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第2話 夜道

「みさか屋」の薄暗い土間に装備を広げ、俺は声に出してひとつずつ数えた。


 昼の荷運びなら頭の中で済ませる勘定だが、夜の山に入る前は必ず声に出す。夜の裏山で数え間違いをやらかせば、そのまま命の勘定に直結する。


 紙に書き留める暇はないし、山の中に入れば湿気と汗ですぐに読めなくなる。必要な数字はすべて頭の中へ叩き込んでおく。


「予備の上着が二枚、湯が一升、米の小袋が六つ。防水のヘッドライトが一つ、予備電池が二組、山内無線が一台。裾の紙(すそのかみ)が三枚、千の紙(せんのかみ)が二枚――」


 装備を揃える作業で本当に頭を使うのは、何を持っていくかではなく、何を置いていくかを決める引き算だった。


 背負える重量の話ではない。昼に二十二キロの樽と米を六合目まで上げた体だ。平坦な舗装路なら、その倍の重さを背負っても歩き通せる。


 自分の丈(たけ)が二千の壁を越えると、筋力と持久力だけは明らかに人並みの枠をはみ出す。


 だが、どれだけ丈(たけ)が高くなろうと変わらないものもある。暗闇の中で不安定な足場を見極める速度や、崩れかけた斜面で退くか進むかを決める判断力だ。そこは丈(たけ)が一千だろうと三千だろうと、生身の人間の勘に頼るしかない。


 ましてや今夜は、帰りに人間をもう一人背負う計算になる。


 十六歳の少年なら体重は五十キロ前後。怪我をしていれば背負子(しょいこ)ごと括りつけ、夜の崩れた道を下ろさなければならない。


 最初から背中にその分の余白を空けておかなければ、いざ現場で要る装備を投げ捨てる羽目になる。そして山で一度捨てた道具は、次に必要になった瞬間にはもう手元にない。


 だから道具を広げるたび、絶対に要るものと、あったら助かる程度のものを頭の中で天秤にかける。


 まず、テントを棚へ戻した。二人で夜を明かすための荷は置いていく。今夜は夜明けを待たずに担いで下ろす。空いた分を、そのための荷立てにする。


 ロープは外さない。使わずに済む公算が高くても、こればかりは現場で無ければその場で手詰まりになる。


 行動食を半分に削り、代わりに湯筒の湯を増やした。凍えかけた人間に真っ先に必要なのは固形物ではなく、内臓へ直接流し込める熱だ。


「これも持っておいき」


 婆さんが茶卓から飴玉の小袋を放り込んできた。重さのうちに入らない駄菓子は、天秤に乗せるまでもなく懐へねじ込む。


 手元に残す札は、紙が採れた標高で選別した。


 一千メートル未満の山肌で採れた樹皮で作るのが裾の紙(すそのかみ)、一千以上二千未満の高さで採れたものが千の紙(せんのかみ)だ。札の裏側を見れば、その紙が採れた正確な標高が薄く墨で刷り込まれている。


