいる。
いちばん奥に眠る一本は、巻かれた白布が焦茶色に変色し、擦り切れた繊維の隙間から黒ずんだ木肌が透けて見えていた。
蓑を着た老人は言っていた。自分がこの小屋の番を任される前から、あの太刀はずっとあそこにあるのだと。
土間の入口で、宮坂が静かに草履を脱いでいた。
濡れた雨具を脱ぎ、揃えた草履の向きを整えながら、彼女の視線がふとこちらへ向けられた。
だが、何も言わなかった。
言われるまでもなく、勘定の合わない重い荷物が一つ、あの雨煙る山の上に置き去りにされたままであることくらい、担ぎ屋の俺には痛いほど分かっていた。




