第1話 日没
登って、生きて還った高さが、そのまま人の力になる。
俺は沢渡迅。二十三歳の担ぎ屋だ。人の荷を山へ担ぎ上げ、ときには歩けなくなった人間を担ぎ下ろす。背負子ひとつで飯を食っている。
俺の丈は二四〇〇。あの日、兄貴と登った最後の高さのままで、三年間、一メートルも動いていない。
兄貴は、あの山から還らなかった。
俺はもう、自分のためには登らない。担ぐだけだ。荷の届け先と、下りてこない誰かの居場所が、いまの俺の行き先だった。
◆
十一月の清滝は、昼を回っても底冷えが残っていた。寒さ自体は構わない。荷を背負って汗をかく担ぎ屋にとって、冬場は夏よりずっと歩きやすい。
高尾山口の駅前にはまだ観光客の列があり、ケーブルカーが金属のこすれる音を響かせて上がっていく。そこから川沿いに八分ほど歩くと人の気配が急に途切れ、古い鳥居に似た木の門と、小さな窓口だけが現れる。
関だ。裏高尾へ入る道はここしかない。
窓口の台の秤へ、背負い込んできた荷を載せた。酒の小樽、屋根灯の交換用蓄電池、補修部品、非常用の小さな油缶、米が一袋。締めて二十二キロを、六合目の出張所まで届ける。役所の発注なので日当は渋いが、仕事があるだけましだった。
「規定だからね。丈は」
窓口の役人は、こちらの顔を見ながら機械的に帳票へ目を落とした。
「二四〇〇。三年据え置きです」
「……自分から言うようになったか」
「先に言われると、朝から効くんで」
三年という数字なら、軽口にできた。兄貴と別れた先で何が起きたのかは、いまも分からない。山へ入るたびに二四〇〇と答え、そのたびに、終わった話として片付け損ねる。
役人は小さく息を吐き、机の引き出しから白く細長い手形を一枚寄越した。山の紙で作られた入山証で、登った高さに応じて紙の下から茶色い線が染み上がっていく。帰りに窓口へ返せば、還丈院がその高さを公の記録として台帳に録す。
「日が落ちる前に返せよ。夜の裏高尾は道が変わる」
「日暮れには団子屋にいますよ」
「知ってて引っかかるのが、毎年いるんだ」
手形を胸の内ポケットへ押し込み、背負子の紐を引いて樽を担ぎ直した。肩の肉へ食い込ませ、腰の帯でぐっと重さを受け止める。ここで収まりを妥協すると、四合目を過ぎたあたりで腰が悲鳴を上げる。
木の門をくぐった。
背後で観光客の声や電車の音が、ぷつりと糸を切られたように途切れた。
杉の匂いが急に濃くなり、踏み固められた道幅は半分に縮む。同じ山腹のはずなのに、立ち並ぶ木々の幹は表の倍ほど太い。
薄暗い午後の光の向こうに、雲を突き抜けて立ち上がる巨大な山肌が見えていた。あれで頂の標高は五九九メートルしかない。
八年前、日本中の霊山が開いた。高尾山にも富士山にも、実際の山の上にもう一つの山肌が重なった。世間ではダンジョンと呼ばれるそれを、登る人間は裏と呼んでいる。外から見上げれば天を衝くほど高いのに、いざ入ってみれば標高の数字は表と変わらない。
目で測った距離も高さも、裏では何ひとつ当てにならない。だから俺は、時計の針と足の歩数だけで歩く。八年通ってもこの異様な山肌には慣れないし、慣れてはいけないのだと思う。
歩き始めの十分間は、いつも体が荷の重さに文句を言ってくる。肩の下の筋が強張り、足が重い。ここで焦って力めば一日保たないので、呼吸を四つ数える間に一歩を置く一定のリズムを保った。
十分も歩けば、体は重さを受け入れて文句を言わなくなる。あとは自然と足が前に出る。
樽の荷は米袋より厄介だった。片足へ体重を乗せた半拍あとに、中の酒が遅れて揺れ、背中を外側へ押し出してくる。
斜面の曲がり角へ足を置き、樽の酒が遅れて外へ寄る前に、腰を半歩ぶん内へ残す。背中を押す重みは来たが、次の足は道の真ん中へ置けた。その重心の置き方を覚えるまでに二年かかった。
