第14話 鈴の音
関の詰所には、六つの防水灯が並んでいた。
充電を終えた防水ヘッドライトが四つと、携帯用の作業灯が二つ。壁際の山内無線も、机上の堅牢な端末も電源は入っている。それでも谷へ入った六人から、位置も声も返ってこない。電気が動くことと、電波が岩壁を越えることは別だった。
板張りの机の上に、雨水で端が波打った台帳が広げられていた。本日の入山者の名が整然と墨で並び、無事に山を下りて手形を戻した者の名には、一本ずつ太い朱線が引かれている。
線の引かれていない名が、いちばん端に六つ並んでいた。
「宮坂。先達だ。あとは講の五人」
詰所の救助を預かる男、堀が低く唸るような声で読み上げた。年齢は俺より十ほど上、長年この過酷な雨山に詰め、数え切れないほどの未還着者を迎えに行ってきた男の面構えをしていた。
「宮坂」
俺はその名に覚えがなかった。
今朝、御師の家の土間で湯気の立つ朝飯を掻き込んでいた五人の顔と体格は覚えているが、同行するはずだった六人目の顔だけは見ていない。俺たちが出発する直前、関の様子を見に行ったきり戻っていなかった『先生』のことだろう。
「先達の丈は」
「三二〇〇。免許を取って五年目だ」
堀は台帳から視線を外さずに言った。
俺の丈より八〇〇も高い。三〇〇〇を越えているなら、この裏大山の険しい頂まで踏み抜いてもなお十分に余る数字だ。
「山での腕は」
「今年で四度目になる。去年も一昨年も、この講の全員を何事もなく還しとる」
下手を打つような手合いではない、ということだ。
四度目の山を歩く確かな案内人が、四度目の同じ道で捕まった。それなら、歩き手側の油断や技術不足を疑うより、山そのものが姿を変えたと考えるほうが遥かに筋が通る。
「高尾の歩荷、沢渡です。今日、昼前に荷場まで太刀を上げました」
堀が初めて顔を上げ、俺の全身を品定めするように見据えた。
「話は聞いとる。沢の様子はどうだった」
「登りは脛の半ばで、昼過ぎに下ったときは膝の下まで上がっていました。雨脚は強くも弱くもなっていませんが、上流からの水が完全に溜まり始めています」
堀は人差し指の腹で台帳の余白をトントンと二度叩き、それから壁に掛けられた古びた板図へ向き直った。裏大山の稜線と谷筋が、墨の濃淡で荒々しく描かれている。
「上りが表参道、下りが山帰りの道だ。講は登りと下りで違う道を踏んで一周する決まりになっとる」
「俺は本道しか歩いていません」
「歩いてなくても構わん。今日のあの雨のなか、沢の生きた水嵩を見たのはお前だけだ」
堀の指先が、板図のもう一本の細い筋をなぞった。本道よりも尾根を大きく巻き込み、等高線が詰まった深い谷底沿いを這うように伸びている。途中で沢筋と二度、深く交差していた。
登りの本道でさえ膝下まで上がっていたのだ。谷が狭まり、傾斜の急な山帰りの道で沢を横切る場所がどうなっているか、想像するまでもない。
「……もう渡れませんね」
「渡れんな。人間が流される深さだ」
「なら、その先達がまともなら、無理に渡らず足を止めています」
堀は答えず、板図の谷筋から目を離さなかった。返答がないのは、この男も最初から同じ計算を弾き出していたからだ。
「お前の丈は」
「二四〇〇です」
「験は持っとるか」
「《不動》を一つ。継いでまだ一ヶ月です」
「山で使えるか」
「足元を止めるくらいなら。それ以上の芸当は保証できません」
堀は短く息を吐き、それで十分だ、と言わんばかりに頷いた。
「うちから俺と若いの一人を出す。お前を入れて三人だ」
「俺の立場は」
「客扱いで連れていく余裕はない。救助の嘱託として入れる。日当の手続きや書類は明日でいい」
堀はヘッドライトの防水蓋と残量表示を確かめ、予備電池を二組、雨具の内側へ収めた。
◆
御師の宿へ戻ると、土間の上がり框に遼が直立不動で立っていた。
カゲはその足元に伏せ、俺が背負子の荷紐を点検する手元を、片耳だけ立ててじっと見つめていた。
俺が無言で背負子の金具を締め直している間、遼は一度も視線を逸らさなかった。連れていってほしいのだということは、その強張った表情を見れば痛いほど伝わってきた。
「浅井さん」
「はい」
「宿に残ってください」
遼は唇を一文字に結び、身を乗り出すように言った。
「俺の丈は九〇〇あります。荷を背負って山を歩くだけなら、もう足を引っ張るつもりはありません」
「身体の数字は足りていますよ。足りていないのは、そこじゃありません」
遼が何か言いかけようとして、言葉を呑み込んだ。