 その上に、自前の二千の紙(にせんのかみ)が二枚。二千を越える高峰の紙に、達者の声を込めてもらった札だ。一枚で歩荷(ぼっか)の日当四日分、三十万円が吹き飛ぶ。


 札というのは、紙が採れた標高のあたりまでが一番よく効き、そこから上へ行くほど効き目が薄れていく。


 遭難者が高い場所にいればいるほど、手元で頼りになる札の値段も跳ね上がる。救助に出る者の懐に、身の丈(たけ)に合わない大金が眠ることになるのはそのためだ。


「その二千の紙(にせんのかみ)が二枚か。相変わらず、歩荷(ぼっか)の分際で懐だけは大名だな」


 土間の戸口から、低くしゃがれた声が飛んできた。


 須貝(すがい)が立っていた。


 じいさんと呼ぶと露骨に嫌な顔をする。実際、五十をいくつか越えているはずなのだが、外見だけを見れば四十手前でぴたりと歳が止まっているように見える。


 丈(たけ)が二千を越えると老化が遅くなるという噂が本当なのか、単にこの男が図々しいだけなのか。三年顔を合わせているが、いまだに判断がつかない。


「早いですね」


「関(せき)の鐘があれだけけたたましく鳴り響きゃ、寝てても目が覚めるわ。どうせ今夜も、わしとお前の貧乏くじだろ」


 須貝(すがい)は公認の先達(せんだつ)免許を持つ山稼ぎで、裏高尾(うらたかお)なら道の癖から夜道の変わり方まで骨の髄まで知り尽くしている。救助の本隊が到着するまでの間、嘱託の二人で初動の穴を埋める。いつもの段取りだった。


「状況は」


「関(せき)の台帳で手形(てがた)が二枚、戻ってない。それだけだ。居場所も生死も、あの紙切れは教えてくれん」


「昼の一時半ごろ、五合目の手前で追い越しました」


 俺は背負子(しょいこ)の締め紐をぐっと引き絞りながら、昼間の記憶の座標を呼び戻した。


「まだ上へ登っていて、弟の足取りは完全に乱れていました。浮き石を踏み抜いてばかりいた」


「なら、日没の時点で六合目前後か」


 須貝(すがい)は腰の雑嚢を確かめた。米を詰めた小袋が、俺のものより多く詰め込まれている。


「お前が昼に見たものが、今夜の手掛かりのすべてだ。見立てを外すなよ」


「外したら、朝までに二つ転がることになります」


「だから外すなと言っとる」


 婆さんが、竹の皮に包んだ握り飯を二つ、無言で俺の胸元へ押しつけてきた。


「朝のあの子たちだよ。……ちゃんと連れて帰っておいで」


「団子二皿ぶんのお客さんですからね。手ぶらじゃ帰れませんよ」


 乾いた冗談を口にして、俺は土間を踏み出した。くだらない軽口が回っているうちは、まだ頭が冷えている証拠だ。


 歩きながら、昼間の五合目をもう一度頭の中で歩き直す。


 三歩に一度石を踏み抜いていた弟の足。先達(せんだつ)もつけずに弟を連れ歩いていた兄の薄い笑み。「日が落ちる前に、関(せき)まで」と声をかけ、それきり追い抜いた俺。


 あの歩調と時間の経過から逆算すれば、日が落ちた瞬間、二人は六合目周辺のどこかにいたはずだ。十一月の夜山だ。動けなくなった十六歳を、深夜まで山中に放置しておけば確実に凍える。


 急ぐ理由は、それだけで足りていた。


 関(せき)の窓口へ駆け込むと、当番の役人が手早く夜間の承認印を捺した。


 手形(てがた)は二枚。俺の分と、須貝(すがい)の分だ。


「本隊には、六合目の岩場で合流と伝えておく。……頼むぞ」


「日暮れには団子屋にいるって、昼間に言ったばかりなんですけどね」


「言えば死なない呪いなら、毎日でも唱えてろ」


 役人は声を落とし、俺たちの顔を見据えた。


「本隊が関(せき)に着いたら、無線で入れる。無理だけはするなよ」


 手形(てがた)を受け取ろうと手を伸ばすと、役人は紙の端を指で押さえたまま言った。


「あんたはいつも、勘定が自分にだけ甘い」


 返事はしなかった。手形(てがた)を懐の奥へ差し込み、木の門をくぐった。


◆


 夜の裏高尾(うらたかお)は、昼とは匂いの質からして違っていた。


 杉のヤニと湿った黒土の匂いが重く鼻腔を塞ぎ、それ以上に、周囲の音が異常なほど吸い込まれて静まり返っている。昼間でも表の音を遮断する山だが、夜はその吸い込み方が桁違いだった。


 ヘッドライトの白い輪を、足元から前方の杉へ向けた。人間の電気は、裏山でも普通に働く。だが外の携帯回線も測位衛星も、この山の相までは届かない。山内無線も中継器のない谷へ入れば沈黙する。灯りを持てることと、現在地や帰り道が分かることは別だった。


