五 私が食べると決めたもの
目を覚ますと、リディアは寝台にいた。
部屋は暖かい。
枕元には水差しと、砂糖を少量入れた温かい湯。
小皿には、ひと口大の焼き菓子が一つ置かれている。
椅子に座っていたカイゼルが、リディアの目覚めに気づいた。
「起きたか」
「……倒れましたか」
「ああ」
「ご迷惑を――」
「迷惑ではない。……だが」
カイゼルはそこで一度言葉を切り、灰色の瞳に苦い光を浮かべた。
「あの男は、私が私欲で君を監禁し、虐待して衰弱させたと言っていた。……君も、私に同じことをされていると思っていたのか?」
「えっ?!滅相もありません!」
リディアは寝台の上で慌てて首を振った。毎晩、夜中にコンパスで測ったような完璧な焼き菓子を焼いて食べさせてくれる監禁犯がどこにいるというのか。
「ただ、エリオット様が『部屋に閉じ込められているから病気なんだ、外の空気を吸えばすぐに元気になる』と仰って、そのまま強引に手を引かれて……。お断りする体力が、なくて……」
「そうか」
カイゼルはかすかに息を吐き、自嘲気味に視線を落とした。
「君を苦しめるつもりはなかった。だが、あの男に『監禁だ』と付け入る隙を与えたのは、私だ」
「カイゼル様が、ですか?」
リディアが首をかしげると、カイゼルは苦々しげに視線を逸らした。
「……俺の判断ミスだ」
苦い声だった。
「君は、まず生きるために休むべき状態だった。だから私は、食事と睡眠を優先した。外に出すべきではないと判断した」
そこで、カイゼルは悔しげに拳を握る。
「だが、それを君に説明しなかった。結果として、あの男に“閉じ込められている”と思わせる隙を与えた」
「カイゼル様、私はそんな風には……」
カイゼルは、薄く自嘲した。
「いや、私の配慮が足りなかった。君が私を『何を考えているか分からない恐ろしい男』だと思い込んでいれば、助けを求めてもおかしくない」
「ですが、安心いたしました」
「何がだ」
「完全に嫌われているわけではないようなので」
カイゼルの眉がわずかに動いた。
リディアはシーツの端をそっと握る。
「好きになっていただける余地は、まだあるのですよね?」
「……?」
「『愛することはない』と仰ったので」
リディアは困ったように笑った。
「ああ、私は駄目だったのだなと」
「…………」
部屋が静まり返った。
カイゼルは、信じられないものを見るようにリディアを見ている。
「……待て」
「はい?」
「君は、何を誤解している」
「誤解……?」
「俺は、君を拒絶したつもりはない」
低い声だった。
今までより、その声には焦りが滲んでいた。
「あの時の君は、まともに立つことすらできなかった」
「……」
「そんな状態で、夫婦としての役目を求める気はない、と言っただけだ」
リディアは瞬きをした。
「では……」
「安心して休めと言いたかった」
カイゼルは苦々しげに目を伏せる。
「……言い方を間違えたが」
リディアの胸の奥で、張り詰めていたものがふわりとほどけた。
拒絶されたわけでは、なかった。
呆れられたわけでも。
見限られたわけでもない。
この人はただ――致命的に、言葉が足りなかったのだ。
愛する。
婚礼の夜に。
寝室で。
夫婦の間で行われる、あの、非常に気まずく、できれば深く考えずに通り過ぎたい一連の行為を。
カイゼルは、愛することと捉えていたのだ。
夫婦の義務ではなく。
欲望を満たすでもなく。
妻の役目でもなく。
愛する。
その瞬間、リディアの頭の中に春が来た。
(うわあ……)
花が咲いた。
蝶が舞った。
小鳥が歌った。
麗らかな木漏れ日の中で、白い鹿まで跳ねた。
愛する。
氷刃の伯爵様は、あれを、愛する、と呼ぶ人らしい。
リディアは両手をそっと頬に当てた。