「夜です。雨です。道は俺も歩いたことのない初見のルートです。危険な条件がここまで重なると、山では人数が一人増えるだけで全体の足取りが倍近く遅くなります」
「荷物なら運べます。怪我人を背負うなり何なり――」
「運ぶ荷の正体が、まだ決まっていないんですよ」
俺は淡々と言い聞かせた。
六人が自力で歩けるのか、それとも意識を失って担ぎ下ろさなければならないのか。向こうの怪我の状態によって、山の上で必要になる装備も人員の割き方もまるで変わる。
それが定まる前に運び手の数を増やせば、山の上でその人間を守るための余計な計算まで背負い込むことになる。
遼は握りしめていた上着の裾から、ゆっくりと指をほどいた。
「……俺は、ここで何をしていればいいですか」
「乾いた着替えを揃えておいてください。六人分です。それと、戻ったときにすぐに飲める熱い湯を切らさないよう、宿の女将さんに頼んで手伝ってください」
「六人分……」
「還ってきても、濡れた服のままでは身体が冷え続けます。すぐに着替えられるよう、用意しておいてほしいんです」
遼は土間の奥へ目を向けた。朝、威勢よく飯を食っていた男たちのために用意された夕飯の膳が、冷え切ったまま綺麗に並んでいる。
「……分かりました。絶対に冷まさないでおきます」
一ヶ月前、裏高尾の関で嘘をついてまで素人の弟を山へ連れ込んだ男が、いまは唇を噛み締めながら、留まる側の役目を引き受けて頷いている。
この一ヶ月でどれだけの技術を身につけたかは分からない。だが少なくとも、あのときのような分不相応な虚勢を張ることはなくなっていた。
◆
関の木の門柱をくぐり抜けた瞬間、昼間と同じ冷たい雨の轟音が鼓膜を叩きつけた。
堀と、詰所の若い男が一人。三人とも額に防水のヘッドライトを巻き、堀は肩口へ山内無線を留めている。俺だけが道具を括り付けた空の背負子を背負っていた。
カゲは門の内側で俺の影からするりと滑り出たが、降り注ぐ雨の冷たさに鼻先を一度ひくつかせると、山道の上流へ向けて鋭い視線を投げかけた。
「それが高尾から照会の回っとる狼か」
堀が一度だけ白い背中を見下ろし、それ以上は何も言わずに前を向いた。
登りの前半は、今朝登ったばかりの本道だった。同じ踏み石を同じ歩幅で辿るため、ヘッドライトの白い輪が雨粒に削られていても、靴底のゴムが地面の硬さを覚えている。
厄介なのは、五合目の分岐から先だった。
尾根の肩口で道が二股に割れ、右手の急斜面を下っていく細い獣道のような踏み跡が山帰りの道だった。
本道と違って手入れのされた石段はなく、露出した木の根と黒い粘土質の土が、雨水を吸って滑らかな泥の坂へと変わっている。
分岐の岩陰で、堀がヘッドライトの角度を下げ、泥の表面へ光を這わせた。
「足跡を探すのは諦めろ。この雨量じゃ、十分前の踏み跡すら全部泥に埋まっとる」
カゲが泥の表面に鼻を近づけて微かに匂いを嗅いだが、すぐに顔を上げて小さく身震いした。降り続く雨水は、土の匂いも、人間の皮脂や汗の痕跡も、すべて容赦なく下流へと押し流している。
「足跡が駄目なら、耳を使うしかありませんね」
堀は肩の無線へ二度呼びかけた。返ってきたのは、雨音に似た短い雑音だけだった。
堀が雨具のフードを跳ね上げ、眉をひそめて俺を見た。
「聞こえると思うか。この雨音の中で」
「あの先達は、登りの道で錫杖を鳴らしながら歩いていました」
「鳴らしとったか」
「客に自分の居場所を知らせるためです。この雨じゃ肉声は十歩先にも届きませんから」
今日の昼、本道の七合目で五人とすれ違ったあと、下の木立の向こうから近づいてきた音だ。ジャラリ、と二度。間を置いて、また二度。焦ることも乱れることもなく、一定のリズムを刻み続けていた真鍮の輪の鳴る音。
「歩きながら鳴らしていたなら、足を止めた場所でも鳴らし続けているはずです。位置を知らせる相手が、客から俺たち救助側へ変わるだけですから」
カゲはしばらく泥道を先導するように歩いていたが、傾斜が険しくなり、頭上の杉林から落ちてくる雨滴が太さを増すと、自然と輪郭を曖昧にして俺の足元の影の中へと収まっていった。
雨に濡れるのを嫌ったというよりは、これから始まる救助の邪魔にならないよう、息を潜めて待機する判断を下したようだった。
堀は無言で頷き、背後の若い男へ短く合図した。
「二十歩進むごとに止まる。三人とも足音と息を殺せ」
雨の中で遠くの音を拾う手段は、自分たちの出す音を極限まで削ること以外にない。
◆
三度目に立ち止まったとき、若い男が闇の中でぴくりと肩を震わせた。
