第二話「船幽霊対策本部、開廷」
⚠︎︎注意⚠︎︎
灯台擬人化
※これは灯台史に基づくフィクション作品です。実在する人物とは関係ありません。この作品に出てくる灯台は実在します。灯台オタクによる勝手な妄想の延長線です。
午前四時二十分。
響灘の異常事態は、ひとまず収束した。
海の底から現れた謎の灯台は、夜明け前に姿を消した。船幽霊たちも海中へと沈み、周辺の航路に被害は出ていない。
ただし、無傷で済んだ者ばかりではなかった。
「……六連島」
「はい」
「その羽根ペンはどうした」
「折れちゃった」
「見れば分かる。なぜ折れた」
「船幽霊に突っ込んだら、思ったより硬くて」
「お前は武器の材質を理解しているのか?」
「してるよ。紙に字を書くためのものだよね」
「分かっているならなぜ突っ込んだ!」
部埼灯台の怒声が、支部の建物に響き渡った。
六連島は、へらりと笑った。
「いやあ、部埼さんが懐中時計で格好よく戦っていたから、僕も格好よく戦いたくなっちゃって」
「格好よさで武器を振るな!」
「でも、最後はちゃんと役に立ったよね?」
「……」
部埼は口を閉じた。
確かに、六連島が羽根ペンで描いた幾何学模様は、船幽霊の動きを一時的に封じていた。
武器が壊れたのは、その直後だった。
「……次からは、もう少し考えて動け」
「はーい」
「返事だけは一人前だな……」
部埼は額を押さえた。
その向こうでは、角島が特牛の怪我の具合を確認している。
「特牛、手を見せろ」
「大丈夫だよ、角島さん。これくらい平気」
「平気かどうかは僕が判断する」
「でも……」
「でも、じゃない」
角島は小さく息を吐き、特牛の手に包帯を巻いた。
「君が頑張っているのは知ってる。だからこそ、無茶をしてほしくないんだ」
「……うん」
特牛は、少しだけ嬉しそうに笑った。
その様子を見ていた烏帽子島が、にやりと口角を上げる。
「へえ。角島も随分と甘いじゃねえか。さすがはブラントンの末っ子――」
「烏帽子島」
「はい」
「次に余計なことを言ったら、海に放り込むぞ」
「すみませんでした」
角島の目は笑っていなかった。
その日の午前六時。
部埼のもとへ、一本の連絡が入った。
差出人は、船幽霊対策本部。
内容は簡潔だった。
> **緊急招集。全所属灯台さんは本部へ集合されたし。**
>
> **議題:響灘に出現した未確認存在について。**
>
> **追記:剱埼と犬吠埼は、同じ部屋に入る前に十分な注意を払うこと。**
部埼は文面を二度読んだ。
「……最後の一文は何だ」
「いつものことじゃない?」
六連島が、折れた羽根ペンを眺めながら言った。
「いつものことだから書かれているんだろうが……」
部埼は深くため息をついた。
船幽霊の脅威は去っていない。
それどころか、今までにない異常が起きている。
本部で何か手掛かりが得られればいいのだが。
「……行くぞ、六連島」
「おっ、会議だね!」
「遊びに行くわけじゃない」
「分かってるよ。お土産はいる?」
「いらん」
「じゃあ、帰りに買おうね」
「人の話を聞け!」
こうして、二人は本部へ向かうことになった。
この時の部埼は、まだ知らなかった。
今日の会議が、彼の人生ならぬ灯台生の中でも、指折りの厄日になることを。
---
## Ⅰ.年四回の地獄
船幽霊対策本部。
ブラントン灯台とヴェルニー灯台が共同で設立した、船幽霊対策の中枢である。
年に四回、各地の灯台さんが集まり、船幽霊の出現状況や対策、被害報告について話し合う。
建前上は、極めて重要な会議だ。
ただし、実際には。
「だからお前の剣の振り方が悪いと言っているんだ!」
「はあ!? お前こそ突っ込むことしか能がねえだろうが!」