 そして案の定、道は姿を変えていた。


 昼間に下ってきたはずの道筋は三合目の先でぷつりと途切れ、代わりに右手へ向かって、見覚えのない緩やかな坂道がぽっかりと口を開けている。


 足元が妙に整っていて、いかにも歩きやすそうな傾斜だった。


 夜の山が親切を装い始めたら、真っ先に罠を疑うのが鉄則だ。


「須貝(すがい)さん」


「見えとるわ」


 須貝(すがい)は雑嚢から米の小袋をひとつ取り出すと、道が分かれる辻(つじ)の中央へ無造作に置いた。それから短く、首を折るように頭を下げる。


「借りますよ、と声をかけとくんだ」


「効くんですか、それ」


「効くかどうかは山が決めることだ。筋を通すかどうかは、こっちが決める」


 供物(くもつ)だ。


 関(せき)の窓口で納める米と同じ、山への通行料のようなものだった。


 夜の裏山では、辻(つじ)ごとに米を置いて道を借りる。それが先達(せんだつ)の作法であり、入山の講習などでは決して教えられない現場の知恵だった。もっとも、素人に教えたところで、米の重さを嫌って金や塩で済ませようとするのが関の山らしい。


 二つ目の辻(つじ)でも、須貝(すがい)は米を置いた。


 三つ目の辻(つじ)でも、同じように頭を下げて米を置いた。


 俺の六つの小袋はまだ手元にある。ここまでに道へ置いたのは、須貝(すがい)の袋から三つだ。米は安い。だが夜道においては、どんな高価な札よりも確実に足元を繋いでくれる。


 須貝(すがい)の持論によれば、山というものは律儀な客の顔を覚えるのだそうだ。


 道筋が組み替わろうと、山そのものの骨組みまで動かせるわけではない。沢の水音は常に同じ谷底から響いてくるし、風は決まった尾根の鞍部を越えて抜けていく。


 狂わされるのが道だけなら、道を信用するのをやめ、地形の凹凸だけを信じて歩けばいい。


「六合目の岩場まで、あとどれくらいだ」


「この傾斜が本物なら二十分です」


「本物なら、な」


 その二十分の半分ほどを消化したところで、不意に空気が震えた。


 木々が鳴った。


 一本や二本ではない。


 左手の急斜面、その遥か頭上から順を追って、太い枝がしなって跳ね返る重い連続音が駆け下りてくる。


 その音の間隔は、到底人間の歩幅ではなかった。


「止まれ」


 須貝(すがい)の声が、鋭く地を這った。


「明かりを伏せるぞ。しゃがめ、動くな」


「子どもが凍えてます。一刻を争う」


「死人の頭数を増やしてどうする」


 俺は額のヘッドライトを切った。須貝(すがい)も自分の灯りを消し、腰から提げた小さな火袋(ひぶくろ)へ片手をかざした。


 電灯は消せば済む。だが、その火袋(ひぶくろ)は発見した人間を温めるための備えだった。ここで火まで殺せば、濡れた夜気の中でもう一度起こせる保証がない。


 須貝(すがい)は首から提げた数珠(じゅず)の珠を、指先で強く握り込んだ。


 赤茶の珠は、たった一つだけだ。須貝(すがい)が頂で主(ぬし)に勝ち、登破(とうは)を果たした証。珠がなくても験(げん)は使えるが、この男は決して首から外さない。


【火は伏せよ、灰は眠れ】


【風に、渡すな――】


『火伏せ(ひぶせ)』


 火袋(ひぶくろ)の芯で揺れていた黄色い火が、すっと闇の底へ沈み込んだ。


 火が消えたわけではない。掌をかざすと温かい熱が確かに残っている。ただ、そこから漏れ出る光だけが、周囲の闇に呑まれて外へ届かなくなったのだ。


 峰の頂にいる主(ぬし)に勝った者は、その身に験(げん)を継ぐ。須貝(すがい)は火の峰からこの力を持ち帰った。まだ自分の験(げん)を持たない俺には、できない芸当だ。


