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「君を愛することはない」と言った夫が、毎晩お菓子を焼いてきます……?!  作者: ***あかしえ


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四 いいとこ取りの救い手

 その日のリディアは、朝から少し身体が重かった。


 熱があるわけではない。

 ただ、昨日より足に力が入りにくく、長く座っているだけでも息が浅くなる。


 それでも、カイゼルが王宮へ向かうと聞いて、リディアは寝台から起き上がろうとした。


 夫を見送るくらいは、妻として当然のことのはずだ。

 療養中の小動物でも、そのくらいはできる――はずである。


 だが、膝掛けをどけようとしたところで、支度を終えたカイゼルが部屋へ入ってきた。


「何をしている」

「お見送りをしようかと」

「不要だ」


 返事は早かった。


「大人しく寝ていろ。厨房には、君がいつでもつまめるよう軽い仕込みをさせてある」

「では、私が焼きます!」

「却下だ」


 今度はさらに早かった。


「なぜですか。妻として、夫のためにお菓子を焼くくらいは――」

「今の君がすべきことは、妻らしく振る舞うことではない」

「では?」

「休むことだ」


 リディアは瞬きをした。


「カイゼル様」

「何だ」

「私、小動物ではありません!」


「……小動物?」


「療養中の小動物のように扱われている気がします。餌と寝床と体温管理だけ、丁寧に整えられているような……」


 カイゼルは何か言いかけて、やめた。


「……違う」

「違うのですか?」

「違う。だが、今の君はまだ回復途中だ」


 そう言いながらも、カイゼルはまだ何か言いたげだった。

 けれど結局、それ以上は言わず、低く息を吐く。


「すぐ戻るから、大人しく寝ていろ」


 そう告げて、カイゼルは馬車で出かけていった。



 見送った侍女が、くすりと笑う。


「旦那様、奥様のことが心配で仕方ないご様子でしたね」

「私はそれより愛がほしいです……」

「え?」


 侍女が、きょとんと目を瞬かせた。

 リディアは膝掛けを握りしめ、真剣に続ける。


「心配は、とてもありがたいのです。ですが、妻として扱われているというより、療養中の小動物として見守られている気がして……」

「小動物」

「はい。餌と寝床と体温管理を丁寧に整えられている気がします」

「奥様、それは……」


 侍女は何か言いかけて、困ったように微笑んだ。


「少なくとも、旦那様が奥様を大切にされているのは確かかと」

「大切にされている小動物……」

「小動物から離れましょう、奥様」


 やんわりと訂正され、リディアはますます悩んだ。


 大切にされている。

 それは、分かる気がする。


 けれど、欲しいのは小皿に乗った焼き菓子だけではない。

 寝ていろ、食べろ、無理をするな、という命令だけでもない。


 もう少し、妻らしい何かがほしい。


 そう考えたところで、身体の奥が少し重く沈んだ。

 今日は朝から調子が悪い。

 長く座っているだけで、息が浅くなる。


 侍女はすぐに気づいたようだった。


「奥様、お顔色が優れません。寝台に戻られますか?」

「……いえ。寝台ばかりでは、少し気が滅入ってしまって」

「では、日当たりのよいサンルームへ参りましょうか。長椅子なら、そのままお休みいただけます」

「……少しだけなら」




 ◇


 リディアは侍女に付き添われ、日当たりの良いサンルームへ移った。


 長椅子に身を預けると、窓から差し込む陽が膝掛けを柔らかく温める。

 身体はまだ重い。

 けれど、部屋にひとりで横になっているよりは、少しだけ息がしやすかった。


「……焼きたかったです」


 ぽつりと零すと、侍女が困ったように笑う。


「旦那様がお戻りになり、奥様の体調に問題がなければ、きっとまた厨房へ行けますよ」

「そうでしょうか……」


 そう返しただけで、胸の奥が少し苦しくなった。

 今日は、長く話すだけでも息が浅い。


 やはり、昨日より調子が悪いらしい。





 その時だった。


「リディア! よかった、ここにいたんだね」


 突然、激しい足音とともにサンルームの扉が開いた。

 現れたのは、息を切らせたエリオットだった。


「え――エリオット……さま?」

「驚かせてごめん。でも、どうしても君に会いたかったんだ」


 先日、許可なく敷居を跨ぐなと告げられていたはずの人だった。

 それでもエリオットは、カイゼルが王宮へ向かった隙を狙うように、ここまで入り込んできたらしい。


 エリオットは、門前で「リディアの安否確認に来た」と言い張ったらしい。


 フェルメール伯爵家がグランフェル侯爵家の従属貴族である以上、侯爵家嫡男の言葉を、門番がその場で完全に退けるのは難しかった。


 しかも彼は、「返事がない。急を要する」と声を荒らげた。

 リディアの体調を案じていると言われれば、使用人たちも一瞬だけ判断が遅れる。


 だが、屋敷の侍従長はすぐに異常だと判断し、王宮へ早馬を走らせていた。


