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「君を愛することはない」と言った夫が、毎晩お菓子を焼いてきます……?!  作者: ***あかしえ


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1/5

一 氷刃の伯爵様と初夜の支度

 



 婚礼の夜。

 リディア・フェルメールは、夫婦の寝室で人生最大の危機に瀕していた。


 胸が高鳴らないわけではない。

 得体の知れない不安に、薄い絹の夜着を握りしめてもいる。


 なのに、それらすべてを塗りつぶすほどに――とにかく、お腹が空きすぎていた。


 実家で最後に出された食事は、皿の底が透けて見えるほど薄いスープと、小鳥の餌にも満たないパンの欠片だった。



 フェルメール伯爵家の娘には、鉄の掟がある。


 ――『常に控えめであれ。満たされることを欲するな』


 食べたいと言えば「浅ましい」と叱られた。

 寒いと言えば「我慢が足りない」と笑われた。

 疲れたと言えば「怠けるな」と立たされ、痛いと言えば「大げさだ」と退けられた。


 高熱で倒れても、差し伸べられる手はない。

『みっともないから立ちなさい』という冷徹な命令が降ってくるだけだった。


 つまり今のリディアは、空腹で目が回りそうになりつつも、実家の教えを完璧に守り抜く()()()()()()()であった。

 ……たぶん。



 実家を出たからといって、自由になれるとは思っていない。


 今夜から、両親に代わって自分を支配するのは――王都で()()()()()と恐れられる男、カイゼル・レーヴェンなのだと、リディアは思っていた。


 黒髪に冬の湖のような灰色の瞳。

 社交場では氷の彫像のように無表情を貫き、敵対する者をその鋭い剣筋で容赦なく切り捨てる――そんな男。


 しかし、今のリディアは、氷の刃よりも()()のことで頭がいっぱいだった。


 なぜなら。

 ――どこからか、香ばしい小麦と、とろけるようなバターの匂いが漂ってきているからだ。


(この香りは何かしら? ああ、だめ。とても胃袋が刺激されるわ……)


 リディアは、そっとお腹を押さえた。

 嫁入り前の娘が食べ物に心を奪われるなど、あるまじき卑しさである。


(――いえ、待って)


 嫁入り前とは、いつまでを指すのだろう。

 婚礼の儀式が終われば嫁入り後なのか。

 それとも、初夜を終えて初めて嫁入り後なのか。


 もし後者なら。


(私のパンは、まだ遥か彼方……!)


「奥様――」


 振り返ると、侍女たちは青ざめた顔でリディアの華奢すぎる身体を凝視していた。

 骨ばった手首、浮き出た鎖骨、薄すぎる肩。


「お、お食事は……きちんと召し上がっておられましたか?」

「はい、もちろん。一日一回、毎日しっかりといただいておりました」


 ――沈黙。

 侍女たちの顔色がさらに土気色に変わる。


(もしかして、レーヴェン家では一日一回以上が普通なのかしら? つまり、パンが一切れ増える可能性がある?)


 ――ナイス❤️


 リディアの胸に、ささやかな期待がぱっと灯った。

 その期待はすぐに、別の心配へと姿を変える。


(まさか……フェルメール家は、台所事情が苦しかった……?!)


 自分だけ食事が少なかったのは、家のためだった?

 父も母も、親族たちも、皆平然としていたから気づかなかった。本当は伯爵家の台所も苦しかったのではないか?

 だとしたら、申し訳ないことをした。

 もっと空腹を顔に出さず、もっと上手に我慢するべきだったのではないか――。


 けれど、リディアはもうフェルメール家の娘ではなく、レーヴェン伯爵家へ嫁いだ身である。


 ならば、レーヴェン家の()()に合わせても、きっと叱られない。

 腹いっぱい、とまでは言わない。

 腹に溜まる感覚くらいは味わえるはずだ。


 リディアが密かに気を取り直した時、寝室の扉が開いた。




 入ってきたのは、今夜からリディアの夫となる――両親に代わって、自分を支配する男。


 カイゼル・レーヴェン伯爵。

 氷刃の伯爵。


 噂に違わぬ威圧感。

 高い背、鍛え抜かれた体躯、すべてを射貫くような灰色の瞳。


 リディアは鏡の前で立ち上がろうとしたが、膝に力が入らない。

 椅子の肘掛けに指をかけたところで、カイゼルは一歩入ったまま足を止めた。


 彼の視線が、リディアの顔ではなく、肩へ、手首へ、夜着の袖口から覗く細い指へと滑る。

 その灰色の瞳が、かすかに険しくなった。


「……全員下がれ」


 低い声だった。


 侍女たちは迷ったようにリディアを見る。

 するとカイゼルがもう一度、告げた。


「下がれ」


 使用人たちは静かに部屋を出た。


 寝室に残されたのは、リディアとカイゼルだけだった。


 ――キャッ大胆❤️


 しかも、立ち上がらなくてもいいようだ。

 今のリディアには、たいへんありがたい大胆さだった。


 なるほど。

 氷刃の伯爵様は、こういう強引なタイプなのだ。たぶん。


 いや、でも相手は氷刃の伯爵である。

 いきなり斬られる可能性もある。


 リディアは真剣に考えた。


 もし斬られるなら、先に食べ物を口にしておきたかった。


 リディアは、膝の上で指を揃えた。


 怒られるのか。

 支度に不備があったのか。

 痩せすぎていて見苦しいと笑われるのか。

 それとも、伯爵家の娘のくせに色気がないと呆れられるのか。


 どれでも、慣れている。


 それでもリディアは、目の前の男をそっと見上げた。


 氷刃の伯爵。


 冷たい噂ばかり聞いていたのに、近くで見ると、驚くほど整った顔をしている。

 灰色の瞳は冷たいのに、目が離せない。


 これは困った。


 怒られるかもしれない。

 馬鹿にされるかもしれない。

 なのに、ほんの一瞬、思ってしまった。


(……格好いい……)


 どうすればこの人を誘惑できるのだろう?


