第13話 六つの鐘
荷場は、頂の直下、切り立った杉林が途切れた場所に開けていた。
視界を遮っていた木々が消え去って灰色の空が広がり、傾斜の緩やかな岩棚の上に、木造の簡素な山小屋が三棟並んでいた。どれも片流れの板屋根で、降り注ぐ雨が一方向へ滑り落ちるように設計されている。
そのうち、いちばん奥に建つ一棟の引き戸にだけ、太い注連縄が厳重に掛け渡されていた。
「あれが、納め口です」
遼が小屋の数を数えるように視線を巡らせた。
「ここ……頂上じゃないですよね」
「頂はまだ上です。この荷の届け先はここまでです。この上には、頂の主がいます」
手前の詰め所から、分厚い藁の蓑をまとった老人が姿を現した。この過酷な荷場で荷物の受け渡しを一手に管理している番人で、年齢は俺より二回りは上に見える。
「太刀だな。今年の講中のか」
「高尾の沢渡です。怪我をした担ぎ手の代わりで運んできました」
老人は俺が差し出した依頼書の半券を受け取ると、雨水に濡らさないよう蓑の内側に引き込み、指先で品名と数量をなぞった。手慣れた仕草で受領の割印を押し、半分を俺へ突き返してくる。
「奥の小屋へ入れておけ。並べる場所は空いている」
俺は背負子を濡れた岩肌へ下ろし、雨水を吸ってずっしりと重くなった白布ごと、木太刀を両腕で抱え上げて注連縄の下をくぐり、引き戸を引いた。
薄暗い室内は外から見るよりも奥行きがあり、板の間に置かれた床几の上に、無骨な木太刀が横たえられていた。
一本や二本ではない。
長さも、刃の反りも、削り出された木の材質も異なる太刀が、切っ先を寸分違わず同じ方角へ揃え、木製の床几の上に七本、ずらりと並べられていた。
手前の一本は巻かれた白布がまだ新しく、いちばん奥に眠る一本に至っては、布が経年劣化で焦茶色に変色し、擦り切れた繊維の隙間から木肌が黒ずんで透けて見えていた。
「これ……全部……」
遼が息を呑み、声を殺して呟いた。
「納められる日を待っている太刀ですよ」
「待つって……誰を待ってるんですか」
「次に、この峰の頂へ立つ人間をです」
遼の視線が、いちばん奥の焦茶色に変色した一本から離れない。
「講の人たちが、自分たちの手で上げるんじゃないんですか」
「この峰の頂へ太刀を納めるなら、主と立ち合う覚悟が要りますからね」
「じゃあ……あの人たちには、上げられない」
「上げられません。だから、立ち合って勝てる人間が現れるまで、こうしてここで何年も待ち続けるんです」
俺は自分が運んできた一本を、手前の空いていた床几の上へ丁寧に下ろした。
巻かれていた白布を解くと、木太刀の刃の背に、ぽつりと小さな枝打ちの節の痕が残っていた。丁寧に削り落とせば綺麗に消せるはずの節をあえて残したまま、握りの柄と鍔の形状だけが職人の手によって無骨に整えられている。
濡れた白布を固く絞って水気を切り、用意してきた乾いた替え布でしっかりと巻き直す。あの節の残った背が真っ直ぐ上を向くように、他の太刀と向きを揃えて並べた。
奥に眠る焦茶色の一本は、布の端が床几の木目に完全に張り付いて同化していた。無理に剥がせば布地が破れてしまうため、そのまま触らずに置く。
何年分の祈りがここに留め置かれているのかは、わざわざ口に出して数えるまでもない。
俺の仕事は、ここまでだ。
荷物は無事に届いた。引き受けた分の責任は果たし、受領の判ももらった。
だが、八本の木太刀の切っ先がすべて同じ暗闇を向いて整然と並んでいる光景を見つめていると、頭の中の勘定に、どうしても割り切れない端数がひとつ増えてしまったような座りの悪さが胸に残った。
「……行きましょう」