だが、俺の耳にはまだ雨が木々を叩く単調な濁音しか届かない。
四度目の停止で、堀が小さく顎を引いた。そして五度目、呼吸を止めて雨粒の落ちる合間を凝視した瞬間、俺の耳朶にもその細い響きが引っかかった。
ジャラリ、と二度。二呼吸ほどの間を置いて、また二度。
雨の幕に幾重にも遮られ、今にも掻き消されそうなほど微弱だが、金属の触れ合う音の間隔は寸分違わず均等だった。木の枝が風で擦れ合っているのではない。人間が、意識して拍子を刻み続けている。
「沢の向こう側だ」
堀が顔を上げ、ヘッドライトを遠くへ向けた。雨粒に砕かれた白い光の先で、黒い泥道がぷつりと途切れ、幅広の暗がりが広がっていた。
道ではなく、暴れ狂う水流だった。
板図で見た、山帰りの道が横切る沢の渡渉点だ。
本道で昼に渡った沢よりも谷筋が狭く切り立っているぶん、水かさの増え方が凶悪だった。本来なら水面から顔を出しているはずの飛び石は影も形もなく、腿の高さまで達した激流が、白く泡立ちながら轟音を立てて岩肌を削っている。
「……上流へ大きく高巻きするか」
詰所の若い男が、水しぶきを手で払いながら叫ぶように言った。
「回ったら一時間以上かかるぞ」
堀が水面を睨み据えた。
「だが、この深さにそのまま足を突っ込んだら、渡る前にこっちが流される」
対岸の岩陰から、真鍮の音が再び届いた。二度、間を置いて二度。
音の間隔は保たれているが、その響きは先刻よりも明らかに力強さを失っていた。
俺はヘッドライトの帯を締め直し、泥に足を取られないよう慎重に水際まで下りた。
濁流に目を凝らす。激しい白波の合間、水面が盛り上がって不自然な渦を作っている箇所が二つあった。その直下に、黒々とした岩の頭が沈んでいる。
本道で渡った沢の石とは並びも間隔もまるで違う。だが、長年山を歩いてきた足の裏の勘が、あの二つの沈み石こそが、増水前には人が足を乗せていた踏み石だと告げていた。
高尾でカゲが逃がしたのは、俺の胸へ来る風だった。あの一吹きの手応えを、足をすくう濁流にまで当て込むわけにはいかない。いま三人が必要としているのは、水の下で動かない足場だ。
「石自体は流されていません。水の下に沈んでいるだけです」
「見えん足場を踏んで渡れるか。一歩踏み外せば谷底まで持っていかれるぞ」
「足場が見えなくても構いません。そこだけ動かないように固定します。固定が出なければ、高巻きに切り替えます。出ても、最初の一人が足を置けなければ全員ここへ戻りましょう」
堀が退く先へヘッドライトを向け、若い男が頷いた。渡る前に、失敗したときの戻り先だけは三人で揃えた。
俺は水中の二つの黒い影へ向けて、右手を伸ばした。
一ヶ月前、裏高尾で継いだ力。荷下ろしのあとに試してからも、狙った場所だけを止める加減は掴めていない。それでも、今日この裏大山の泥と水をこの足で踏みしめてきた身体なら、どこを固定すれば人間を支えられるかは、皮膚の感覚で分かっていた。
【立つべき所に、立て】
【石は流れず、根は退かず】
【われは、動かぬものなり――】
『不動』
胸骨の裏側に、微かな熱が走った。
身体の芯から、何かがごっそりと削り取られていく感覚が走る。声の消費だ。目に見える数値のゲージなどどこにもないが、肺腑の底を冷たい手で一握り抉られたような重い疲労が残った。
音は鳴らなかった。
ただ、沈んでいた二つの石と、その周囲の砂利が、水圧に押されて転がるのを完全にやめた。
固定されたのは、狙った二つの石の頭だけではなかった。
まだ力を細く絞り込む加減が身についていないせいで、その石を取り囲む川底の砂利や岩盤まで、幅にして優に三歩分がひとかたまりの岩のように硬直していた。
水は変わらず、石の上を白く泡立って流れていた。足場を止めても、水に押される力まで消えるわけではない。
堀が目を見開き、水面を凝視した。
「ずいぶんと広いな」
「狙いより余計に効きすぎました。声の減りも、そのぶん多いはずです」
「その減り具合の勘定は、向こうへ渡りきってからにしろ」
堀が最初の一歩を踏み出した。沈み石の高いところでも、水が膝を打つ。後ろから若者が腕を支え、三人で水圧を受け止めながら一歩ずつ足場を確かめた。足の下の石はびくともしない。対岸の濡れた岩肌へ這い上がった。
俺が両足を水から引き抜いた瞬間、背後で緊張の糸が切れるように水音が変わり、濁流が再び川底の小石をジャリジャリと削り始めた。
俺はヘッドライトの防水蓋を指で確かめ、光を足元へ戻した。