「何だと!」
「やんのか、剱埼!」
「上等だ、犬吠埼!」
開会から、わずか三分。
剱埼灯台と犬吠埼灯台が、机を挟んで睨み合っていた。
その間に神子元島灯台が立ち、必死に二人を押しとどめている。
「二人とも、今は会議中ですから。どうか落ち着いてください」
「神子元島、こいつが先に喧嘩を売ってきたんだ!」
「俺は事実を言っただけだ!」
「それを喧嘩を売るって言うんだよ!」
「お前が買うからだろうが!」
「二人とも!」
神子元島の声が響く。
しかし、二人は聞く耳を持たない。
その隣では、野島埼灯台が腕を組んでいた。
「……相変わらず騒がしいな」
「お前も大概だろうが、野島埼」
「何だと?」
剱埼が振り返った瞬間、野島埼が立ち上がった。
「そもそも、ブラントンの連中は――」
「はい、そこまで!」
城ヶ島灯台が、穏やかな笑顔のまま野島埼の肩を押さえた。
「野島埼くん。まだ何も始まっていないよ」
「始まってるだろ、こいつらが!」
「君まで始めなくていいんだよ」
城ヶ島は慣れた手つきで野島埼を座らせた。
なお、野島埼の袖口には、先日負ったらしい新しい傷があった。
城ヶ島はそれを見つけ、そっと眉を下げた。
「……また怪我をしたのかい?」
「これは違う」
「何が違うんだい?」
「……ちょっと転んだだけだ」
「剣を持って?」
「…………」
「帰ったら手当てをしようね」
「いらねえよ」
「そう言わずに」
穏やかな声だった。
野島埼は、なぜかそれ以上何も言えなくなった。
一方、会議の最前列では、ヴェルニー灯台の代表として観音埼灯台が座っていた。
小さな手で資料を揃え、真剣な顔で議事録を眺めている。
その隣には、剱埼がいつでも動けるように立っていた。
「観音埼くん、お茶をどうぞ」
城ヶ島が湯呑みを差し出した。
「ありがとう、城ヶ島さん!」
観音埼はにこりと笑った。
その笑顔を見て、剱埼の表情がほんの少しだけ和らぐ。
――が。
「……おい、剱埼」
犬吠埼が、再び声を上げた。
「さっきから観音埼の後ろに立ってばっかりじゃねえか。護衛のつもりか?」
「悪いか」
「いや? 過保護だなと思っただけだ」
「……犬吠埼」
剱埼の声が低くなる。
神子元島が頭を抱えた。
「お願いですから、これ以上は……!」
そこへ、会議室の扉が開いた。
「……失礼する」
部埼灯台だった。
その後ろには六連島がいる。
部埼は、室内を一瞥した。
机の上には散乱した資料。
床には倒れた椅子。
神子元島は疲れ切った顔をしており、城ヶ島は野島埼をなだめている。
そして、剱埼と犬吠埼は今にも殴り合いを始めそうだった。
部埼は、無言で扉を閉めた。
「六連島」
「なあに?」
「帰るぞ」
「えっ、まだ入ったばっかりだよ?」
「見れば分かる。だが俺はもう帰りたい」
「駄目だよ、部埼さん。お仕事でしょ?」
「……お前にだけは言われたくない」
その時、室内の奥から声がした。
「おや。もう帰るのかい?」
ブラントン灯台の代表、和田岬灯台だった。
彼は穏やかに微笑み、部埼に手を振った。
「久しぶりだね、部埼さん。こちらへどうぞ」
「……和田岬。助かった」
「うん?」
「いや、何でもない」
部埼は席についた。
その隣では、友ヶ島灯台が優雅に紅茶を飲んでいる。
「おや、部埼君。随分とお疲れの様子ですね」
「誰のせいだと思っている」
「私はまだ何もしていませんよ?」
「まだ、だろう」
友ヶ島は楽しそうに笑った。
瀬戸内海のリーダーを務める彼は、厳格そうな顔立ちに反して、こういう場面を妙に楽しむところがある。
そして、彼の視線はすぐに蒲生田岬と紀伊日ノ御埼へ向かった。