 闇に目を凝らしても火は見えない。だが、凍えた少年へ持っていく熱は、まだそこにある。俺は火袋(ひぶくろ)から手を引き、岩陰で膝を折った。


 頭上の空気が重く割れた。


 一度。二度。


 羽ばたきの音は聞こえない。ただ、巨大な質量を持った何かが猛烈な速度で夜気を切り裂き、木々の梢を順番に押し曲げていく。


 それは、俺たちが息を潜めている頭上を、大きな円を描いてゆっくりと旋回していた。


 動けない、長い静寂が始まった。


 しゃがんだ姿勢は、最初の三十秒なら耐えられる。だが一分を過ぎたあたりから、太腿の前の筋肉が焼けつくように悲鳴を上げ始めた。


 膝を伸ばせば楽になる。だが足を動かせば、擦れ合った服の布地が夜気を鳴らす。だから筋肉が引き千切れそうになる痛みを、そのまま噛み殺して耐えた。


 耳だけを極限まで研ぎ澄ます。


 空気を割る重い気配が右へ旋回し、枝葉のざわめきが遠ざかっては、またすぐ上へと戻ってくる。


 二周目。


 三周目。


 頭上の連中は、不意に光を見失った場所の周囲を、執拗な正確さで舐めるように探していた。


 じっと耐えている間にも、体の芯から熱が逃げていく。昼間に背負子(しょいこ)を担いで流した汗が冷え、背中の皮膚に氷を貼りつけられたように冷たい。


 俺の体でさえこれだ。六合目の吹きさらしで座り込んでいるはずの十六歳は、いまどうなっている。


 考えたくない引き算ほど、頭の裏側へ勝手に浮かび上がってくる。


 隣の須貝(すがい)は、呼吸の音も立てず、岩になりきっていた。


 五十を過ぎた体で、この姿勢を微動だにせず維持し続ける。二千の丈(たけ)がもたらす筋力なのか、三十年山を踏んできた経験の賜物なのか。おそらく、その両方だ。


 四周目の気配は来なかった。


 木々の鳴り渡る音が、斜面の下から順に遠ざかり、やがて完全な静寂の中へ溶けて消えた。


 それでも須貝(すがい)は動かず、俺も爪先ひとつ動かさなかった。


 さらに一分、闇の底で息を殺して待った。


 須貝(すがい)が長く、濁った息を吐き出し、火袋(ひぶくろ)の光を闇の中から引き戻した。俺もヘッドライトを赤色の弱い灯りで点け直す。


「……烏天狗(からすてんぐ)だ。若いのが三羽、夜遊びの帰りだな」


「襲ってこないんですね」


「動く明かりは獲物に見える。動かん闇は、転がっとる岩と同じだ」


 覚えておけ、とは言わなかった。言われなくても俺が頭に叩き込むことを、知っている目つきだった。


 昼の裏高尾(うらたかお)なら、企業の社員たちが列をなして歩いている。だが夜の裏高尾(うらたかお)は、完全に連中の縄張りだ。人間は日が落ちてから夜が明けるまでの間、わずかな隙間を間借りして歩かせてもらっているに過ぎない。