「……まあ」
「何を考えている」
「いえ。カイゼル様は、とても情緒のある方なのだなと」
「違う」
カイゼルは即座に否定した。
ただ、その声にはわずかに、いつもの鋭さが足りなかった。
「そういう意味で言ったのではない」
「そういう意味とは」
「……」
気まずそうに視線を逸らすカイゼルを、リディアはにこにこと見つめた。
氷刃の伯爵様が答えない。
これはつまり、否定しきれないということではないのか。
「カイゼル様」
「何だ」
「私は今、元気になりました」
「なぜだ」
「愛は身体によいのかもしれません」
カイゼルは片手で目元を覆った。
「……忘れろ」
「難しいです」
リディアの脳内では、まだ花が咲き乱れていた。
カイゼルは、ひどく居心地悪そうに咳払いをひとつした。
「……とにかく。目が覚めたのなら、口に入れるものを――」
「それがいいです」
カイゼルは、うなずいた。
それ以上は何も言わず、枕元の小皿をリディアの方へ押しやる。
リディアは迷ってから、そのひと口大の焼き菓子を手に取った。
ほろ、と崩れる。
甘さは控えめで、舌の上にバターの香りが静かに広がった。
「……おいしい」
思わずこぼれた声に、カイゼルの眉がわずかに動く。
「そうか」
それだけ言って、彼はふっと視線を逸らした。
リディアはもう一口、ゆっくりと口に入れる。
食べるたびに、身体の奥にあった冷たさがゆっくりほどけていく気がした。
こんなふうに、自分が食べると決めたものを、誰にも責められずに口にできる。
それだけのことが、こんなにも不思議で、こんなにも甘い。
その時、扉の外が騒がしくなった。
別室で待機させられていたエリオットが、使用人に押し留められたまま、声を張り上げていた。
「リディア!目が覚めたんだね」
「エリオット様?」
「やはりここにいてはいけない。僕と行こう。君を自由にする」
「……」
「僕はずっと、君を助けたかったんだ。君が頑張っていたことは、僕がいちばんよく分かっている」
「君は自由になれば元気になる。僕の隣で笑えば、きっと全部忘れられる」
リディアは、目を伏せた。
昔なら、その言葉にすがったかもしれない。
頑張っていたと認めてくれる人がいるだけで、救われると思ったかもしれない。
今は、枕元に温かい湯がある。
小皿に、自分が食べると決められる菓子がある。
そして、黙って待つ人がいる。
リディアは顔を上げた。
「エリオット様」
「何だい、リディア」
「私を弱っていると思っていたのなら、なぜ休ませてはくださらなかったのですか」
エリオットの声が止まった。
「それは……君を、あの家から連れ出したかったからだ」
「でも私、まだ無理ができる状態ではありませんでした」
リディアは目を伏せた。
「どうにか食べられるようになって、歩けるようにもなっていました」
毛布の端を、そっと指で握る。
「でも、まだ急に外へ出たり、長く動いたりできるほどではなくて……」
エリオットは言いかけて、言葉を失った。
リディアは迷うように視線を揺らし、それからそっと息をつく。
「だから、あの時は……」
胸の内を確かめるように、ゆっくりと言葉を落とす。
「助け出されるより、もうしばらく休ませていただきたかったのだと思います」
部屋が、しんと静まり返った。
リディアは静かに、明確な意志を宿した声で続けた。
「私が倒れていた時には、あなたはいませんでした」
「リディア……」
「私が食べられなかった時にも、あなたはいませんでした」
エリオットがすがるように声を漏らす。
「僕は、ずっと心配して――」
それを、リディアは冷ややかな視線だけで遮った。
「私はあの家で、『飢えることこそが美徳』だと教えられてきました」
「え……?」