 まず、色気とは何だろう。


 実家で習ったことは、我慢と沈黙ばかりだ。

 そもそも、男の人に好かれる方法など考えたこともない。

 誘惑の授業は、残念ながら未履修だった。


 カイゼルは、ゆっくりと近づいてきた。


 いよいよ初夜らしい展開なのか。

 それとも、伯爵夫人としての不備を叱責される時間なのか。


 リディアが膝の上で指を揃えていると、カイゼルは寝台のそばで足を止めた。

 しかし、リディアには触れなかった。

 彼はそのまま、リディアの細い手首と、薄い夜着と、整えられた寝台を順に見る。


 それから、感情を押し殺すように息を吐く。


 その意味を読み取れないまま、リディアの指先にかすかに力が入った。


「この支度は不要だ」

「不要、ですか?」

「ああ。……私は、君を愛することはない」

「…………」


 胸の奥に小さな棘が落ちたけれど、リディアはそれを痛みと呼ぶほどのものではないと飲み込んだ。


(もしや……これは、失恋した……? ……うっ……つらい……)


 愛されないと分かれば、優しさを勘違いして傷つかなくて済む。

 慣れ親しんだ「孤独」がわずかに形を変えただけだ。


 初夜より先に失恋を経験するとは、花嫁というものはなかなか忙しい。


 今夜、期待外れだと思われても、先に分かっていれば痛みは小さい。

 それなら、慣れている。


 ただ、一つだけ問題がある。


 誘惑する前に失恋してしまった場合、まだ何も始まっていないのに、終わったことになるのか。


「承知いたしました」


 リディアが静かに頭を下げると、カイゼルの眉間にかすかな皺が寄った。


「今夜、私の寝室に来る必要はない」

「……はい」

「君は一人で寝ろ」


 やはり、拒まれたようだった。

 リディアは膝の上で、そっと指を握り込んだ。


「食堂には出るな。食事は部屋に運ばせる」

「はい」

「その様子で人前に出るな」

「……はい」


 みすぼらしいからだろうか。


 そう思ったが、口には出さなかった。

 氷刃の伯爵様は、どうやら妻を人前に出したくないらしい。


「朝になっても、呼ぶまで私の前に出るな」

「承知いたしました」


 起きても会いに来るな、ということらしい。

 まだ何も始まっていないのに、妻としての仕事はずいぶん早く終わったようだった。


 カイゼルが部屋を出ようと踵を返した、その矢先。

 リディアの腹が『ぐぅ』と小さく鳴った。


 寝室の沈黙に、情けないほどはっきり響き――リディアは息を呑んだまま固まった。


 ああ、今度こそ呆れられる。

 だが、カイゼルは笑わなかった。


「……腹は減るのか」


 感情の読めない声だった。


 リディアは一瞬、答えに詰まった。

 空腹を訴えるのは浅ましい。

 食べたいと思うのは恥ずかしい。

 そう教えられてきた。


「いいえ」と答えかけたところで、また腹が鳴った。


「…………申し訳ありません……」


 カイゼルはため息をついた。

 叱責も、嘲笑もなかった。


 ただ、何も言わずに寝室を後にした。


(呆れさせてしまったかしら……)




 そう思って身を縮めていると、ほどなくして扉が控えめに叩かれた。

 入ってきた侍女の手には、湯気の立つスープと、小さく切られたパンが乗っている。


「奥様、こちらを」

「……え?」


 リディアは瞬きをした。


 なぜだろう。

 カイゼルは、何も言わずに出ていったはずなのに。


 けれど、目の前には温かいスープがある。

 パンも、残り物だと思ったのに柔らかく、まだほんのり湯気が立っていた。


 リディアはスープを半分だけ飲んだ。

 パンも、端をわずかに食べた。


 残しても、誰も怒らなかった。

 食べても、誰も意地悪をしに来なかった。

 眠っても、誰も咎めには来なかった。





 ◇◆◇


 翌朝。

 目を覚ましたリディアの枕元に、紙包みが置かれていた。


 中には、親指ほどの焼き菓子が三つ。

 甘い香りがした。


 これは、食べてもいいものなのか?

 それとも、食い意地を試されているのか?


 いずれにせよ……とても良い香りだった。



 リディアは周囲を見回した。

 誰もいない。


「……ひとつだけなら」


 ぽつりと呟いて、ほのかに温かみを帯びた焼き菓子をひとつ口に入れる。


(焼き立て……?)


 ほろり、と崩れた。

 甘い。

 けれど甘すぎない。

 バターの香りが、舌の上でやさしく広がる。


 リディアは目を見開いた。


 ――おいしい❤️


 食べても怒られないお菓子は、こんな味がするのか。

 リディアはしばらく、紙包みを両手で持ったまま固まっていた。


「……これは、何の罠でしょうか」


 二つ目に手を伸ばすまで、そう時間はかからなかった。







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