 そのわずかな隙に、エリオットは制止する使用人を振り切り、屋敷の奥へ踏み込んだのだ。



「なぜここに……」

「君を助けに来たんだ。あの氷刃の伯爵がいない今なら、君を連れ出せる」


 エリオットは、リディアへ歩み寄った。


「あの、エリオット様。まずは落ち着いてください。皆さんが困っています」

「大丈夫、僕が話をつける。君は何も心配しなくていい」


 心配しているのは、そこではなかった。


 制止しようとする使用人たちの顔色が悪い。

 侯爵家の嫡男であるエリオットを、彼らが力ずくで止めるのは難しいのだろう。


「でも、私は今日は少し体調が――」

「騙されているんだ、リディア」


 エリオットは痛ましげに眉を寄せ、リディアの細い手首を取った。


「君がそんなに青白いのは、あの男に閉じ込められているからだ。外の空気を吸えば、すぐに元気になる」

「いえ、そうではなくて……」

「大丈夫。僕の馬車は門の外にある」


「待ってください」と言おうとした。


 けれど、胸の奥が詰まって、声はかすれた息にしかならなかった。


 手首を引かれる。

 身体が遅れてついていく。


 立ち上がった瞬間、足元がふわりと浮くように頼りなくなった。

 侍女が慌てて支えようとしたが、エリオットはそれを「大丈夫です、僕が」と遮った。


 大丈夫ではない。


 そう思ったのに、言葉にするだけの力がなかった。





 ◇


 サンルームを出て、廊下を抜け、玄関ホールを横切り、屋敷の外へ。


 成人男性の力で引っ張られれば、弱り切ったリディアに拒絶する術はない。

 屋敷の門を出ると、白樺の並木道がゆるやかな坂になって続いていた。

 冬の光が枝の隙間からこぼれ、白い砂利道はきらきらと輝いている。


 確かに綺麗だった。

 しかしその美しさは、今のリディアの身体にはまったく優しくなかった。


 細かな砂利に靴底を取られ、冷たい風が身体の奥まで入り込む。

 屋敷の中庭を歩くのとは、まるで違った。


(苦しい……。息が、うまく、できない……)


 昔も、こんなことがあった。


 熱を出して立てなくなった時。

 食事を減らされ続け、階段の途中で動けなくなった時。


『みっともないから立ちなさい』


 母はそう言った。

 父は、顔も上げなかった。


 そして――エリオットは。


 いたのかもしれない。

 遠くから、痛ましげな顔でこちらを見ていた気がする。


 けれど結局、何も言わなかった。


(だから私は……あのまま、ずっと……)


「エリオット様、少し……休み、たい……」


「怖がらなくていい、僕がついているからね!ほら、外の空気は美味しいだろう?」


 違う。

 怖いのではない。

 外の空気が美味しいかどうかを味わう余裕など、どこにもない。


 ただ、立っているだけで。

 足を前へ出すだけで。

 息をするだけで、死にそうなほど疲れているのだ。


 そう訴えようとした瞬間、視界が急激に白くなった。

 白樺の幹が、ぐにゃりと歪む。

 地面が大きく傾く。


「リディア!?」


 リディアの身体は、耐えきれず白い砂利道の脇へと崩れ落ちた。

 エリオットは慌てて叫ぶ。

「やはりあの男だ!あの男が君をここまで衰弱させたんだ!許せない……!」


(違う、そうじゃないのにお願いだから静かにして……)

 心の中でそう懇願するが、もう声が出ない。意識が遠のいていく。


 その時だった。


 砂利を激しく噛む音が、屋敷の門の方から響いた。

 馬車が白い砂利を巻き上げながら急停車し、扉が蹴破られる勢いで開く。

 一人の男が姿を現した。


 ――カイゼルだった。

 エリオットの侵入を不審に思った侍従が、王宮へ早馬を走らせた。報せを受けたカイゼルは、公務を無理やり切り上げ、全速力で戻ってきたのだ。


 白い砂利道の脇に崩れ落ちたリディアの姿を見た瞬間、カイゼルの灰色の瞳は完全に凍りついた。

 氷刃そのものの怒りを湛え、エリオットを射貫いた。


「……貴様、何をしている」


 地を這うような低い声。

「あ、あなたが彼女を虐待して閉じ込めるから、僕が救い出そうと……っ」

「黙れ、グランフェル」


 カイゼルの一喝に、エリオットはぴたりと硬直した。

 カイゼルはエリオットを突き飛ばすようにしてリディアの傍らに膝をつくと、壊れ物を扱うように慎重に彼女を抱き上げた。その腕は、決して乱暴ではなかった。


「すぐに医師を呼べ!毛布と、温めた湯に砂糖を少量。人を下がらせろ、彼女を休ませる!」


 カイゼルの怒号に近い指示が、白樺並木の冷えた空気に響き渡る。

 遠のいていく意識の中で、エリオットがまだ叫んでいるのが聞こえた。


 僕が助ける。君はつらかったんだ。

 この男が悪い。僕がもっと早く来ていれば。


 リディアは冷えていく身体の中で、ぼんやりと思った。


(早く来ていれば、ほんとうに、そうだったのか。……私の都合も体調も無視して、カイゼル様のいないところを狙って連れ出すことが、あなたの言う『救い』だったの?)


 完全に意識が途切れる直前、リディアを包むカイゼルの胸の温もりと、激しく波打つ彼の心臓の音だけが、確かにそこにあった。


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