第15話 宮坂
目指す岩棚は、沢から十歩ほど急斜面をよじ登ったところにあった。
頭上へヘッドライトの光を向けると、雨煙の向こうから金属の澄んだ音が急激に間近へと迫ってきた。
「宮坂さんか! 詰所の堀だ!」
「六人います!」
雨の幕を切り裂いて返ってきたのは、引き締まった女の声だった。
「全員、息があります!」
堀が携帯作業灯を高く掲げた。
黄色い光の輪の中に、切り立った岩壁を背にして寄り添う六つの人影が浮かび上がった。
鳴り続けていた真鍮の音が、そこでようやく止まった。
声を張り上げた女は、右手に持った錫杖の石突を濡れた岩肌へ押し当て、左手は隣に座り込む若い男の肩をしっかりと抱え込んでいた。
その横には、今朝宿で会った棟梁が腰まで泥水に濡れそぼった姿で座り込んでいた。棟梁は両手で腹の前に回された太い麻縄を必死に押さえていた。女に肩を支えられている若い職人は顔面蒼白で激しく震えており、残りの三人は風除けになる岩陰と縄の端をそれぞれ分担して確保していた。
欠けている者は、一人もいない。
だが、六人だけでこの沢を渡り、揃って山を下りられる状態ではなかった。
女は錫杖を岩壁へ立てかけ、空いた右手を水平に差し出して制止の合図を送った。左手は、若い男の肩から決して離さない。
「近づく前に、足元を照らしてください。手前の二歩分、岩棚の縁が一枚ごっそり抜け落ちています」
堀が作業灯の光を足元へ落とすと、なるほど、泥に覆われた足場が谷側へ向かって鋭く削ぎ落とされていた。
的確な指示だった。過酷な状況で救助を待っていた側の口から、取り乱すこともなく真っ先に現場の危険箇所を告げる声が出たのを、俺は初めて聞いた。
三人で慎重に足場を選びながら回り込み、岩棚の上へと身体を引き上げた。
堀が棟梁の首筋に指を当て、若い男の強張った手を取り、それから女の正面へ腰を落とした。
「手持ちの札はどうした」
「ここで頼りになる等級のものは、一枚も残っていません」
「何枚使った」
「三枚です。切った封は、全部ここへ残してあります」
女は雨具の左ポケットの上から、自らの指を強く押し当てた。布地の下で、ちぎられた紙の封が擦れ合う微かな音がした。
女は三枚の使い道を短く告げた。濁流に引かれた棟梁を止めるのに一枚、若い男の体温に一枚、腰まで水に浸かった棟梁の体温に一枚。
細かい手順を聞くまでもなく、その三枚の札でこの女が何を繋ぎ止めてきたのかは手に取るように分かった。
「なぜ動かなかった」
堀の問いは、責める色を含んでいなかった。
「動けませんでした。下山の道が、水で完全に呑まれていたので」
「動けなかったんじゃない。動かなかったんだろう」
女は否定も弁解もせず、静かに前を見据えた。
「この五人が揃って歩くことは不可能でした。私が背負って往復すれば、一人ずつなら運べたかもしれません。ですが、その間に残された四人が低体温で落ちます。ですから、一歩も動きませんでした」
俺は棟梁の腹元に巻きつけられた縄へ視線を落とした。結び直された跡がある。引き上げたときの締まり具合では身体を圧迫するため、岩棚で緩め直したのだと、女が短く説明した。
岩棚は増水した沢のすぐ頭上に位置している。もし誰かが寒さで意識を失って転落すれば、そのまま濁流へ呑み込まれて二度と浮かんでこない。
腰に回した命綱は、意識が朦朧とすれば胸までずり上がり、呼吸を圧迫して命を縮める。だからこそ棟梁は、自らの指の感覚が麻痺するまで、腹の前でその縄を両手で押さえ込み続けていたのだ。
作業灯を少し持ち上げたとき、光の端が女の横顔を照らし出した。
雨に濡れそぼった前髪が額に張り付き、冷気に晒された頬から顎にかけて、白く引き締まった輪郭が浮かび上がっている。
見覚えのある顔だった。
高尾の参道にある茶屋、みさか屋の小上がりで、俺の痛めた左肩を一目見ただけで、頼んでもいないのに丼と箸と湯呑みを、すべて右側へ寄せて並べたあの孫娘だった。
「……みさか屋の」
思わず口から漏れた言葉に、女がぴくりと眉を動かしてこちらを向いた。
視線が俺の顔から、首元へと落ちる。濡れた上着の胸元から覗いている、黒いチャートの珠を見つめていた。
「使いましたか」
「沢の石を止めました。狙った石だけじゃなく、周りの川底ごと広く出すぎましたが」