遼は小屋の出口で名残惜しそうに一度だけ振り返り、注連縄をくぐって外の雨の中へ出てきた。
蓑を着た老人は、雨の当たらない軒先で受領印の柄を布で拭っていた。
「いちばん奥のやつは、俺がこの小屋の番を任される前からずっとあそこにある」
こちらが何も尋ねてもいないのに、老人は独り言のように呟いた。
「……引き取り手は、来ないんですか」
「頂を踏める験者が登ってくればな。だが、年に何人上がってくると思う」
答えを期待している顔ではなかったので、俺は判を押された半券を濡れないよう懐の奥へしまい込んだ。
小屋の外で、空になった背負子を再び背中へ担ぎ上げる。
今朝、麓を出発したときと同じ荷物は、何ひとつとして残っていなかった。
◆
いま登ってきたばかりの本道を、そのまま引き返した。
荷物を下ろしたあとの背負子は拍子抜けするほど軽いが、軽すぎる荷物ほど歩く反動で背中で暴れやすい。俺は締め紐を限界まで強く引き絞ってから、泥の坂道を踏み出した。
七合目の尾根に差し掛かったあたりで、下から登ってくる白い隊列とすれ違った。
白い行衣が五つ。先頭を歩くのが棟梁で、いちばん後ろを、あの若い職人が俯き加減についてきている。
俺は道の谷側へ体を寄せ、五人が通り過ぎるのを待った。
「沢渡さん、無事に太刀を届けてくれたかい」
「納め口の手前の空き場所に置きましたよ。濡れた布は乾いたものへ巻き替えておきました」
「そりゃあ気が利く。助かったよ」
「沢の水が、朝よりも明らかに増えています。帰りは膝の上まで浸かる覚悟でいてください」
棟梁は力強く頷き、背後の仲間へ「聞いたか!」と太い声を投げかけた。威勢のいい返事が四つ返ってくる。
若い男の返事は、その中でいちばん最後だった。
五人の白い背中が木立の向こうへ消え去ると、濡れた山道を歩く人間は、再び俺と遼の二人だけになった。カゲは俺の右脇にぴったりと寄り添い、登りと同じ歩幅を崩さずに下っていく。
五人の足音が雨に紛れて聞こえなくなったころ、今度は下の曲がり角の向こう側から、真鍮の触れ合う甲高い金属音がかすかに耳へ届いた。
ジャラリ、と二度。間を置いて、また二度。
遼がぴたりと足を止めた。
「……なんの音ですか、あれ」
「錫杖です。先端に鉄や真鍮の輪をいくつも通した杖で、地面を突くたびに輪同士が擦れ合って鋭い音を立てるんです」
「どうして、あんな音を鳴らすんですか」
「もともとは山中の獣を遠ざけるための鳴り物ですが、これだけの雨だと肉声が掻き消されて届きませんからね。関で手続きの遅れた先達が、先に出した客たちへ追いつきながら、自分の現在地を知らせるために鳴らしているんですよ」
遼はカゲを見下ろした。カゲは片方の尖った耳だけを音の方角へ向けたが、足を止めることもなく、踏み跡から視線を外さなかった。
真鍮の輪は再び規則正しく二度鳴り響き、曲がり角の向こう側から次第に近づいてきた。
音の間隔は、狂いなく均等に保たれていた。焦って速まることもなく、疲労で遅れることもない。山での歩き方を身体で知っている人間の足取りだ、と俺は頭の隅で感心しながら、そのまま下り続けた。
雨煙の向こうから、笠と蓑の人影が現れた。俺はもう一度谷側へ寄って道を譲った。相手も山側へ半歩寄り、笠の縁を軽く下げて会釈を寄越すと、歩調を緩めずに上へ抜けていった。すれ違いは、ほんの二呼吸ほどだった。
その先達の顔は、見ていない。
そのときの俺には、すれ違うだけの他人の笠の下をわざわざ覗き込む理由など、どこにもないと思えていたのだ。
途中の沢は、登りに渡ったときよりもさらに水量を増していた。遼を先に渡らせ、俺が背後から足元を見届ける。
