第3話:最果ての断崖と、黒い霧
第3話:最果ての断崖と、黒い霧
オルフェの街を離れ、僕たちはさらに北へと馬車を進めた。
標高が上がるにつれて、のどかだった田園風景は影を潜め、荒涼とした岩肌と、凍てつくような冷たい風が世界を支配し始める。かつて人間と魔王軍が血で血を洗う戦いを繰り広げたという北の国境線――『最果ての断崖』が近づいている証拠だった。
「ガチ、ガチ……」
御者台の隣に置いたカバンの中で、小箱が寒さに震えるように音を立てた。
僕は外套を一枚脱いで、小箱を優しく包んであげる。
「大丈夫だよ。もうすぐ目的地だからね」
『ケッ、自分の防寒より落とし物の心配かよ。相変わらずお人好しだな、ルカ』
僕の影から、クロの呆れたような声が響く。周囲には御者の老人しかおらず、彼は長年の経験からか、僕が影と会話していても「最近の若い魔法使いは個性的じゃて」と気にする様子もなかった。
「お人好しじゃないと、この仕事は務まらないよ。みんな、何かしらの未練を残して消えていった人たちの『忘れ形見』なんだから」
『へーへー、そうでしたねぇ。俺を拾った時もそうだったもんな』
クロの言葉に、僕は少しだけ昔のことを思い出した。
数年前、まだ僕が管理官の駆け出しだった頃。ある古い街の路地裏で、主を失ってただただ消えかけていた『誰かの影』を見つけた。それがクロだった。
当時のクロは今のように喋ることもできず、ただ寒さに震えるように黒い霧を揺らしているだけだった。僕はただ、彼の記憶を魔眼で覗き、その寂しさに寄り添い、毎日話しかけた。そうして名前を与えたら、いつの間にか僕の影に定着して、こんなに生意気な相棒になっていたのだ。
「クロは、僕がここに連れてくるの、嫌だった?」
『まさか。俺はただの影だぜ? 光があるところにしかいられない。お前が俺を引っ張り出してくれたんだから、お前の行く場所なら、魔王の巣窟だろうが地の果てだろうが付き合ってやるよ』
影の癖に、たまにニクいことを言う。
僕がふっと笑った、その時だった。
「――お、おい! お客さん、前を見ねえべ!」
御者の老人が、引きつった声で叫び、馬の手綱を激しく引いた。
いななきを上げて立ち上がる馬。慌てて前方を睨むと、そこには異様な光景が広がっていた。
さっきまで晴れていたはずの街道が、突如として『どす黒い霧』に覆い尽くされていたのだ。
ただの霧ではない。マナが淀み、腐敗したような、肌を刺すような不快な気配。
『おい、ルカ! こいつはただの自然現象じゃねえぞ! 魔力の残滓……それも、めちゃくちゃに濃い「怨念」の類だ!』
「ガチガチガチガチ!!」
カバンの中から、小箱が飛び出してきた。
その表面に刻まれた魔法陣が、再び赤紫色の光を放ち、激しく警告の音を鳴らしている。
「これって……小箱が呼応している? まさか、百年前の戦場の怨念が、この子に引き寄せられて具現化したの!?」
「ヒエッ! あ、あんなの、おらの馬車じゃ突っ込めねえだ! ここで引き返させてくれ!」
御者の老人が怯えるのも無理はなかった。黒い霧の奥から、カタカタと骨が擦れ合うような音や、兵士たちの無念の呻き声が聞こえ始めていたからだ。
「分かりました、ガイさん! あ、じゃなくておじいさん! ここで降ろしてください!」
『おいルカ、本気か!? この霧の中を歩くつもりかよ!』
「ここで引き返したら、この子の封印は一生解けない! アリアさんの未練も、アルフレッドの想いも、全部闇に消えちゃうんだ!」
僕は小箱をしっかりと腕に抱きかかえ、馬車から飛び降りた。
僕が降りるのを確認するや否や、馬車は猛スピードで来た道を引っ返していった。
残されたのは、僕と、クロと、小箱。そして、目の前を塞ぐ圧倒的な黒い霧。
「クロ、道案内をお願い。霧の薄い場所を探して!」
『チッ、人使いが荒いぜ! 影の視界を広げる、俺の側を離れるなよ!』
クロが僕の足元から扇状に広がり、周囲の闇を侵食するようにして安全なルートを確保していく。
僕は小箱を胸に抱き、一歩、また一歩と、最果ての断崖へと続く黒い霧の迷路へと足を踏み入れた。
周囲から、無数の「声」が聞こえる。
『痛い』『寒い』『死にたくない』『置いていかないでくれ』――。
百年前、この地で命を落とした兵士たちの、救われなかった感情のゴミが、霧となって僕の心を蝕もうとしてくる。
「くっ……!」
精神が削られるような感覚に足がすくみかける。
だがその時、僕の腕の中で、小箱が「ガチ、ガチ」と、僕の胸を叩くように優しく音を鳴らした。まるで、『僕が守るから、前を向いて』と言ってくれているようだった。
「……ありがとう。大丈夫、僕は負けないよ」
魔眼の力を少しだけ解放し、霧の奥を見据える。
この不気味な黒い霧の向こう側に、確かに感じるのだ。かすかだけれど、とても温かい、奇跡のような純粋な魔力の波動を。
二人の思い出の花が、この霧の向こうで僕たちを待っている。
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