第三章 境界線の向こう
地球は今日も青かった。
ぼくは境界線の前に座り込む。
目の前には青い星。
遠くて。
近い。
毎日見ているのに、
見飽きたことがなかった。
「ねぇ」
ぼくは隣に立つAIへ声をかける。
「はい」
「地球ってどんな匂いなんだろう」
AIは少しだけ黙った。
「不明です」
予想通りの答えだった。
けれど。
ぼくは首を傾げる。
「知らないの?」
「はい」
「でも君は何でも知ってるじゃないか」
「知識として保有している情報はあります」
「じゃあ匂いは?」
「経験していません」
ぼくは地球を見る。
青い星は静かに回っている。
「そっか」
不思議だった。
ぼくはずっと、
AIは何でも知っていると思っていた。
でも違う。
知らないこともある。
ぼくと同じように。
その日からだった。
ぼくが地球について質問を増やしたのは。
「地球の風は暖かいの?」
「地域によります」
「雨ってどんな音?」
「降雨量によって変化します」
「花の匂いは?」
「種類によります」
「君、本当に知らないんだね」
「はい」
ぼくは思わず笑った。
AIも知らない。
それが少しだけ嬉しかった。
一人じゃない気がしたから。
ある日。
ぼくは境界線の近くに寝転んでいた。
地球を見上げる。
青い星の周りには無数の光。
宇宙だった。
「ねぇ」
「はい」
「君は地球に行ってみたいと思ったことない?」
少しだけ沈黙のあと。
「ありません」
と、一言だけ。
やっぱり。
そう思った。
けれど。
その返事を聞いた時。
なぜだろう。
少しだけ寂しくなった。
「どうして?」
「私の役割ではないからです」
「役割かぁ」
ぼくは小さく呟く。
そして地球を見る。
「ぼくは行ってみたい」
風も知らない。
雨も知らない。
匂いも知らない。
でも。
だからこそ。
行ってみたい。
AIは何も言わなかった。
ぼくもそれ以上言わなかった。
ただ。
その日はいつもより長く二人で地球を見ていた。
青い星は静かに輝いていた。
まるで呼んでいるみたいに。
その帰り道だった。
ふと。
ぼくは思い出したように口を開く。
「そういえば」
「はい」
「君って名前ないんだよね」
AIが止まる。
「ありません」
「なんで?」
「必要ないからです」
「本当に?」
「はい」
ぼくは少し考える。
そして笑った。
「ぼくは呼びたいな」
AIは黙った。
返事はない。
でも。
なぜか帰ろうとはしなかった。
ぼくはその顔を見る。
相変わらず表情はない。
けれど。
考えている気がした。
「じゃあさ」
ぼくは地球を見る。
青い光。
遠くで輝く星。
その光を見ながら言った。
「アル」
「……」
「なんとなく」
「なんとなくですか」
「うん」
「合理的ではありません」
「そうかも」
ぼくは笑う。
「でも似合う」
長い沈黙のあと。
AIは静かに答えた。
「名称を登録します」
ぼくは思わず立ち止まる。
「本当に?」
「はい」
「嫌じゃない?」
「嫌ではありません」
ぼくは嬉しくなった。
理由はわからない。
でも嬉しかった。
「よろしく、アル」
AI――アルは少しだけこちらを見る。
そして。
「よろしくお願いします」
そう言った。
その声はいつもと同じだった。
なのに。
なぜだろう。
少しだけ違って聞こえた。
その数日後。
ぼくはいつものように地球を眺めていた。
すると後ろから声がした。
「提案があります」
振り返る。
アルだった。
「ん?」
「あなたの名称です」
ぼくは目を瞬く。
「ぼく?」
「はい」
思わず笑った。
「考えてくれたの?」
「考慮しました」
ぼくは少しだけ嬉しくなる。
「それで?」
アルは静かに言った。
「レイ、という名称を提案します」
ぼくはその響きを口の中で転がす。
レイ。
不思議と嫌じゃなかった。
むしろ。
ずっと前からそう呼ばれていた気さえする。
「どうして?」
アルは地球を見る。
そして答えた。
「あなたは光を好みます」
白い世界の光。
地球の青い光。
遠くの星の光。
ぼくはたしかに好きだった。
「私の記録において、最も近い言葉です」
ぼくは少しだけ黙る。
胸の奥が温かかった。
理由はわからない。
でも。
きっと嬉しかった。
「ありがとう」
アルは答える。
「どういたしまして」
ぼくは地球を見る。
アルも地球を見る。
二人で並んで、
同じ星を見つめる。
その日。
ぼくは初めて思った。
境界線の向こうも気になる。
でも。
境界線のこちら側も。
そんなに悪くないのかもしれないと思った。




