第16話 水
宮坂は、六人の陣容を迷いなく二つに切り分けた。
自力で歩ける三人が先発。棟梁と、岩棚で縄の端を確保していた比較的体力の残っている二人だ。
残りの三人が後発。宮坂自身と、気付けを含ませても震えの止まらない若い職人、そして風上に立って風除けになっていた男が一人。
「予備のヘッドライトは棟梁に。作業灯は先発と最後尾へ、一つずつ回してください」
堀が片眉を跳ね上げた。
「お前の灯りはどうする」
「私は隊列の中ほどに入ります。前後の光が雨で見えなくなったら、錫杖を鳴らします。灯りだけに間隔を預けないでください」
六つある灯りを、足元を探す先頭と、遅れやすい最後尾へ厚く配る。自分は光の薄い中央へ入り、前後を音で繋ぐつもりなのだ。
詰所の若者が先発の三人へ付き添う。予備のヘッドライトは棟梁の額へ巻き、携帯作業灯の一つは若者の胸元へ留めた。もう一つは、人を背負う俺の背負子へ固定する。
俺は額のヘッドライトを下へ向け、その白い光で宮坂の手元を観察した。指の腹が血の気を失って真っ白に変色している。何時間もの間、雨の中で凍える他人の身体を必死に支え続けていた手だ。
「宮坂さん、背負いますよ」
「私は歩けます」
「あなたが歩けるのは分かっています。背負うのは、そっちの若い人です」
宮坂は一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐに視線を若い男の青ざめた横顔へ落とした。
「……起きていますか」
男は掠れた息を吐き、首を微かに縦に振った。動いてはいるが、反応の速度が明らかに鈍い。
「背負ってください。お願いします」
俺は背負子の木枠から荷台の受け金具を素早く外し、長尺の木太刀を運ぶための結束紐を、生身の人間を背中に固定するための縛り方へと組み替えた。
今朝、二メートルを越える木太刀を載せて登った背負子だ。
荷物の重心なら目測と手のひらの感覚で寸分違わぬ位置へ固定できるが、生きた人間はそうはいかない。
担がれる側の意識が薄れれば、その脱力や揺れに合わせて、背中の重心が無軌道に暴れ回ることになる。
男の脇の下から結束紐を通し、俺の胸の前で固く引き絞って結び合わせた。背負い上げた瞬間、男の体重に雨水を吸い込んだ衣服の重さが加わり、肩へずしりとのしかかった。背中の身体はぐったりと脱力していた。
今日一日、寒さと恐怖と疲労によって、この若い職人の反応がどれほど鈍くなっているかが、背骨を通じて生々しく伝わってくる。
手元を確認し終えた俺は、携帯作業灯を背負子の左肩へ留めた。自分のヘッドライトがずれても、背負った男の身体に塞がれにくい位置を選び、金具を二度引いて確かめる。
◆
沢の渡渉点までは、下り坂を歩いてものの数分だった。
行きに俺たち三人が渡った場所だ。あのとき《不動》で固定した川底の足場はとっくに術が解け、猛り狂う濁流の底へと呑み込まれていた。
先頭に立った堀が、額のヘッドライトを水面へ向けた。詰所の若者も胸元の作業灯を並べ、二つの白い光で川幅を照らす。
「……さらに上がっとるな」
「上がっていますね」
朝、俺が太刀を担いで本道の沢を渡ったときは脛の半ばだった。昼過ぎに同じ沢を下ったときは膝の下まで上がっていた。
そしていま、今夜初めて足を踏み入れた山帰りの道の沢は、往きよりも水を増していた。飛沫が俺の腿の付け根の高さまで達している。
雨脚が強まったわけではない。だが、上流の崩れで一度跳ね上がった水は、いったん引いてからまた増している。次の波が来ないと決められる材料はなかった。
「渡る回数を決めましょう」
宮坂が背後から静かに言った。
「一度で全員渡りきります。二度に分けてはいけません」
「向こうが六人で、こっちが三人だぞ。九人が一度にあの激流に入れば、誰かが足を取られたときに共倒れになる」
堀が低く唸ったが、宮坂は首を横に振った。
「二度に分ければ、二度目に渡る組の足元の水は、いまよりも確実に高くなっています。一度目が渡りきるのを待つほんの数分の間にも、水は増え続けます。全員で一気に渡るのが、この状況でいちばん生還率が高い」
堀はそれ以上反論しなかった。ヘッドライトを足元へ戻し、渡る位置を指で示した。
「俺が《不動》を出したら、堀さんから入ってください。川床が動くか、固定が切れかけたら全員で岩棚へ戻ってください」
俺がそう告げると、宮坂は全員の顔を見回し、一人ずつ頷くのを待った。
俺は背中の男をもう一度肩の上へ揺すり上げ、泥の岸辺へ両足を踏み入れた。