「ところで、蒲生田君。紀伊日ノ御埼君が先ほどから君の袖を握っているのですが」
「えっ?」
蒲生田岬が横を向く。
紀伊日ノ御埼は、にこにこと微笑みながら、しっかりと蒲生田岬の袖を掴んでいた。
「……紀伊日ノ御埼くん?」
「はい、蒲生田岬くん」
「なぜ袖を……?」
「何となくです」
「離してくれませんか?」
「嫌です」
「即答!?」
友ヶ島が口元を押さえた。
「いやあ、今日も仲がよろしいですねえ」
「友ヶ島さん!」
蒲生田岬の悲鳴が響く。
和田岬は静かに目を閉じた。
「……議題に入りたいなあ」
心からの願いだった。
---
## Ⅱ.議題第一号――海の底の灯台
「では、始めましょうか」
和田岬が手を叩くと、ようやく室内が静かになった。
……完全にではない。
犬吠埼は剱埼を睨んでいるし、野島埼はまだ不機嫌そうだし、友ヶ島は蒲生田岬の反応を見て楽しんでいる。
それでも、少なくとも椅子を投げる者はいなくなった。
和田岬は資料を広げた。
「今回、緊急招集をかけたのは、響灘に出現した未確認存在についてです。部埼さん、報告をお願いします」
部埼は立ち上がった。
懐中時計を机に置き、淡々と説明を始める。
異常な光。
海底へ向かう航路。
光を宿した船幽霊。
そして、海の底から現れた、灯台の形をした何か。
一通り説明を終えた時、会議室は静まり返っていた。
「……灯台の形をしたもの、ですか」
城ヶ島が呟いた。
「それは、実在する灯台だったのかい?」
「分からない。少なくとも、現在の海図や灯台の記録には該当するものがなかった」
「紋章は?」
観音埼が尋ねた。
部埼は少しだけ間を置いた。
「古いものだ。俺も、直接見たことはない」
「……そう」
観音埼は、机の上の資料に視線を落とした。
その顔から、笑みが消えていた。
剱埼がすぐに気づく。
「観音埼くん?」
「……ううん。何でもないよ」
「本当か?」
「うん」
観音埼は頷いた。
しかし、小さな指先は資料の端をぎゅっと握っていた。
その様子を、城ヶ島は見逃さなかった。
「観音埼くん。何か心当たりがあるのかな?」
「……分からないんだ」
観音埼は、ゆっくりと口を開いた。
「でもね。あの紋章、どこかで見たことがある気がする」
剱埼の表情が強張った。
「どこで?」
「……思い出せない」
観音埼は困ったように笑った。
「ごめんね、剱埼さん」
「謝ることじゃない」
剱埼は即座に答えた。
「思い出せないなら、無理に思い出さなくていい。俺たちが調べる」
「……うん」
観音埼は、ほっとしたように頷いた。
その時だった。
「ちょっと待て」
野島埼が口を挟んだ。
「海底から灯台が出てきた? しかも、船幽霊がそいつの光を持っていた? ……何だそりゃ」
「俺も分からん」
部埼は正直に答えた。
「だが、船幽霊が言っていた。『清虚の光を返せ』と」
その言葉に、和田岬が目を見開いた。
友ヶ島の表情からも、笑みが消える。
そして、樫野埼灯台がゆっくりと顔を上げた。
「……清虚?」
低い声だった。
ブラントン灯台の長男として、数多くの記録と伝承を知る彼にとって、その名は決して軽いものではなかった。
潮岬も、隣で息を呑んでいる。
「樫野埼……知っているのか?」
「いや。直接は知らない」
樫野埼は首を横に振った。
「ただ、古い記録に出てきたことがある。灯台の光が、まだ今とは違う形で扱われていた頃の話だ」
「どんな記録ですか?」
和田岬が尋ねる。
「断片的なものしか残っていない。……だが、確かに書かれていた」
樫野埼は目を細めた。
「清虚の光は、ただ海を照らすだけのものではない。失われたものを、あるべき場所へ導く光だと」
六連島が首を傾げた。
「あるべき場所?」
「そうだ」