 今夜は、その間借りの山のどこかに、十九歳と十六歳の兄弟が取り残されている。


「二人がまだ生きて動いとるならな」


 再び歩き出しながら、須貝(すがい)が前方を睨んで言った。


「火袋(ひぶくろ)の明かりを目指しとるのが一番正しい。入山講習の教え通りだ。夜の裏山で、一番死ににくい選択をしとる」


「目指しているとは限りませんよ」


「ほかに、人がいる目印なんてどこにもありゃせん」


 須貝(すがい)は前方の暗がりを見据えた。


「まず、火袋(ひぶくろ)へ向かう本道沿いを洗い直す」


「……目指して、それでも小屋に着いていないとしたら」


「そこから先よ」


 須貝(すがい)はそれ以上、言葉を継がなかった。


 正しい判断を選んだからといって、山で正しい結末に辿り着けるとは限らない。その途中で何が起きたのか。頭に浮かぶ結末のどれひとつとして、口に出したいものはなかった。


◆


 少年は、六合目の道標から二百歩ほど道を外れた岩の窪みに座り込んでいた。


 夜の山で素人を待たせるなら、吹き下ろす風の背後になり、背中を硬い岩に預けられる場所がいい。兄が選んだ場所は、まさにその通りの地形だった。


 その見立ての正しさだけに、俺はあの兄の判断を少しだけ見直した。弟をここに置いたこと自体は、決して間違っていない。捜す側にとっても、これ以上ありがたい位置はなかった。


 少年は両膝を抱え込み、胸元にある油紙の札入れを両手で固く握りしめていた。


 目は開いている。


 ヘッドライトの光が顔を照らすと、凍えきった唇がかすかに動いた。


「……たす、けて」


 考えるより先に体が動いていた。


 しゃがみ込んで手首を取る。皮膚は氷のように冷たく、脈は細く速い。唇は紫色に変色しかけていた。冷えが進んでいる。だが意識はあり、こちらの呼びかけにも反応できる。


「救助です。沢渡(さわたり)といいます。名前は言えますか」


「あさい……みなと」


「湊(みなと)だな。痛むところはどこだ」


「あし……くび。あとは、ない。さむい、だけ」


「分かった。服の中に手を入れるぞ。汗で濡れていたら着替えさせる」


 背中に手を差し入れたが、肌着は乾いていた。汗冷えが重なっていない。この寒さの中で、それだけでも奇跡のような拾い物だった。


 受け答えがはっきりしているのを確かめ、湯筒から温かい湯を少しずつ飲ませた。むせずに飲み込めるのを見て、婆さんにもらった飴玉を自分で口へ入れさせる。


 予備の防寒着で首元からすっぽりと包み込みながら、指先が握り返してくる力、瞳孔の動き、全身を細かく揺らしている震えを確かめた。


 震えは残っている。体がまだ熱を作ろうとしている。震えが止まり、意識が朦朧とし始めた遭難者のほうが、何倍も死に近い。


 須貝(すがい)が無言で、懐から小さなガラス瓶を一本、俺の掌へ落とした。


 気付け(きつけ)だ。救助の嘱託に一人二本ずつ支給される官給品だった。


 栓を抜き、湊(みなと)の唇の隙間から流し込ませる。飲み下した瞬間、湊(みなと)の肩がびくりと大きく跳ねた。呼吸のリズムが変わり、青白かった指先の爪へ、じわりと血の気が戻っていく。


 湯や飴よりも早く、強制的に体の芯から熱を引き戻すための薬だ。ただし、これで戻せるのは一時的な体力に過ぎない。


 湊(みなと)が、血色の戻り始めた自分の手を呆然と見つめた。


「……あったかい」


「薬で戻せる限界まで戻しただけだ。これで助かったなんて思うなよ」


 次に足首へ触れると、湊(みなと)が痛みに息を呑んだ。靴下を下げると、赤黒い牙の痕が四つ、くっきりと残っていた。出血は止まっているが、傷口の肉は引き合っておらず、今にも口を開きそうだ。


 売店で売っている一番安い傷薬(きずぐすり)を塗ったのだろう。皮膚の下には、札による固定の硬さがかすかに残っているが、その効き目もすでに抜けかけていた。


 須貝(すがい)が無言で、もう一本の瓶を差し出してきた。


 救助隊が携行する上等な傷薬(きずぐすり)で、中の液体は売店のものよりはるかに色が濃い。傷口へ数滴垂らすと、肉が泡立つ間もなく牙の痕がぎゅっと引き合い、滑らかな皮膚となって塞がった。


