二 甘い言葉と甘さ控えめの焼き菓子
その翌朝も、枕元には紙包みが置かれていた。
中に入っていた焼き菓子は、昨日よりひとつ少ない、二つだった。
「……数を減らされました」
やはり、食い意地を見られていたのか。
リディアは青ざめた。
その二つは昨日よりわずかに小さく、柔らかかった。
食べやすい。
噛みやすい。
胃に重くない。
昼には、蜂蜜をほんの少量混ぜた薄い焼き菓子が出た。
夜には、温かいミルクプリンが小ぶりな器で届いた。
リディアは困惑した。
食事は、しばらく部屋で取ることになった。
その日の昼過ぎ、カイゼルはリディアの部屋へ来た。
扉を開けた彼は、まず寝台を見た。
次に、窓辺の椅子。
それから、卓上に残った皿とカップ。
最後に、リディアを見た。
「起きていたのか」
「カイゼル様?!」
「うろついてはいないだろうな」
「……はい」
リディアは思わず背筋を伸ばした。
見苦しくないように。
だらしなく見えないように。
せめて伯爵夫人らしく見えるように。
背を伸ばした瞬間、喉の奥がかすかに詰まった。
肩に力を入れただけで、息が浅くなる。
それを見たカイゼルの眉間の皺が深くなった。
「やめろ」
思ったより鋭い声に、リディアは固まった。
やはり、姿勢を正したところで見苦しいものは見苦しいようだった。
伯爵夫人らしく取り繕うことすら、氷刃の伯爵様の目には余計な努力だったのだろう。
「申し訳ありません」
リディアはそっと頭を下げた。
カイゼルは言葉をかけかけて、やめた。
それから、寝台の上で力を入れたまま固まっているリディアを見て、告げる。
「その姿勢はやめろ」
「……はい」
正しく座っているつもりだった。
どこか違うのか。
伯爵夫人らしい姿勢とは、思ったより難しい。
リディアはためらってから、そろそろと背中の力を抜いた。
寝台の背もたれに身体を戻すと、呼吸が楽になる。
カイゼルはそれを見て、ようやく卓上の皿へ視線を移した。
怒られたのか。
直されたのか。
やはり、判別できない。
「食べたのは」
「スープを半分と、パンを少々です」
「菓子は」
「ひとつだけです」
リディアは慌てて付け足した。
「二つ目は、まだ食べておりません」
「なぜ」
「食い意地を張っていると思われるかと」
「……」
カイゼルは答えなかった。
怒られるのかと思ったが、そうではなかった。
彼はしばらくリディアを見てから、侍女に告げる。
「菓子は調整しろ」
「大きさでございますか」
「そうだ。数は変えるな」
「かしこまりました」
「パンも同じだ。スープは温かいまま」
侍女は心得たように頷いた。
「食べ残しは」
「そのまま下げろ。詰め込ませるな」
短いやり取りだった。
リディアには、まるで暗号のように聞こえた。
菓子を調整。
数は変えない。
パンも同じ。
食べ残しはそのまま。
つまり、食べた数だけでなく、大きさや残し方まで確認されるということなのか。
リディアは膝の上で、そわそわと指先を重ねた。
これは食事なのか。
試験なのか。
それとも、氷刃の伯爵家における奥様観察記録なのか。
やはり、氷刃の伯爵様は分からない。
そんなふうに、カイゼルは日に何度か部屋へ来た。
優しい言葉をかけるわけではない。
ただ、彼女の皿の減り具合を見る。
何を食べ、何を残し、どのくらいで手が止まるのかを、黙って確認している。
それだけではなかった。
来るたびに、まず寝台を見る。
次に、椅子を見る。
それから、窓の位置と、卓上の皿と、水差しの減り具合を見る。
最後に、リディアを見る。
「動いたか」
「……少しだけ」
「どこまで」
「中庭へ……」
「勝手にうろつくな」
叱責のように聞こえた。
うろつく。
リディアは膝の上で指を揃えた。
どうやら、中庭へ出ることも、氷刃の伯爵様の中では“うろつく”に分類されるらしい。
「申し訳ありません」
「謝れとは言っていない」
「では、何と」
「何もするな」
何もするな。
リディアは瞬きをした。
何もするな、とはなかなか難しい命令である。
座ることも、立つことも、窓を見ることも、伯爵夫人らしくする努力も、場合によっては“すること”に含まれる可能性がある。
その後も、カイゼルの確認は続いた。