樫野埼は頷いた。
「迷った船を港へ。帰れない魂を、静かな眠りへ。そういう意味だったのだろう」
「なら、どうして船幽霊がその光を欲しがるんだ?」
部埼の問いに、誰も答えられなかった。
船幽霊は、失われた記憶から生まれる存在だ。
もし清虚の光が、失われたものを導く力を持つのなら。
彼らがそれを求める理由は、あるのかもしれない。
だが、だからといって人間を海底へ引きずり込んでいいはずがない。
「……いずれにせよ」
和田岬が、静かに言った。
「次に同じ現象が起きた場合、各海域の灯台さんが連携して対処する必要があります」
「賛成だ」
部埼が頷く。
「それと、古い記録の調査も必要だ。特に、廃灯になった灯台に関するものを優先して探したい」
その言葉に、観音埼の肩がぴくりと動いた。
廃灯。
消えた灯台。
記録から忘れ去られた存在。
彼は何かを言いかけた。
しかし、その声は会議室に響く別の声にかき消された。
「おい、ちょっと待てよ」
犬吠埼だった。
「結局、ブラントンの連中が昔の記録を調べるってことか?」
「……どういう意味だ」
樫野埼が目を向ける。
「いやなに。お前ら、こういう話になるとやけに詳しいじゃねえか。何か隠してんじゃねえのか?」
「犬吠埼」
神子元島が、嫌な予感を覚えた顔で呼びかけた。
だが、犬吠埼は止まらなかった。
「そもそも、今回の件だってブラントンの光が関係してるんだろ? なら、まずお前らが説明するべきじゃねえのか!」
「……言いたいことはそれだけか?」
樫野埼の声が低くなる。
「何だよ、やる気か?」
「お前な……!」
「はい、そこまで!」
和田岬が二人の間に割って入った。
「今は喧嘩をしている場合じゃないでしょう!」
「俺は喧嘩なんかしてねえ!」
「しているだろうが!」
剱埼まで立ち上がった。
神子元島が頭を抱えた。
友ヶ島は、なぜか少しだけ楽しそうだった。
「いやあ、活気がありますねえ」
「友ヶ島さん、お願いだから黙っていてください!」
蒲生田岬の悲痛な叫びが響く。
そして、会議室は再び混沌に包まれた。
---
## Ⅲ.観音埼の記憶
会議が中断されたのは、それから十五分後だった。
神子元島が犬吠埼を廊下へ連れ出し、潮岬が樫野埼を落ち着かせ、和田岬が資料を回収し、城ヶ島が野島埼の袖口を確認している。
部埼は窓際で、懐中時計を眺めていた。
「……まともに会議をする気があるのか、あいつらは」
「まあまあ」
六連島が隣に立つ。
「みんな心配なんだよ。知らないことが起きたら、誰だって不安になるもの」
「……そうだな」
部埼は小さく頷いた。
その時、背後から控えめな声がした。
「……部埼さん」
振り返ると、観音埼が立っていた。
いつもより少しだけ不安そうな顔をしている。
「どうした?」
「ちょっと、お話ししてもいい?」
「構わん」
観音埼は、周囲を見回した。
剱埼は廊下で犬吠埼と睨み合っている。城ヶ島は野島埼の手当てを始めている。和田岬は友ヶ島に何かを言われ、困ったように笑っていた。
今なら、少しだけ話せる。
観音埼は、ぽつりと呟いた。
「……僕ね。時々、夢を見るんだ」
「夢?」
「うん」
観音埼は、自分の手を見つめた。
「暗い海の中に、誰かが立っているの。僕よりずっと背が高くて、顔は見えなくて……でも、その人が誰なのか、僕は知っている気がするんだ」
部埼は黙って聞いていた。
「その人は、いつも僕に聞くんだよ」
観音埼は、ゆっくりと顔を上げた。
「『お前は、まだ覚えているか』って」
窓の外で、風が吹いた。
「……何を?」
「分からない」
観音埼は首を横に振った。
「目が覚めると、全部忘れちゃうんだ。でも、今回は違った」
「違った?」