「最初は誰もがそうです」
ひと月前、みさか屋でも、最初は狙ったところより広く出ると教えられた。あのときは茶屋の孫娘の言葉として聞いたが、いまは六人の命を岩棚の上に繋ぎ止め続けた現場の責任者の言葉として、重く鼓膜に響いた。
「宮坂さん。若い男から先に下ろすぞ」
堀が呼びかけた。
詰所の台帳に記されていた宮坂という姓が、いま目の前にいる女の顔と、頭の中で完全に一致した。
そのとき、女の首元が雨具の襟元からわずかに覗いた。
細い麻の紐が一本、首に掛けられている。素材も色も違うが、俺が三日前に札屋で結んだのと同じ、珠を通すための紐の拵えだった。
だが、その紐の先には何もぶら下がっていなかった。
あるのは、小さく輪に結ばれた結び目だけだ。
五年目の先達で、丈は三二〇〇に達している。この過酷な裏大山から、すでに三度も客を無事に還している実力者でありながら、首元には珠が一つもない。
つまりこの女は、これだけの腕を持ちながら、ただの一度も自らの験を立てて峰を継いだことがないのだ。
俺はそれ以上詮索するのをやめ、視線を若い男の足元へ戻した。他人が背負っている事情の深さに、現場の最前線で踏み込むべきではない。
「沢渡さん」
宮坂が、俺の名を呼んだ。
「今朝、うちの太刀を荷場まで上げてくださった方ですね」
「白布は濡れていたので、乾いたものへ巻き替えておきました」
「棟梁が言っていました。ずいぶんと気の利く若い担ぎ屋が来たと」
「その気の利く担ぎ屋が、いま空の背負子を背負って迎えに来ています」
宮坂の強張っていた口元が、ほんのわずかだけ緩んだ。
◆
堀が六人の容態を素早く改めた。若い男の紫色に変色した唇を確かめ、棟梁の凍りついた指先を一本ずつ無理やり曲げさせて反応を見る。
若い男の口元へ、詰所の装備である気付けの小瓶を一本あてがった。栓を抜き、独特の刺激臭を持つ液体を舌の上に垂らすと、男が激しくむせ返り、爪の先から微かに赤みが戻った。
だが、小刻みな震えは止まらない。普及品の安い気付けで稼げる猶予など、せいぜいこの程度が限界だった。
堀は二本目の瓶を出そうとはしなかった。
同じ等級の薬をいくら重ねて飲ませたところで、底を打った体温を持ち上げる力はない。これ以上の回復を望むなら、もっと上の等級の札を使うか、一刻も早く里へ下ろして暖を取らせるしかなかった。
「自力で歩けるのは何人だ」
「三人です」
宮坂が即座に答えた。
「棟梁は歩けます。ただし、沢を自力で渡らせないでください。もう二度落ちています」
「二度もか」
「今日の下りで二度流されかけました。一度目は自力で這い上がりましたが、二度目は札と縄で引き戻しました。下半身の踏ん張りがもう利いていません」
岩壁に寄りかかっていた棟梁が、濡れた前髪を払って掠れた声を絞り出した。
「……聞かれてもいねえ恥まで、余計に喋るんじゃねえよ」
「聞かれる前に現場の損害を全部申告するのが、案内人の仕事です」
堀が俺のほうへ振り向いた。
「沢の足場はどうだ」
「戻り道では、さっき固定した石はもう使えません。効果が切れて元の激流に戻っています。俺の《不動》は、行きで一度使いました」
「もう一度出せるか」
「出せます。ただ、あと何回出せるかという残りの数は分かりません」
「残りの弾数が分からんのか」
「分かりません。札なら手元に残った枚数が目で見えますが、これは腹の底の感覚しかありませんから」
減ったことだけは確実に分かる。だが、その残りがどれほどあるのか、覗き込んでも目盛りはどこにも刻まれていない。
この五年間、俺は背負う荷の重さと、歩く歩数と、手元に残る札の枚数という、厳密な数字の計算だけを頼りに仕事の段取りを組んできた。残量の見えない曖昧な力を前提にして命懸けの行程を組むのは、これが生まれて初めての経験だった。
「一度に全員で渡るか、分けて渡るか、渡渉の手順を先に決めておきましょう」
俺がそう告げると、宮坂が岩壁に立てかけてあった錫杖へ静かに手を伸ばした。
濡れた真鍮の輪が、持ち上げられた拍子にジャラリと低く鳴った。
「六人を、二つの組に分けます」
降り注ぐ冷たい雨は、夜の闇の中でなおも勢いを弱める気配を見せなかった。