登るのは足の力ではない。呼吸と、足を置く場所の選び方だ。
三合目の道標を通過したのは十九分後。二十二キロを背負っているにしては悪くない滑り出しだった。
四合目の広場で、揃いの札入れを首から下げた集団とすれ違った。企業の新人研修らしく、先頭に立つ先達が何か説明するたび、全員が熱心に頷いている。
古い神仏や化け物が棲む山も、人間にとっては飯の種だった。山で採れた霊水や薬は難病を治す。八年もあれば、人は化け物の棲む山にさえ役所を建て、値札をぶら下げ、研修コースまで作ってしまう。
昼の裏高尾を歩く限りはそれで十分だ。日が落ちる前に下りていく者たちは、夜の裏山がどうなるかも知らないまま一生を終えられる。
四合目から先は、雨水で土が抉れ、杉の根が濡れた階段のように黒く浮き出ていた。根の表面はすり減って滑りやすく、間の窪みには泥水が溜まっている。どこを踏んでも歩きやすいとは言えない。
こういう場所では、爪先を斜めに差し込み、足が浮いている時間を短くする。歩幅を抑え、足場を確かめながら一定の調子で進んだ。
腿の裏に心地よい張りが出てきた。この感覚なら、標準コースタイムの八割ほどで登れている。
五合目の手前の曲がり角で、不意に前がつかえた。
十九歳くらいの若い男と、高校生ほどの少年が並んで登っていた。こんな時間、こんな高い場所を、ずいぶん心細い速度で歩いている。
弟らしい少年は、三歩進むごとに一度、ぐらつく石を踏んで足をよろめかせていた。地面に据わっていない石は、体重を乗せれば沈むか回転する。
山を歩き慣れた人間なら、目で見る前に足裏の感触でそれを避ける。あの足取りは、まだ山の歩き方を知らない。
二人の周りを見回したが、先達の姿はなかった。兄弟だけで入っているらしい。
兄のほうが俺の足音に気づいて道の端へ寄り、どうぞ、と手を差し出して道を譲った。どこにでもいる人のよさそうな顔立ちだ。弟のほうは、俺が背負った大きな酒樽を見上げて「すげえ」と小さく息を漏らした。
「……日が落ちる前に、関まで下りてください」
追い越しざま、それだけ声をかけた。
「分かってます」
兄のほうが屈託なく笑った。
俺は二人を追い抜き、それきり振り返らずに足を運んだ。他人の山行だ。歩荷の仕事は背中の荷を届けることであって、客の安全や行程まで背負い込むのは先達の領分だった。俺が口を挟む筋合いではない。
六合目の出張所は、本道から一段上がった岩棚の上にあった。簡素な木造の小屋に赤いトタン屋根が乗り、その上から黒い鉄の筒が一本、煙突のように空へ突き出ている。関から一時間十二分。二十二キロを担いでの時間としては上出来だった。
「お、沢渡くん。早かったな」
詰所の親父が受領印の判子を探す間に、背負子の紐を解いて樽を下ろし、米袋を土間へ下ろした。肩から一気に重さが抜けると、体が浮き上がるように軽くなる。この瞬間だけは、何年やっても自然と息が緩む。
「酒は分かりますけど、電池と油を両方ですか」
土間の縁に腰をかけ、汗を拭いながら尋ねた。
「酒は夜の灯り番の分だよ。ここは夜になると骨まで冷えるからな」
親父は蓄電池を受け取ると、屋根の上の鉄筒を顎で指した。その根元では、赤い屋根へ伏せるように据えられた薄い太陽電池が雨上がりの光を返している。
「普段はこいつと、お天道さんで点ける。油は両方死んだときの控えだ」
「夜通しですか」
「夜の裏で迷った連中が、最後に目指せる目印が要るんだよ。灯りってのは、そのためにある」
親父は酒樽の栓を指先で確かめ、ため息交じりに言葉を継いだ。
「もっとも、日が落ちてからあの灯りを頼りに上がってくる客なんてのは、もうまともな状態じゃないがな」