「うん。あの灯台を見た時、声が聞こえたんだ」
観音埼の小さな手が、胸元を握る。
「『やっと見つけた』って」
部埼は、言葉を失った。
「……観音埼」
「ごめんね。変な話だよね」
「いや」
部埼は静かに首を振った。
「重要な話だ。話してくれて助かった」
観音埼は、少しだけ笑った。
けれど、その笑顔はすぐに曇った。
「……ねえ、部埼さん」
「何だ?」
「僕って、昔はもっと大きかったのかな」
唐突な問いだった。
部埼は答えに迷った。
観音埼灯台は、幾度もの再建を経験している。
そのたびに、灯台さんとしての性格も変化してきた。かつての姿や記憶が薄れ、幼い存在になってしまったことも、剱埼や品川の努力で少しずつ支えられていることも、部埼は知っていた。
「……ああ」
彼は正直に答えた。
「お前は、もっと多くのことを知っていたのかもしれない」
「そっか」
観音埼は、寂しそうに笑った。
「じゃあ、僕が忘れちゃったことを、誰かが覚えていてくれるといいな」
その言葉に、部埼は何も言えなかった。
観音埼は、灯台さんたちの原初たる存在だ。
その彼が忘れてしまったことを、誰が覚えているというのだろう。
――ただ一人。
山奥にひっそりと残る、かつての友人なら。
品川灯台なら、何かを知っているかもしれない。
部埼がそう考えた時だった。
会議室の扉が勢いよく開いた。
「観音埼くん!」
剱埼だった。
「……剱埼さん?」
「探したぞ。勝手にいなくなるな」
「ごめんね。部埼さんとお話ししてたの」
剱埼は部埼に目を向けた。
「……何を話していた?」
「今回の件についてだ」
部埼は、観音埼の夢の話を伏せた。
まだ確証がない。
本人が不安を感じている以上、むやみに話を広げるべきではない。
剱埼は少しの間、部埼を見つめていたが、やがて観音埼の肩に手を置いた。
「……そうか」
そして、観音埼へ向き直る。
「疲れていないか?」
「大丈夫だよ」
「本当か?」
「本当!」
観音埼は、少しだけ胸を張った。
剱埼はその顔を見て、ようやく小さく息を吐いた。
「……ならいい」
けれど、その手は観音埼の肩から離れなかった。
まるで、ほんの少しでも目を離せば、またどこかへ消えてしまうとでもいうように。
---
## Ⅳ.山奥の灯台
同じ頃。
人里から遠く離れた山奥に、小さな建物があった。
かつて、そこには灯台があった。
海は見えない。
船も通らない。
それなのに、建物の中には古びた灯台のレンズが静かに置かれていた。
その前に、一人の青年が座っている。
品川灯台。
今はもう、海を照らすことのない灯台さん。
彼は、机の上に広げた古い帳面をめくっていた。
紙は黄ばみ、文字はところどころ掠れている。
それでも、彼は読み進めていた。
「……やっぱり、そうなんだ」
あるページで、指が止まる。
そこには、見覚えのある紋章が描かれていた。
響灘に現れた、あの灯台の紋章。
品川は、長い間そのページを見つめていた。
そして、静かに目を閉じる。
「……観音埼くん」
その声は、誰にも届かない。
「君は、まだ思い出していないんだね」
品川は帳面を閉じた。
彼は知っていた。
あの灯台が何なのか。
なぜ船幽霊が光を求めるのか。
そして、なぜ観音埼がその声を聞いたのか。
すべてを話せば、観音埼はきっと苦しむだろう。
けれど、黙っていても、いずれ真実は彼のもとへ戻ってくる。
品川は窓の外を見た。
山の向こうに、海がある。
今は見えない。
それでも、彼には分かった。
遠い海の底で、何かが目を覚ましたのだ。
「……もう少しだけ、待っていて」
品川は、帳面を胸に抱いた。
「今度こそ、君をひとりにはしないから」
その瞬間。
