第12話 木太刀
木太刀を引き受けてから、三日が経った。
十二月の凍てつく朝、俺は大山の麓に立っていた。
夜明け前、まだ街の灯りもまばらな高尾を出て、電車を三度乗り継いだ。背丈をゆうに越える木太刀は、横に抱えれば自動改札を通り抜けることすらできない。
白布の上から両手で垂直に握り直し、乗客のまばらな車両のいちばん端、連結部の隅に立てかけて運んだ。
カゲは最初の駅の改札前で自然と俺の影へ沈み込み、三度目の電車を降りて、麓の参道の人通りが途切れたところで、何事もなかったかのように右脇へ抜け出してきた。
白布に包まれた大荷物と違って、こちらは運搬の段取りに頭を悩ませる必要が一切ない。
遼は車内の反対側の端に陣取り、自分の背嚢を膝の上で抱き抱えたまま、駅に着くまで泥のように眠りこけていた。
下車駅に着いた車内で肩を揺すって起こすと、寝ぼけ眼を擦りながら「……重かったです」と掠れた声でこぼした。まだ何ひとつ担いでもいないくせに。
麓の参道は、街道沿いの土産物屋が雨戸を引いて店を開け始めたところで、名物の大山独楽と大山豆腐を掲げた看板が軒を連ねていた。
見上げる表の大山は中腹から上がすっぽりと白い雪に覆われ、重く垂れ込めた雪雲の底が、今にも山肌を削り取らんばかりに触れ合っている。
目指す宿は、参道の石段を登った途中にあった。御師の家と呼ばれる古い屋敷で、江戸の昔から山へ参る講中を代々受け入れ、泊め、祈祷を執り行ってきた由緒ある家柄だ。
関へ提出する入山の手続きも、担ぎ上げる荷物の最終的な受け渡しも、この家の土間で事足りる。
重い引き戸を開けて土間へ入ると、白い行衣に身を包んだ男が五人、板の間に腰を下ろして湯気の立つ朝飯を掻き込んでいた。揃いの白鉢巻きは結ばれず、行儀よく膝の上に畳まれている。
カゲは足音も立てず、土間の隅の暗がりへ身を伏せた。食事の手を止めた五人の視線が一斉に白い獣へと向いたが、最初に口を開いたのは、いちばん奥の席に座っていた男だった。
「担ぎ屋さんだな」
無駄な贅肉のない、日に焼けた顔の男が箸を置いた。五人の中でいちばん年嵩で、この講の頭領格であることは一目で分かった。
「沢渡です。木太刀一本、お預かりして持ってきました」
「棟梁と呼んでくれ。うちの若いのが腰をやらかしたせいで、余計な金を使わせちまったな」
「使ったのは太刀を運ぶ手間賃だけですよ。腰の分の慰謝料まで請求書に上乗せしたりはしません」
棟梁は豪快に笑い、隣に座る男の背中を平手で叩いた。叩かれた男のほうは愛想笑いひとつ浮かべなかったので、俺はそちらへ視線を落とした。
五人の中でいちばん若い。二十歳そこそこで、茶碗の飯の減り方が他の四人に比べて明らかに遅い。
「今年、この山へ初めて入るんでしてね」
棟梁が代わりに説明した。
「初めてなら、登りよりも下りのほうが長く感じられますよ。登った時間の感覚は当てにせず、下りこそ手元の時計をこまめに見てください」
若い男は小さく頷いたが、声を出しての返事は返してこなかった。
十二人で毎年少しずつ金を積み立て、都合のついた者が代表として山へ入る。今年は五人編成で、この大山が初めての者が一人。それだけ聞けば、道中で想定される足並みと荷の負担はおおむね見当がついた。
俺は土間の隅で木太刀を覆っていた白布の紐を解き、中ほどを両手でしっかりと支えて持ち上げた。
三日前に高尾の詰所で受け取ったときよりも、手のひらにずしりと重く沈み込んでくる。一晩のうちに湿気を吸い込んでいるのだ。裏大山に入れば年中雨が降っている。標高を上げるにつれて、この重みはさらに増すことになる。
「浅井さん、背負子の荷台を一段上げますよ」
背後の遼へ声をかけると、返事よりも早く手が伸びてきた。だが荷台の金具を外す向きが上下逆だったので、俺が手を添えて向きを直した。
「逆ですよ」
「あ……見て覚えたつもりだったんですけど」
「他人の手元を見るのと、自分の手で荷を組むのは、まったく別の仕事ですからね」
遼は金具を締め直しながら、板の間で食事を続ける五人の姿を横目で盗み見ていた。
「あの人たちも、上まで登るんですよね」
「行きますよ。ただし、頂までは行きません」
「え……太刀を納めに行くんじゃないんですか」
「納める場所が、頂より手前にあるんですよ」
遼は腑に落ちないといった顔で眉をひそめたが、土間には客たちの耳がある。俺は締め直した背負子の固定紐を強く引き絞り、それ以上の無駄口を切り上げた。
棟梁が立ち上がり、膝の白鉢巻きを額へきつく巻き締めた。
「女将さん、先生はまだかい」