入山前の講習で誰もが教わる鉄則だった。夜の裏高尾で道を見失ったら、下手に歩き回らず留まること。それでも動かざるを得ないなら、尾根で赤橙色に明滅する火袋を目指すこと。
昔は油を燃やした鉄筒も、いまは蓄電池で灯る標識灯になった。それでも呼び名だけは火袋のままだ。二度短く、一度長く。講習で覚えさせられる明滅を、日が落ちれば夜通し繰り返す。
「誰も来ないといいですね」
「全くだ。酒だけ減らして朝を迎えたいよ」
用件を済ませ、空になった背負子を担いで山を下りた。道中、二人とはすれ違わなかった。荷がないぶん足は軽く、五十分で関の門まで戻ってきた。
窓口で手形を差し出すと、役人が西日に透かして確認した。白い紙の下から、薄茶色の線が五九九メートルの少し手前まで伸びて止まっている。
「六合目まで確認した。ご苦労さん」
山の端を見上げると、日没までにはまだ一時間半ほどの余裕があった。
◆
その日の朝、浅井湊は生まれて初めて団子を二皿平らげた。
関のすぐ手前にある古い茶屋の店先で、兄ちゃんが「入山前の験担ぎだ」と言い張って勝手に追加したのだ。山に入る前には甘いものを腹に入れておく決まりがあるらしいが、本当かどうかは湊には分からなかった。
ただ、兄ちゃんが二皿目を注文したとき、奥から茶を持ってきた店の婆さんが湊の顔を見て小さく笑った。
「あんた、山に入るのは初めてだね」
「……どうして分かるんですか」
「食べ方を見れば分かるよ。気をつけて行っておいで」
湊は、なにかの試験に合格したような誇らしい気分で茶屋の暖簾をくぐった。
◆
朝は真っ白だった手形の紙に、いつの間にか薄茶色の線が染み上がっていた。いまは紙の半分近くまで色が届いている。
「なあ兄ちゃん。これ、どこまで来たってこと?」
「五百メートルちょいだな。頂上まで行けば五九九だ」
「五九九って、なんか中途半端だな」
「文句があるなら山に言えよ」
兄ちゃんは振り返りもせず、前を向いたまま足を動かしている。
湊が十六歳になったら裏へ連れていく。それは三年前から交わしていた約束だった。先週、湊は十六になった。
朝の関で、窓口の係員は湊の顔をしげしげと眺めてから「先達は同行しているのか」と聞いてきた。
先達というのは、裏山を案内するための公認の免許を持った専門家らしい。初めて裏に入る人間は、先達が一緒でなければ門を通れない規則になっていた。
「途中で合流することになっています」
兄ちゃんは迷いなくそう答えた。真っ赤な嘘だった。
門をくぐってから、兄ちゃんは湊の肩を叩いて笑っていた。
「先達なんていらねえよ。あれは一人で入るときの形式だ。おまえには俺がついてるだろ。俺、丈が九〇〇あるんだからな」
「九〇〇って、そんなにすごいの?」
「そこそこな。登って、無事に還ってきた高さのぶんだけ体が頑丈になるんだよ。……まあ、一千を超えてねえと劇的な違いは出ねえけどな。俺は回数だけはこなしてるから」
それがどれほど凄いことなのか、湊には見当もつかなかった。
ただ、急な坂道でも兄ちゃんの足取りはびくとも揺れないのに、自分は三歩進むごとにぐらつく石を踏んでよろけてしまう。
途中で巨大な酒樽を背負った男の人が、風のように脇をすり抜けていった。
「日が落ちる前に、関まで」と短く声を残して杉の木立の向こうへ消えていったあの背中を見てしまうと、兄ちゃんの九〇〇という数字が本当に頼りになるのか、少し心細くなった。
その、三歩に一度の足取りが悪かった。
土から浮いていた平らな石に体重を乗せた瞬間、石がぐらりと沈んだ。
声を上げる間もなく、湊は地面へ前のめりに手をついていた。
そのとき、背後の茂みでカサリと乾いた音がした。
