三 氷刃の伯爵様の不審な菓子活動
深夜の屋敷は、しんと静まり返っていた。
リディアは寝室を抜け出し、薄いショールを羽織って廊下を歩く。
足元は、もうふらつかない。
(……あら? ずいぶんと楽だわ……?)
ついこの間までは、数歩歩くだけで目が回り、壁を伝うのがやっとだった。
今は、毎日届けられる温かいスープと焼き菓子が、リディアの身体に確かな力を蓄えていた。
(どこからか、いい匂いがする……。絶対に、この先に誰かいるわ!)
リディアは期待に胸を膨らませ、甘い香りの源流――厨房の扉をそっと開ける。
そこにいたのは、意外すぎる人物だった。
「…………えっ?」
カイゼルだ。
あの『氷刃の伯爵』様が、そこにいた。
黒い上着を脱ぎ捨て、白いシャツの袖をまくりあげた姿。無表情のまま、真剣な眼差しで生地を伸ばし、迷いのない手つきで型を抜いている。
(……ええっ!?氷刃の伯爵様が、深夜にクッキーを焼いてる……!?)
氷刃とは。
伯爵とは。
あまりの衝撃に、リディアの思考は銀河の彼方まで吹き飛んでしまった。
「カイゼル様……?」
思わず声が漏れる。
カイゼルは一切動揺を見せず、粉のついた手を淡々と動かしながら告げた。
「な、何をなさって――」
「…………兵糧の用意だ」
「えっ?!」
(嘘だわ! 絶対に嘘よ?!)
リディアの表情を見て、カイゼルは小さくため息をつき、渋々口を開いた。
「……君が小鳥の餌のような食事しかしないからだ」
「えっ?ですから、お菓子を?」
「……………………兵糧だ」
カイゼルはあくまで無表情に、兵糧と言い張る。
「はじめは重湯がよいかとも思ったが、消化器に問題はないようだからな。ならば、少量で熱量を摂れるものの方がいい」
彼が何を指しているのか、察したリディアの頬が赤く染まる。
(アレだわ! 絶対にアレだわ!!)
初夜で盛大に腹を鳴らしてしまった記憶が蘇り、リディアはいずこかへ隠れたくなった。
けれど、そこでリディアは気づいてしまった。
作業台の上に並んでいる焼き菓子は、どれも小さく、薄く、食べやすそうな形をしていた。
しかも、端はきれいに丸められ、焼き色も揃っている。
中には、花を模したものまであった。
「……カイゼル様」
「何だ」
「その兵糧、とても可愛らしい形をしています」
「携帯性を考慮しただけだ」
「こちらは花の形に見えます」
「……士気を維持するためだ」
「こちらは?」
「……」
「ハート型ですか?」
「違う」
即答だった。
だが、カイゼルの手元には、どう見てもハート型に抜かれた生地がある。
「違うのですか?」
「……偶然だ」
「偶然、ハート型に抜いたのですか?」
「兵糧にも、食べる者の精神状態を安定させる工夫は必要だ」
「つまり、可愛く作ろうとなさったのですね」
「違う」
氷刃の伯爵様が、目に見えて動揺し始めた。
無表情ではある。
しかし、言葉が増えるほど、ボロが出る。
「カイゼル様、お耳が赤いです」
「……気のせいだ。厨房の熱気のせいだ」
「この部屋、結構ひんやりしてますけれど」
「………………いいから食え。兵糧だと言っただろう」
「……おいしいです」
「そうか」
リディアが呟くと、厨房の隅から「でしょう!」と賑やかな声が響いた。
振り返れば、料理人や侍女たちが、作業台の陰で誇らしげに胸を張っている。
「旦那様、実は昨日からずっと配合を悩んでおられたんですよ」
「コラ、余計なことを言うな」
カイゼルが苦々しく顔を背けると、使用人たちは顔を見合わせて笑った。
実家では、空腹を訴えれば打たれ、厨房を覗くことさえ許されなかった。
ここは、バターの香りと笑い声が溶け合う、魔法のような場所だ。
「次はこれ、私が混ぜてもよろしいですか?」
リディアが期待に目を輝かせると、料理人が快く木べらを差し出した。
「ええ、もちろんですとも、奥様!」
「……おい、病み上がりが無理をするな」
口では冷たく言いながらも、カイゼルはリディアが粉をこぼさないよう、さりげなくボウルを支えた。
その不器用な指先が、リディアには何よりも温かく感じられる。
(ああ、私、今……あの中にいるわ)
かつて遠くから眺めていた、幸せな焼き菓子の匂い。
自分を背景ではなく、一人の人間として笑いかけてくれる人々。
その中心に自分がいることが夢のようで、胸がきゅっと熱くなる。
「カイゼル様、私もお菓子を作りたいです!」
「却下だ。……まずは食って寝ろ」
「あ、また寝ろって言いましたね。謎拒絶として観察日記に残します」
「……なんだそれは」
呆れ顔のカイゼルと、それを見てどっと沸く厨房。
リディアは、指先についた甘い粉を、宝物のように見つめた。
「……体調がよい昼間にしろ」
「……はい!」
監視という名の、世界でいちばん温かな厨房通いが、今、ここから始まった。