「九人分、まとめて止めます」
「広く出せますか」
「広くしか出せません。まだ細かく狙いを絞る加減が利かないんです」
宮坂が、暗がりの中でじっと俺の胸元を見つめた。視線は俺の顔ではなく、濡れた服の奥にある黒いチャートの珠へ向けられていた。
「なら、その広いのをそのまま使ってください。石を一つずつ狙うのではなく、九人が渡る足元のライン全体を丸ごと踏み固めるつもりで出してください」
「そんな大雑把な出し方は教わっていませんよ」
「自分の下手な技術のほうへ、山の使い方を合わせるんです」
小気味のいいほど割り切った指示だった。範囲を絞り込めない未熟さを恥じる暇があるなら、その未熟な性質をそのまま利用して安全マージンを広げろ、というわけだ。
俺は激しく波打つ濁流の筋へ向けて、両手を水平に突き出した。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
胸の奥が、今度は火花を散らすように鋭く脈打った。
先刻、往きで石を止めたときよりも、さらに身体の奥深くからごっそりと力を削り取られたのが分かった。
手足の先から急速に熱が引き、奥歯の根元がギリリと軋む。どれだけの余力が残されているのかは、やはり覗き込んでも数えられない。
だが、効果は歴然としていた。
沢の一筋、九人が渡るべき川底の砂利と沈み石が、幅にして四歩分、丸ごとひとつの巨大な岩盤のように凍りついた。
水流そのものが止まったわけではない。水は依然として猛烈な速度で流れているが、足の下の川底が水圧に押されて転がるのを完全にやめたのだ。
濁流は固定された川底の上を、そのまま白く泡立って激しく流れ続けた。足場を固定しても、身体を押す水の勢いそのものが消えるわけではない。
「これなら渡れる!」
堀が叫び、先頭を切って最初の一歩を濁流へ踏み入れた。
水嵩は腿を打つが、靴底の下の足場は微動だにしない。
先発隊の誘導には詰所の若者が入り、胸の作業灯で足元を広く照らしながら、棟梁の腕を支えて水圧に耐えさせた。棟梁自身は歩けても、下半身の踏ん張りが利かないため、誰かの支えがなければ激流に押し倒される。
残る客二人も互いの肩を掴み合う。先に足場を確かめた堀は流れの中で待ち、後発の男へ肩を貸した。
宮坂がその後ろに付き、全員が足元の石を確かめながら慎重に進んでいく。
俺は最後尾だ。背中に人間を一人丸ごと背負っているぶん、重心が恐ろしく高い。
額と背負子の二つの光で足元を照らしながら、腿の深さまで冷水に浸かった。皮膚の感覚が麻痺しそうな冷たさの中、足場は動かなくとも、激流が容赦なく腰と背負子を横から薙ぎ払ってくる。
川の中ほどまで進んだところで、背中の若い男の身体が、不意にぐらりと大きく傾いた。
足が滑ったのではない。男の首から完全に力が抜け、頭が俺の右肩の上へ無防備に垂れ落ちたのだ。
「おい、起きてください!」
声を張り上げたが、耳元からの返事はない。
俺は胸の前で結束紐を両手に握り直し、歩幅を指三本分狭め、腰を限界まで低く落として踏ん張った。
ここで焦って足を踏み替えれば、固定された足場の外側へ押し出され、二人まとめて下流へ押し流される。
対岸の岩肌まで、あと五歩。
その距離を目測した瞬間、背中の男の頭が俺の右側頭部へぶつかり、ヘッドライトの角度が上へ跳ねた。
白い光が雨煙を正面から照らし、目の前に厚い壁を作る。背負子へ留めた作業灯も、ずり落ちた男の左腕に覆われ、足元へ届かなくなった。
片手を離して灯りを直せば、傾いた男ごと重心を流れへ持っていかれる。首だけで戻そうとしても、濡れた帯は額の上を滑るばかりだった。
先発隊の灯りはすでに対岸の岩陰へ回り込み、前を行く人々の背中と降りしきる雨煙に遮られている。
機械は消えていない。それでも残された五歩から、足を置く場所だけが消えた。
「灯りが上を向いた。足元が見えません!」
「沢渡さん、止まってください! そこから五歩、音へ向かって真っ直ぐです!」
闇の向こう、対岸の頭上から鋭い声が飛んだ。
ジャラリ、と二度。間を置いて、また二度。
宮坂が、対岸の岩の上で錫杖を激しく打ち鳴らしていた。
目で足元を拾えなくても構わない。その真鍮の鳴る方角へ向かって、足裏の確かな感触を信じて踏み出せばいい。
一歩、二歩、三歩。
俺は動かない川底を靴底で確かめながら、闇の中で確実に五歩を数え切り、対岸の濡れた岩肌へと両手を突いた。