さっきから聞こえていた音だった。自分たちが歩く足音のすぐ後ろを、少しだけ遅れてついてくる気配。ずっと風のいたずらだと思っていた。
「動くな!」
兄ちゃんの声が、聞いたことのない低さで張り詰めた。
顔を上げようとした瞬間、右の足首へ焼け火箸を押し当てられたような鋭い痛みが走った。
犬だった。野犬より一回り大きく、灰色の毛が体に張りつき、濁った両目だけがじっと動かない。
兄ちゃんが腰の鞘から短い刃物を引き抜き、上から一度だけ鋭く振り下ろした。
犬は鳴き声ひとつ上げず、黒い煤のようなものになってその場でほどけ、跡形もなく消えた。
「……送り犬だ。後ろをついてきて、転んだやつに飛びかかる」
兄ちゃんは小刀の刃先を布で拭い、鞘へ納めた。
「山で採れた素材で打った刃物じゃねえと、刃が通らねえんだ」
それから湊の前に膝をつき、靴下をめくって足首を確かめた。四つの牙の痕が深く食い込み、靴下の縁まで赤い血が滴っている。
「骨はやられてねえ。肉だけだ」
「……歩けるよ。たぶん」
「喋るな」
兄ちゃんは腰の小さな革袋から、小指ほどのガラス瓶を取り出した。中の液体はわずかに緑がかっていて、傾けると水よりも粘り気をもって動く。
「薬?」
「傷薬だ。登山口の売店で売ってる一番安いやつだけどな」
栓を抜いて傷口へ数滴垂らすと、液が皮膚の上を流れる前に、傷口へ吸い込まれるように消えた。
血がぴたりと止まった。
牙の痕の縁が、内側から盛り上がるようにして引き合っていく。湊は自分の足首を瞬きもせずに見つめていた。見ているそばから、傷口が浅くなっていく。
「これ……どうして」
「山の霊水で作ってあるからだ。町の薬局で買える薬じゃ、こうはいかねえ」
だが、傷が塞がったのは皮膚の表面だけだった。肉の奥にはまだ鋭い痛みが芯のように残っており、触れればすぐにでも傷口が裂けそうだった。
「安いのはここまでだ。無理に歩けばまた開く」
兄ちゃんは首から提げていた油紙の札入れから、白く細長い紙を一枚抜き取った。関の売店に束になって並んでいた裾の紙だ。
「それ、お札?」
「ああ。山の不思議な力を一回ぶんだけ紙に写してあるんだ」
兄ちゃんが札の封を切った瞬間、音もなく、湊の足首の関節が内側からカチリと固まった。
痛みは引いていない。ただ、痛む部分がそのまま固定され、皮膚の下へ硬い添え木を直接埋め込まれたように足首が動かなくなった。
「すごいな、これ」
「封を切ったら終わりの使い捨てだ。一番安いのでも三千円はする」
兄ちゃんは湊の脇に手を入れて引き起こした。
「立て。歩けるうちに下りるぞ。その札の効き目は、朝までは保たねえからな」
杉の木立の向こうで、西日が急速に赤みを失いかけていた。
六合目の道標まで下りてきたところで、日が落ちた。
空が暗くなったからではない。山全体の気配と音が、不意に別のものへと切り替わったのが肌で分かった。
風の音が消え、杉のヤニの匂いが息苦しいほど濃くなる。
そして、目の前の道が、登ってきたときと明らかに違っていた。
昼間はこの道標を右に折れて、浅い沢を飛び石で渡ったはずだった。湊はその沢の水で顔を洗ったからよく覚えている。
だがいま、右側には急な杉の斜面が広がるだけで、水の流れる音ひとつ聞こえない。踏み固められた道は不自然に左へ折れ、上に向かって続いていた。
「兄ちゃん……道、こんなだったっけ」
「黙ってろ」
兄ちゃんは道標を睨みつけ、いま下りてきた道を五十メートルほど小走りで戻っていった。すぐに引き返してきたが、その顔からは先ほどまでの余裕が完全に消えていた。
「……後ろも違う。さっきまで歩いてきた道が、どこにもねえ」
「え? どういうことだよ」
「関の親父が言ってただろ。夜の裏高尾は道が変わるって」
兄ちゃんは道標の木肌に手をついた。