「本を読んでいたのか」
「はい。少しですが……」
「……字が小さいな」
「え?」
カイゼルは卓上に置かれた本へ視線を落とすが、リディアの問いかけには答えない。
「刺繍もしていたのか」
「針を持っただけです」
「その手で針仕事をする気か」
リディアは自分の指先を見た。
確かに、かすかに震えている。
ただ、伯爵夫人らしさとは、多少震えていても刺繍をするものではないのか。
次に、カイゼルはまだ封を開けていない便箋を見る。
「手紙?」
「まだ書いておりません」
「急ぎか」
「……いいえ」
「なら後にしろ」
命令ばかりだった。
長く読むな。
針仕事をする気か。
急ぎでないなら後にしろ。
勝手にうろつくな。
何もするな。
リディアは膝の上で指先を重ねた。
「では、私は何をしていればよろしいのでしょう」
「用がなければ寝ていろ」
用がなければ。
リディアは、しばらく考えた。
確かに今の自分には、伯爵夫人らしい仕事も、夫に求められる役目も、特にないらしい。
せいぜい、食べたものの量を記録されるくらいである。
それなら、寝ているのが一番邪魔にならない気がする。
それは、どこかさみしい。
――と、そう思ったのに、いつの間にか部屋にはひとつずつ物が増えていった。
短時間で読める薄い本。
針を使わなくても眺められる刺繍図案。
手紙を書かずに済むよう、来客や実家への返事を断るための使用人。
何もするな、と言われている。
それでも、退屈にはならないように配慮されている。
やはり、氷刃の伯爵様は分からない。
ときどき侍女が言いたげな顔をする。
カイゼル本人が何も言わないので、リディアには判別できない。
これは監視なのか。
評価なのか。
それとも、食い意地の記録なのか。
『愛することはない』
初夜でリディアにそう言い切った人が、なぜここまでするのだろう。
リディアには分からなかった。
それでも菓子はおいしい。
それが問題だった。
おいしいと、食べたいと思ってしまう。
食べたいと思うと、自分が浅ましい人間になったようで怖い。
でも、指先ほどの焼き菓子を一つ口に入れるだけで、身体の奥に温かいものが戻る気がする。
だから、リディアは毎回悩みながら食べた。
◇
ある午後、侍女が小ぶりな器を下げながら、廊下で小声を漏らした。
「あんなお身体で、初夜の支度だなんて……」
リディアは顔を上げた。
侍女ははっとしたように口を閉じ、深く頭を下げる。
「失礼いたしました、奥様」
謝られたことで、リディアは納得した。
やはり、聞かせてはいけない類の言葉だったのだろう。
あんな身体。
確かに、その通りである。
細いし、薄いし、色気らしきものも見当たらない。
氷刃の伯爵様が支度を不要だと判断したのも、無理はない。
思わずため息が出た。
誘惑以前に、まず身体づくりが必要らしい。
朝になれば温かいスープが届き、
昼にはひと口大の焼き菓子が置かれる。
窓辺には淡い陽が差し、
湯気の立つ器からは、やさしい匂いがした。
食べ切れなくても怒られず、
眠っていても叩き起こされない。
そんな日が、しばらく続いていた。
その頃には、リディアも屋敷の暮らしに慣れ始めていた。
毎晩届く焼き菓子にも、
日に何度か訪れるカイゼルの無愛想な確認にも。
廊下を歩く使用人たちの足音も、
夜更けに漂う甘い香りも、
だんだん「知らない家」のものではなくなっていく。
そんな折、リディアの元へ一通の手紙が届いた。
『リディア。
突然の手紙を許してほしい。
君がレーヴェン伯爵家へ嫁いだと聞いてから、ずっと落ち着かなかった。
あの氷刃の伯爵のもとで、君が穏やかに過ごせているとは思えない。
幼い頃から、君がどれほど我慢してきたかを僕は知っている。
だから今度こそ、君をその場所から連れ出したい。
無理に返事を書かなくていい。僕が迎えに行くまで、どうか待っていてほしい』
リディアは、何度もその文面を読んだ。
『ずっと助けたいと思っていた』
『頑張っていたことを、いちばんよく分かっている』
優しい言葉だった。
嬉しくないわけではない。
誰かが自分のことを頑張っていたと言ってくれる。
それは、心の奥に淡い光が灯るような言葉だった。
けれど、かすかな違和感も残った。
ずっと?