「関の様子を見てくるとおっしゃって。もうじき戻られますよ」
奥の台所から顔を出した宿の女将が答えたが、俺にはその『先生』が誰を指しているのかまでは分からなかった。講によっては、同行する先達を先生と呼んで立てる習慣がある、という程度の知識があるだけだ。
顔を合わせる前に、こちらの隊が先に出発する。
歩荷は客より早く出て、客より早く下りる。それが山で荷を運ぶ者の鉄則であり、余計な関わりを持たないための基本だった。
◆
関の門の手前に、小さな滝があった。
参道から外れて杉の急斜面を下りていくと、冷たい水音が急激に耳朶を打った。岩肌を滑り落ちる落差は俺の背丈より少し高い程度で、名のある滝と呼ぶには控えめな規模だ。
それでも十二月の冷気に晒された水流は、眺めているだけで指の関節が痛むほど冷え切っていた。
遼が足元を止めた。
「これ……入るんですか」
「垢離場です。この峰に古くから伝わる作法で、ここで水をかぶって身を清めないと関を通してもらえません」
「全身浸かるんですか」
「肩までで十分です。気合の入った人間は頭からかぶりますが、そこは自分の体調と相談してください」
俺は防寒着の上着を脱ぎ、備え付けの手桶で二度、首の後ろから肩へ向かって一気に冷水を落とした。肺腑の空気が一度完全に止まり、そのあとで大きな呼気が勝手に口から吐き出される。
遼は三度ほど手桶を持ち上げては躊躇し、最後は目を固く閉じて桶を一気に傾けた。勢いが余って、半分ほどが手前の地面へこぼれ落ちる。
「……っ、冷たッ!」
「それだけ大声が出せるなら十分ですよ」
「これ、本当にやる意味あるんですか」
「山の作法にいちいち理屈を求め始めると、だいたい話が長くなりますよ」
手拭いで首筋の水を素早く拭い取り、乾いた上着を急いで羽織り直した。濡れた肌のまま冬の風に吹かれれば、山へ入る前に体温の芯をごっそりと持っていかれる。
「意味は深く考えなくていいですが、手順の順番だけは絶対に守ってください。水をかぶる前に、必ず乾いた着替えを手元に出しておくこと」
遼が慌てて自分の背嚢のファスナーを開けると、案の定、予備の肌着はいちばん底に丸めて押し込まれていた。
「……底に入ってました」
「底ですね」
「次は、上に入れておきます」
「今日一日歩く間に、もう一回くらい同じ失敗で慌てることになりますよ」
◆
裏大山の関は、杉林の切れ目にひっそりと佇んでいた。
古い木の門柱と、板張りの簡素な窓口があるだけの構えだ。裏高尾の関に比べると、門の横幅が一回りほど広く作られている。
カゲは門柱の数歩手前で自ら足を止め、その白い輪郭を俺の足元の影の中へすっと沈み込ませた。
窓口の台帳へ名前と資格を書き入れ、足元の影に白い狼が一頭いることも書き添えた。窓口の男は欄外のその一行に目を留め、高尾から回ってきた照会の紙と見比べてから、黙って判を押した。細長い手形を受け取る。山の紙で漉かれた入山証であり、無事に還って窓口へ返却するまでの間、俺の手形が未返却であることを台帳が記録し続ける。
供物の米は、俺と遼の分を合わせて二合。窓口の脇に据えられた升へ一合ずつさらさらと落とし入れると、番をしていた初老の男が無言で木の蓋を閉じた。
「歩荷一名、見習い一名だな。届けの編成は」
「二人で一つの隊です。浅井は俺の届けの下に入れます」
横から遼が慌てて口を挟んできた。
「あの、頼んであった先達さんは、どうしましょう」
「今日のところは必要ありません。客としてではなく、俺の見習いとして入る約束でしょう。万が一のときの管理責任はすべて俺の側にあります」
遼は少し情けない顔になった。
「……前金、もう払っちゃいましたよ」
「次に自分の金で客として登るとき、その先達を改めて呼べばいいでしょう」
窓口の男が二枚目の手形を差し出しながら、初めて顔を上げてこちらを眺めた。
「義理堅い美談かと思えば、前金の話が出た途端に世知辛くなるな」
門には扉がなく、素通しの木の枠が立っているだけだった。
敷居を踏み越えた瞬間、表の参道の喧騒がぷつりと耳から消え去った。
立ち並ぶ杉の幹が表の倍ほどの太さに膨れ上がり、踏み固められた道幅は一気に半分へと狭まる。
そして、雨が降っていた。
十歩も歩かないうちに、足元の影から白い毛並みが滑り出し、カゲが当たり前のような顔で俺の右脇へ並んだ。濡れそぼっていく毛の中で、背骨に走る一本の黒い筋だけが、落ちてくる雨粒を油を弾くように弾いている。
門の手前までは乾いた冬の雪空だったのに、こちら側は容赦のない冷たい雨だった。踏みしめる黒土は泥濘んでいるが、凍りついてはいない。