「ただの脅し文句だと思ってたんだよ……」
朝に関で聞いたとき、湊は単に夜間通行止めになる程度の話だと思っていた。そうではない。山の中の道筋そのものが、生き物のように勝手に組み替わっているのだ。昼の裏高尾と、夜の裏高尾は、まったく別の山だった。
「じゃあ、どうやって帰ればいいの?」
兄ちゃんは何も答えなかった。それが、湊には一番恐ろしかった。
それから三十分歩き続けても、道はひたすら上へ続いていた。下り道を探しているのに、選べる分岐が登り勾配の先にしか現れない。
足首を固めていた裾の紙の力も、少しずつ弱まり始めていた。一歩踏み出すたびに、関節を支えていた見えない添え木が一本ずつ抜けていくような頼りなさが広がる。
「……湊、少し休むぞ」
兄ちゃんは大きな岩の陰へ湊を座らせると、自分の首から油紙の札入れを外した。中に残っていた最後の一枚の札ごと、湊の首へ掛け直す。
「これ、兄ちゃんの分だろ。持っておきなよ」
「いいから持ってろ」
兄ちゃんは、上へ続く暗い山道を見上げた。
「さっき尾根の開けたところに出たとき、上の方に明かりが見えたんだ。出張所の火袋だ」
「あそこ、人がいるの?」
「詰所の人が夜通し番をしてる。あそこまで行けば、関へ連絡を入れて救助を呼んでもらえる」
兄ちゃんは湊のウィンドブレーカーの襟元をかき合わせ、しっかり閉めてくれた。
「手形も日没までに返す決まりだから、下の関もとっくに俺たちが戻ってないことに気づいてるはずだ。だったら、人のいる場所まで俺が走った方が早い」
「待ってよ。兄ちゃん、一人で行くの?」
「人を呼んですぐ戻ってくる。おまえは、ここから絶対に動くなよ」
兄ちゃんは立ち上がった。登り道へ足を踏み入れる直前、一度だけ振り返って、いつものように笑ってみせた。
「おまえ、昔からじっとしてるのだけは得意だったろ」
暗闇の中へ、足音が遠ざかっていった。
湊は胸元の油紙の札入れを両手で握りしめた。紙の手触りは、自分の体温よりも冷たかった。
木々の切れ間から目を凝らしても、表の町の明かりはどこにも見えない。ここは東京のはずなのに、果てしない山奥に放り出されたようだった。
ずっと遠く、高い場所で、木々が鳴った。
一本の木が揺れた音ではない。尾根の上のほうから順番に、何かが枝を激しく叩きながら下りてくるような重い連続音だった。
兄ちゃんは、戻ってこなかった。
◆
清滝の「みさか屋」の団子は、夕方になると芯から固くなる。
それでも注文するのは、ここが関の門に一番近い茶屋で、戸を開けて座れば店の婆さんが黙って皿を出してくれるからだ。固い団子を奥歯で噛み締めているうちに、今日一日背負子に預けていた肩の強張りが、少しずつほどけていく。
今日の分の荷担ぎは終わった。明日もまた同じように荷を担ぐための体を作るのも仕事のうちで、その大半は茶屋の団子とぬるい番茶でできている。
「あんた、明日の仕事はどこだい」
湯呑みを置きながら、帳場から婆さんが声をかけてきた。
「筑波です。向こうの関に朝七時」
「ずいぶん遠いじゃないか」
「歩荷の日当なんてどこも似たようなもんですからね」
箸で皿の団子をひとつ持ち上げた。
「ここの団子、筑波の関前の茶屋より固いって知ってました?」
「うちのは朝一番が焼きたてなんだよ。文句があるなら朝に来な」
「その焼きたてに、俺は一度もお目にかかったことがないんですよ」
「あんたの働く時間が悪いのさ」
店の奥の土間で、婆さんの孫娘がカタカタと音を立てて急須と湯呑みを片付けていた。名前はまだ知らない。
この店の婆さんが淹れる番茶は渋すぎて舌が痺れるが、あの孫娘が淹れる茶は湯加減がちょうどよくて飲みやすい。それだけ知っていれば、いまのところ客としては十分だった。