ずっととは、いつからだろう。
フェルメール伯爵家は、グランフェル侯爵家の従属貴族だった。
ならば、エリオットはただの幼馴染ではなかったはずだ。
それなのに、今までこんな手紙が届いたことはなかった。
(急に、どうしたのかしら? エリオット様は、大きな病にでも罹られているのかしら……?)
ただ、病の報せにしては、文面がずいぶん甘い。
考えてもリディアには分からない。
(お返事どうしようかしら……はぁ……)
リディアは手紙を畳み、返信をどうするか、しばらく悩むことになった。
◇
その夜も、菓子は届いた。
今日の菓子は、ほろほろと崩れるひと口大のクッキーだった。
甘さは控えめで、口の中で溶ける。
甘い言葉の手紙。
甘さ控えめの焼き菓子。
どちらが今の自分を支えているのか――答えは考えるまでもない。
ただ、一つだけ気になることがあった。
この菓子は、誰が作っているのだろう。
屋敷の料理人だろうか。
侍女だろうか。
リディアは可愛らしい紙包みを見つめ、真剣に考えた。
フェルメール家の娘は、美しい背景でなければならなかった。
華やかな晩餐の席で、誰よりも質素なドレスを着て、誰にも不愉快な思いをさせないよう――慎ましく佇む。
その場に並ぶ食べ物を口にすることは許されない。
父も母も、親族たちも、銀皿の食事を美味しそうに口にしていたけれど。
リディアだけは、そこへ手を伸ばすことを許されなかった。
「リディア、卑しい顔つきをやめなさい。疲れを見せるなど、家名を汚すことですよ」
そう言われるたび、伸ばしかけた指先は扇でぴしゃりと打たれた。
食べるな。
欲しがるな。
歪んだ顔を見せるな。
ただ、慎ましくそこにいろ。
それが、リディアが実家で叩き込まれた生き方だった。
――けれど、一度だけ。
リディアは、屋敷の厨房を覗き見たことがある。
そこは、静まり返った客間とはまるで違う場所だった。
バターと砂糖の甘い匂い。
焼き上がったばかりのクッキーを並べる職人。
小麦粉で頬を汚しながら笑う使用人たち。
「わあ、いい色!」
「冷めないうちに味見して。今日のは最高だよ」
焼きたてをかじった使用人たちが、熱さに頬を押さえて笑っていた。
リディアは、その光景から目が離せなかった。
完璧に整えられた茶会の主役よりも。
誰にも食べることを許されない飾り人形よりも。
小麦粉にまみれて、甘い匂いの中で笑っている、あの人たちの一人になりたかった。
(いいな。私も、ああなりたい)
それは、空腹よりも深い憧れだった。
だから、レーヴェンの屋敷でお菓子が焼かれていると知った時、リディアは居ても立ってもいられなくなった。
いったい誰が作っているのだろう。
料理人だろうか。
侍女だろうか。
それとも、自分の知らない誰かが、毎晩あの温かな匂いの中心にいるのか。
(いいなぁ)
リディアは、紙包みを見つめた。
食べることさえ許されなかった自分が、いつか立ちたかった場所。
そこに、誰かが先にいる。
しかも、その誰かは悔しいほど上手に菓子を焼いている。
(どうすれば、私はそこに行けるのかしら……?)
甘い香りに誘われるように。
そして、正体不明の憧れの場所にいる先客を突き止めるために。
リディアはその夜、寝室を抜け出すことにした。