遼が立ち止まり、口を半開きにしたまま空を見上げた。
「裏大山は、一年を通じてずっとこの天気なんですよ」
「一年中、雨なんですか……?」
「峰ごとに支配する天候が固定されていて、季節が移っても変わりません。だから真冬でも雪に埋もれず、客が入れるんです」
「雪山をラッセルするよりは、足元が楽じゃないですか」
「楽なのは最初のうちだけですよ。濡れ鼠になったまま冷たい風に晒され続ける時間が長い。立ち止まれば一気に体温を奪われます」
ヘッドライトの防水蓋を指で押さえ、予備電池を入れた袋の口を二重に折った。裏山でも人間の電気は働く。だが、携帯回線も測位衛星も届かず、この雨は機械の継ぎ目を執拗に狙う。灯りが点くことと、山の中で助かることは別だった。
頭上に向かって、濡れ光る山道が一本だけ伸びていた。
◆
一合目の急坂に差し掛かったところで、背負子の木太刀が本格的にその重さを主張し始めた。
白布が外側の雨水をぐんぐんと吸い込み、重心が頭上の切っ先へ向かってじわじわと逃げていく。柄を右肩の後ろへ斜めに逃がして担いでいても、三十歩進むごとに一度は、右の肩甲骨の真裏へ重い衝撃が乗っかってくる。
こういう長物を扱うときは、無理に担ぎ方を変えようとするより、足の歩幅そのものを微調整するほうが遥かに体力の消耗を防げる。俺は一歩の歩幅を、普段より指二本ぶん狭めて刻むように歩いた。
背後をついてくる遼は、最初の三十分こそ小気味よくついてきていたが、次の三十分を過ぎたあたりから目に見えて足取りが遅れ始めた。
「浅井さん」
足を止めて振り返ると、遼は泥道の中央に立ちすくみ、背嚢の肩紐を両手で同時に緩めて背負い直そうとしていた。
「肩紐は片方ずつ調整するんです。両方いっぺんに緩めたら、背嚢の重心が背中から一気に離れて、すべての重さが腰へ叩きつけられますよ」
「……もう、完全に腰に来てました」
「痛くなってから直すのは、山ではいちばん高くつく後手ですよ」
遼は歯を食いしばりながら肩紐を締め直し、腰ベルトの位置を骨盤の上へ引き上げた。今度は歩き出しの踏み込みがわずかに軽くなる。
丈が九〇〇まで育っている肉体だ。重い荷を背負って山道を登るための基礎体力だけなら、とっくに十分に備わっている。足りていないのは、荷の重心が自分の骨格のどこに乗っているかを、痛みに変わる前に察知する身体の勘だけだった。
三合目を越えたあたりの道脇に、古い石が不格好に積み上げられていた。長年の雨に洗われて角が丸く削れ、いくつかの石はすでに足元へ転がり落ちて崩れている。長いこと手入れされていないのは、その苔むした崩れ方を見れば分かった。
遼がその積み石へ手を伸ばしかけたので、俺は鋭く制した。
「触らないでください」
「これ、崩れたところを積み直してあげたほうがよくないですか」
「それを積んだ人間の勘定ですよ。俺たちが口を挟む筋合いの勘定じゃありません」
雨は強く激しく叩きつけることもなく、かといって弱まる気配も見せず、ただ同じ一定の分量で容赦なく降り注ぎ続けていた。
裏高尾の山行では、日が落ちて夜が深まる前に下山することが絶対の至上命題だった。だがここでは、濡れている時間が長引けば長引くほど、生身の体温が際限なく削り取られていく。
無駄に立ち止まること自体が、そのまま命を危険に晒す悪手になる。
行程の半分ほどまで登り詰めたところで、登山道が小さな沢を横切る場所に差し掛かった。
渡るための飛び石は完全に濁った水面の下に沈み込み、流れる水流は脛の半ばに達していた。朝方に御師の宿で聞いた水量よりも、明らかに太くなっている。
俺は背負子の木太刀を先に慎重に対岸へ渡し、それから遼の腕を引いて岩の上を渡らせた。順番を逆にすれば、万が一どちらかが足を取られたときに、人間と荷物の両方を一度に流失することになる。
「帰り道は……これ、もっと水が増えてますか」
「増えますね。ここは俺たちが通る本道だから、まだ足場が残っているだけましですよ」
「ほかに、道があるんですか」
「ありますよ。下山するときだけ、別の沢沿いの道を通る決まりになっている人たちがいるんです」
遼は対岸の泥の上で登山靴を打ち鳴らし、まとわりつく泥水を払い落とした。
「……変わった決まりですね。どうしてそんなことをするんですか」
「登りと下りで違う道を踏むことで、山全体をぐるりと一周巡礼したことになるんだそうです。山帰りの道、と呼ばれています」
「沢渡さんは、その道を通らないんですか」
「俺は荷物を所定の場所へ届けて、そのまま最短で帰るだけの歩荷ですからね」