表の参道に明かりが灯った。
紅葉の季節に合わせた観光客向けのライトアップで、ガラス戸の向こうがやわらかな橙色に染まる。だが、その光の届かない奥――裏高尾へ続く関の門柱だけが、ぽっかりと黒い影になって沈んでいた。
仕事のたびに見ている境目だが、日が落ちたあとのあの暗がりには、何年経っても自然と目が引き寄せられる。
その黒い口の奥から、鐘の音が響いた。
カン、カンと、短く二度。
少しの間を置いて、また二度。
婆さんの手がぴたりと止まった。俺も箸を皿の縁に戻した。
数え間違いではない。この間隔で鳴らされる鐘の意味は、山にいる者なら誰でも知っている。
手形が戻っていない合図だ。
関の窓口にいた役人が、息を切らして参道の坂を下りてきた。ガラス戸を勢いよく開け、土間にいる俺の姿を認めた瞬間、露骨に安堵の色を浮かべた。
相手にほっとされるのは好きではない。それは決まって、これから厄介な仕事を押しつけられる前触れだからだ。
「沢渡さん。……手形が二枚、戻っていない」
「二枚ですか」
「兄弟だ。十九と十六。先達の同行はなし。兄が途中で合流すると言って無理に通ったらしい」
奥の土間から、婆さんが静かに声を挟んだ。
「……朝の子たちだね。団子を二皿食べて、元気に出ていったよ」
十九と、十六。
五合目の手前、浮いた石を踏んで足をとられていた少年。背中の樽を見上げて「すげえ」と声を漏らした顔。
日が落ちる前に関まで下りろ、と声をかけたのは俺だ。それ以上のことは何も言わずに追い抜いた。
「救助の本隊は呼んだんですか」
「筑波の現場へ応援に出ていて、いま引き返させている。どう急いでも到着まで二時間はかかる」
役人は額の汗を拭い、俺の目を見て声を落とした。
「沢渡さん。救助の嘱託契約、今月も更新してあったよな」
答えるより先に、婆さんが無言で土間の奥へ歩き、戸棚の引き戸を引いた。この店の一角に置かせてもらっている俺の救助用装備の場所は、俺自身よりも婆さんのほうが正確に把握している。
夜の裏高尾は道が変わる。あの弟の足は、昼の時点で三歩に一度石を踏み抜いていた。
日没から、すでに二十分が過ぎている。
「――行きます。昼に二人を見た場所から当たります」
固くなった最後の団子を口の中へ放り込み、茶で一気に流し込んで立ち上がった。
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【この話に出てきた言葉】
・丈
登って、還った高さ。それがそのまま、その人の力の量になる。
記録されるのは、いちばん高く登った一度だけ。同じ高さを何度登っても増えない。
頂を踏む必要はない。還れば、そこまでが録される。
・先達
免許を持った山の案内人。客を連れて裏へ入り、還すのが仕事。
初めて裏へ入る者は、先達がいないと門を通れない。
免許に験は要らない。客を還した記録で取る。
・歩荷
荷を担いで山へ上げる仕事。
裏へ入れるのは関からだけで、大きな車両も外から来るヘリも使えない。
小型の運搬機械が動く低い道でも、道が変わる先や急斜面では人が担ぐ。
日当は、どこまで担いで入れる資格かで決まる。
・手形
関で名前を書いて受け取り、還ったら関へ返す紙。
山の出入口は関ひとつしかないので、いま誰が中にいるかは窓口で分かる。
日が落ちても戻らない手形があれば、窓口が鐘を鳴らす。
ただし、居場所も生死も分からない。分かるのは「まだ山にいる」ことだけ。
・裾の紙
山でしか採れない紙で作る、一枚一回きりの札。
紙が採れた高さまでは、よく効く。それより上へ行くほど、効きが落ちる。
一千メートルに満たない山で採れた紙のものを、こう呼ぶ。いちばん安い。