◆
関の門柱へ戻ってきたのは、午後一時の少し前だった。
冬の短い一日とはいえ、日が完全に沈むまでにはまだ三時間以上の余裕が残されていた。歩荷の行程管理としては、これ以上ない完璧な着地だ。
万が一、山の上で想定外のトラブルが起きたとしても、もう一度装備を整えて山中へ引き返せるだけの安全マージンが確保されている。
俺は窓口へ二枚の手形を差し出した。当番の男が台帳をめくり、二人の名前の横へ手際よく赤線を引いていく。
「歩荷一名、見習い一名、還着」
木の門をくぐり抜けた瞬間、全身を叩きつけていた激しい雨の音がぷつりと途切れ、冷たく澄んだ雪の匂いへと切り替わった。寸分違わぬ同じ山の山麓のはずなのに、境界を隔てたこちら側は静まり返った冬景色だった。
門の手前で影へ戻っていた白い輪郭が、俺の足元からすっと抜け出し、カゲが雪の上に四本の爪をしっかりと下ろした。
遼が振り返り、素通しの門柱を呆然と眺めた。
「一日で、二回も季節が変わりましたね」
「同じ山で、門を往復しただけなんですけどね」
参道の石段を下り、朝立ち寄った御師の宿へ戻って土間で背負子を下ろした。泥と雨水にまみれた合羽は女将が手早く引き取ってくれ、代わりに湯気を上げる熱い白湯を出してくれた。
カゲは軒下の乾いた板の間で全身を激しく震わせ、俺と遼のズボンへ景気よく泥水を飛ばした。
濡れそぼった道具類を軒下へ広げて乾かしながら、遅い昼飯を腹に収めた。遼は板の間の隅で一度深い眠りに落ち、目を覚ましてから再び熱い湯を啜っていた。
俺は背負子の荷台を元の標準の高さへ戻し、結束用の麻紐のほつれを点検して長さを揃えた。次に背負う荷物は、もうあんな長大な木太刀ではない。
そうやって無言で手元の道具の手入れを続けている間に、あっという間に二時間が過ぎ去った。
遼は湯呑みを両手で包み込んだまま、長い沈黙のあとでぽつりと呟いた。
「あの小屋の奥にあった太刀……何年間、あそこに置かれたままなんですかね」
「深く詮索しないほうがいいですよ」
「どうしてですか」
「理由を突き詰めたら、いずれ自分がそれを頂まで担ぎ上げに行く話になっちまいますからね」
さらに時が過ぎ、西日が急速に傾き、参道沿いの土産物屋が表の電灯をひとつ、またひとつと落とし始めた。裏山にも電灯は持ち込めるが、常設できるのは関や主要な荷場、人が維持し続ける道の中継標くらいだ。そこから外れた道へ一本入れば、夕暮れはすぐ足元まで夜になる。
土間の上がり框には、あの五人のために用意された夕飯の膳が、誰の手もつけられないまま綺麗に並べられていた。
その冷たい音が響き渡ったのは、俺が空になった湯呑みを膳の上へ置いた、その瞬間だった。
関の鐘だ。
日が完全に落ちたにもかかわらず、まだ窓口へ還着していない手形がある。台帳の記録と突き合わせ、窓口の役人が木槌で打ち鳴らす非常の警報。
カン、カン、カンと、規則正しい金属音が冷え切った夕闇を切り裂いていく。
遼が弾かれたように立ち上がった。
「あれ……俺たちのじゃないですよね!?」
「手形はさっき返しましたよ」
鐘の音は、六つ数えたところで不吉に途切れた。
宿の奥から女将が血相を変えて小走りに現れ、土間に並んだままの膳を見つめた。
数は、寸分違わず合致していた。
五人の講中の客と、付き添いの先達が一人。
今朝、この土間で湯気の立つ朝飯を食い、七合目の尾根で俺たちとすれ違って、雨の山の上へと向かっていったあの連中だった。
俺は土間に下ろしてあった空の背負子を、無言でもう一度、肩へと背負い直した。




