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「君を愛することはない」と言った夫が、毎晩お菓子を焼いてきます……?!  作者: ***あかしえ


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3/5

三 氷刃の伯爵様の不審な菓子活動

 




 深夜の屋敷は、しんと静まり返っていた。


 リディアは寝室を抜け出し、薄いショールを羽織って廊下を歩く。

 足元は、もうふらつかない。


(……あら? ずいぶんと楽だわ……?)


 ついこの間までは、数歩歩くだけで目が回り、壁を伝うのがやっとだった。

 今は、毎日届けられる温かいスープと焼き菓子が、リディアの身体に確かな()を蓄えていた。


(どこからか、いい匂いがする……。絶対に、この先に誰かいるわ!)


 リディアは期待に胸を膨らませ、甘い香りの源流――厨房の扉をそっと開ける。


 そこにいたのは、意外すぎる人物だった。


「…………えっ?」


 カイゼルだ。

 あの『氷刃の伯爵』様が、そこにいた。


 黒い上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖をまくりあげた姿。無表情のまま、真剣な眼差しで生地を伸ばし、迷いのない手つきで型を抜いている。


(……ええっ!?氷刃の伯爵様が、深夜にクッキーを焼いてる……!?)


 氷刃とは。

 伯爵とは。

 あまりの衝撃に、リディアの思考は銀河の彼方まで吹き飛んでしまった。


「カイゼル様……?」


 思わず声が漏れる。

 カイゼルは一切動揺を見せず、粉のついた手を淡々と動かしながら告げた。


「な、何をなさって――」

「…………兵糧の用意だ」

「えっ?!」


(嘘だわ! 絶対に嘘よ?!)


 リディアの表情を見て、カイゼルは小さくため息をつき、渋々口を開いた。


「……君が小鳥の餌のような食事しかしないからだ」

「えっ?ですから、お菓子を?」

「……………………兵糧だ」


 カイゼルはあくまで無表情に、()()と言い張る。


「はじめは重湯がよいかとも思ったが、消化器に問題はないようだからな。ならば、少量で熱量を摂れるものの方がいい」


 彼が何を指しているのか、察したリディアの頬が赤く染まる。


()()だわ! 絶対に()()だわ!!)


 初夜で盛大に腹を鳴らしてしまった記憶が蘇り、リディアはいずこかへ隠れたくなった。


 けれど、そこでリディアは気づいてしまった。


 作業台の上に並んでいる焼き菓子は、どれも小さく、薄く、食べやすそうな形をしていた。

 しかも、端はきれいに丸められ、焼き色も揃っている。

 中には、花を模したものまであった。


「……カイゼル様」

「何だ」

「その兵糧、とても可愛らしい形をしています」

「携帯性を考慮しただけだ」

「こちらは花の形に見えます」

「……士気を維持するためだ」

「こちらは?」

「……」

「ハート型ですか?」

「違う」


 即答だった。


 だが、カイゼルの手元には、どう見てもハート型に抜かれた生地がある。


「違うのですか?」

「……偶然だ」

「偶然、ハート型に抜いたのですか?」

「兵糧にも、食べる者の精神状態を安定させる工夫は必要だ」

「つまり、可愛く作ろうとなさったのですね」

「違う」


 氷刃の伯爵様が、目に見えて動揺し始めた。

 無表情ではある。

 しかし、言葉が増えるほど、ボロが出る。


「カイゼル様、お耳が赤いです」

「……気のせいだ。厨房の熱気のせいだ」

「この部屋、結構ひんやりしてますけれど」

「………………いいから食え。兵糧だと言っただろう」


「……おいしいです」

「そうか」


 リディアが呟くと、厨房の隅から「でしょう!」と賑やかな声が響いた。

 振り返れば、料理人や侍女たちが、作業台の陰で誇らしげに胸を張っている。


「旦那様、実は昨日からずっと配合を悩んでおられたんですよ」

「コラ、余計なことを言うな」


 カイゼルが苦々しく顔を背けると、使用人たちは顔を見合わせて笑った。

 実家では、空腹を訴えれば打たれ、厨房を覗くことさえ許されなかった。

 ここは、バターの香りと笑い声が溶け合う、魔法のような場所だ。


「次はこれ、私が混ぜてもよろしいですか?」


 リディアが期待に目を輝かせると、料理人が快く木べらを差し出した。


「ええ、もちろんですとも、奥様!」

「……おい、病み上がりが無理をするな」


 口では冷たく言いながらも、カイゼルはリディアが粉をこぼさないよう、さりげなくボウルを支えた。

 その不器用な指先が、リディアには何よりも温かく感じられる。


(ああ、私、今……あの中にいるわ)


 かつて遠くから眺めていた、幸せな焼き菓子の匂い。

 自分を()()ではなく、一人の人間として笑いかけてくれる人々。

 その中心に自分がいることが夢のようで、胸がきゅっと熱くなる。


「カイゼル様、私もお菓子を作りたいです!」

「却下だ。……まずは食って寝ろ」

「あ、また()()って言いましたね。()拒絶として()()()()に残します」

「……なんだそれは」


 呆れ顔のカイゼルと、それを見てどっと沸く厨房。

 リディアは、指先についた甘い粉を、宝物のように見つめた。


「……体調がよい昼間にしろ」

「……はい!」


 監視という名の、世界でいちばん温かな厨房通いが、今、ここから始まった。






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