 安い薬では塞がりきらなかった傷を、一瞬で閉じた。値段の違いは、治せる傷の深さにも出る。


 だが、それでも歩かせるわけにはいかない。皮膚は塞がっても、内側の腫れまでは引かない。無理をさせればすぐにまた痛む。


 この暗闇と冷気の中、十六歳の少年に変わってしまった夜道を歩かせる理由がどこにもない。テーピングで足首を固め、背負子(しょいこ)に括りつけて運ぶ。やるべき手順は決まった。


 湊(みなと)の胸元に、油紙の札入れが揺れていた。


 首から下げ、胸骨の真上に収める。山に入る者が必ず取るべき正しい携行の型だ。濡れにくく、転倒しても潰れず、片手ですぐに指が届く。


 本人が意識を失っても、見つけた救助者の目に一番に飛び込んでくる。ポケットの奥へ突っ込んでおけば、いざというときに二動作遅れる。


 山の素人であるはずの弟が、寸分の狂いもない位置に札を提げている。


 あの兄は、弟に持たせる作法だけは、れっきとした山のやり方を守らせていた。


 札入れの隙間から紙を引っ張り出したところで、手が止まった。


 封が切られていない。


「これ、使い方が分からなかったのか」


 湊(みなと)は小さく首を横に振った。


「……兄ちゃんの、だから」


 俺は札を押し戻し、油紙を湊(みなと)の胸元へ収め直した。何か言いかけて喉で止め、代わりに背負子(しょいこ)の結束紐を強く締め直した。


「兄ちゃんは、札をあと何枚持っていた」


「持ってない。おれの足に一枚使って、最後の一枚を、この札入れごと、おれの首にかけて……」


 封の切られていない最後の一枚。


 あの兄は、手持ちの予備をすべて弟へ託し、自分は残数ゼロの丸裸で夜の裏山を登っていったのだ。他人に自分の持ち札をすべて譲り渡し、何も持たずに夜の山へ足を踏み入れる。


 どこかで聞き覚えのある、ひどく馬鹿げた話だった。


「兄ちゃんは、どこへ向かった」


 湊(みなと)の視線が、おずおずと頭上の闇へ向けられた。


「灯りを……出張所の火袋(ひぶくろ)を目指すって。講習で習ったから、そこへ行けば助かるって」


 湊(みなと)は冷たい指先で、俺の上着の袖を強く握りしめた。


「人を呼びに行くって言ったんだ。日が落ちて、道がなくなって……三十分くらい登ったところで、おれをここに隠して、すぐに」


 俺は顔を上げた。


 生い茂る杉の梢の隙間から、六合目のさらに上、切り立った岩棚の方角を仰ぎ見る。


 赤い屋根の上で、鉄の筒が二度短く、一度長く、赤橙色の光を繰り返していた。


 昼間に俺が樽や米と一緒に担ぎ上げた、あの蓄電池で点いている標識灯だ。


 ここからなら、道さえ素直なら三十分で届く距離だ。兄が弟を残して登り始めてから、すでに二時間半から三時間は経過している。


「兄ちゃんは、上へ行ったんだな」


 湊(みなと)が小さく頷いた。


「戻って、こないんだ」


 灯りは見えている。


 道も続いている。


 人間だけが、辿り着いていない。


 それが夜の山において何を意味するのか、目の前の少年に教える必要はどこにもなかった。


──────────


【この話に出てきた言葉】


・主(ぬし)

峰の頂にいる、ただ一体の山のもの。

どの峰にも一体だけいて、打ち倒しても、いつかまた山が編み直す。

主に勝つと、その峰の験を継げる。


・登破(とうは)

主に勝つこと。院がそう認めて、台帳へ記録する。

主との攻防に加われば、立ち合いになる。

だから丈だけが欲しい者は、主に挑まず引き返す。


・気付け(きつけ)

疲れと冷えに効く薬。一万円ほどする。

山で働く者は持つが、素人はまず買わない。

体力は戻るが、傷は塞がらない。傷には傷薬を使う。


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