「お腹が空くのは、自分が浅ましいから。我慢できない自分が悪いのだと、ずっと信じ込まされていたのです」
淡々と語られる異常な日常。
エリオットが息を呑むのも構わず、リディアは言葉を重ねる。
「……でも、カイゼル様が変えてくださいました。毎晩、夜中に不器用な言い訳をしながらお菓子を焼いて、私に『食べろ』と差し出してくださった。だから、ようやく目が覚めたのです」
リディアは、エリオットを真っ直ぐに見据えた。
「私はただ、酷い目に遭っていただけなのだと」
その瞳には、かつて実家で従順に耐えていた『都合のいいお姫様』の面影など、どこにもない。
「あなたは、ただの幼馴染ではありませんでした。フェルメール伯爵家は、グランフェル侯爵家の従属貴族です。あなたは私の家が異常だと知っていて、なおかつ、口を出せるお立場にいたはずでした」
「それは……っ! 君の家の内情に深く踏み込むのは、手続きや周囲の目が……!」
「そうしてあなたが周囲の目を気にしている間に、カイゼル様は私をこの屋敷へ引き取り、休ませて、食べられるものを探してくださいました」
リディアの声はどこまでも冷静で、だからこそエリオットの胸に鋭く突き刺さる。
「そうして、私がようやくかすかに笑えるようになった頃に――」
突きつけられた残酷な現実。
そこから逃れるように、エリオットは突然、熱を帯びた声で叫んだ。
「今だから言える、聞いてくれリディア! 僕は君を愛しているんだ!」
「……」
「侯爵家の嫡男としての立場も、周囲の反対もすべて捨てる! 今度こそ君を僕の妻として迎えたい! 君をあの地獄から救い出し、僕の隣で幸せにすると誓う!」
それは、あまりにも遅すぎた。
そして、どこまでも自分勝手な愛の告白。
リディアは感情の消えた瞳で、静かに告げた。
「あなたは、恋だけしに来たのですね」
エリオットの顔が、一瞬で真っ赤に染まった。
図星を突かれた恥辱と焦燥で、声を荒らげる。
「違う! 僕は君を愛して――」
「私は、あなたの『都合のいいお姫様』になるつもりはありません」
エリオットは、今度こそ完全に言葉を失った。
それでも彼は、確かめるように扉口から室内を見回した。
そして、枕元の小皿に目を留める。
「……まだ、こんなものを食べさせているのか」
苦しげに眉を寄せる。
「無理をさせられているんだね、リディア」
その瞬間だった。
リディアの手が動いた。
自分でも驚くほど早く、小皿を引き寄せる。
焼き菓子を守るように、そっと両手で覆った。
「……リディア?」
エリオットの声が揺れる。
リディア自身も、自分の行動に戸惑っていた。
けれど。
取られたくない、と思った。
これは、“無理やり食べさせられたもの”ではない。
食べられなかった私のために、
何度も作り直してくれたもの。
そして、私が食べると決めたものだ。
「それは、私が望んだ……“愛”です」
エリオットが凍りつく。
リディアは彼を見た。
「誰もくれなかった」
「リディア……」
「私のためだけに用意された……“愛”なんです」
その言葉に、エリオットは何も返せなかった。
カイゼルが静かに立ち上がる。
「帰れ、グランフェル」
「伯爵ごときが、僕に」
「今の彼女に必要なのは休息だ。あなたの“物語”ではない」
エリオットは唇を噛んだ。
それ以上は何も言えず、使用人たちに連れられて廊下の向こうへ下がっていった。
扉の外の騒ぎが遠ざかる。
リディアは小皿の菓子を見下ろした。
「カイゼル様」
「何だ」
「おかわりが欲しいです」
「分かった」
「“あーん”で食べさせてください」
「……は?」
「私、カイゼル様ほど我慢強くないんです。今すぐ、愛されてる“自覚”がほしいです」
「…………善処する」
「絶対ですよ❤️」