机の上に置かれていた天球儀が、ひとりでに回り始めた。
星の位置が変わる。
存在しないはずの星が、ひとつ、またひとつと現れる。
そして、その中心に浮かび上がったのは――
**海の底に沈んだ灯台の位置を示す、ひとつの星だった。**
品川の顔から、血の気が引いた。
「……嘘だろう」
天球儀の中心で、青白い光が瞬いた。
同時に、閉じたはずの帳面がひとりでに開く。
最後のページ。
そこには、今までなかった文字が浮かび上がっていた。
> **灯台の光が七つ失われる時、忘れられたものは海より還る。**
品川は、震える手でその文字に触れた。
「……七つ?」
彼は知っていた。
このままでは、何が起きるのか。
そして、何を守らなければならないのか。
「……急がないと」
品川は立ち上がった。
長い間、誰にも会わずにいた青年が、ようやく扉へ向かう。
行き先はひとつ。
観音埼のもとだった。
---
## Ⅴ.その夜、海は呼ぶ
船幽霊対策本部の会議は、結局、予定していた議題の半分も終わらなかった。
剱埼と犬吠埼は最後まで口論し、野島埼はブラントン灯台への不満をぶちまけ、友ヶ島は蒲生田岬をからかい続けた。
和田岬は何度も話を戻そうとし、神子元島は仲裁に奔走し、城ヶ島は負傷者の手当てをしていた。
それでも、ひとつだけ決まったことがある。
**海底の灯台について、全海域で調査を開始する。**
そして、古い記録を持つ灯台さんたちには、可能な限り情報を共有してもらう。
それが、今回の会議で得られた唯一の成果だった。
帰り際、部埼は窓の外を見た。
遠くの海は、穏やかだった。
あの青白い光は、もう見えない。
「……なあ、六連島」
「なあに?」
「もし、あの船幽霊が本当に失われた灯台の光を持っていたとしたら」
部埼は、懐中時計を見つめた。
「俺たちは、何を相手にしているんだろうな」
六連島は、少しだけ考えた。
「……帰りたいもの、なのかな」
「何?」
「だって、あの声は『帰る場所』って言ってたんでしょ?」
六連島は、いつものように笑った。
「もしかしたら、あの子たちも迷子なのかもしれないね」
部埼は答えなかった。
ただ、懐中時計の蓋を閉じた。
迷子。
その言葉が、妙に胸に残った。
灯台さんは、迷った船を導く存在だ。
ならば。
もし、灯台そのものが迷ってしまったら。
誰が、その帰り道を照らすのだろう。
その答えを、部埼はまだ知らなかった。
けれど、海の底では。
確かに何かが動き始めていた。
遠い昔に失われた光が。
忘れられた名前が。
そして、もう一度会いたいと願い続けた誰かが。
ゆっくりと、海面へ向かって浮かび上がろうとしていた。
その時、部埼の懐中時計が鳴った。
午前二時十三分。
ありえない時刻だった。
彼は目を見開いた。
秒針が止まっている。
そして、時計の文字盤の隅に、小さな文字が浮かび上がっていた。
**『観音埼を、連れてこい』**
部埼は息を呑んだ。
次の瞬間、時計は何事もなかったかのように動き始めた。
「……六連島」
「うん?」
「今すぐヴェルニー灯台に連絡を入れろ」
部埼の声は、いつになく硬かった。
「観音埼を、ひとりにするなと」
窓の外で、波がひとつ砕けた。
まるで、誰かが笑ったように。
次回・第三話「品川灯台は山奥で待つ」
観音埼の前に現れる、消えたはずの友人。
品川が持ってきた古い帳面には、灯台さんたちが知らなかった過去が記されていた。
清虚の光。
七つの失われた光。
そして、観音埼が忘れてしまった約束。
「……品川くん。僕たち、昔に何か約束したの?」
その問いに、品川はすぐには答えられなかった。
ただ、観音埼の頭を優しく撫でて、静かに言った。
「うん。君が忘れてしまっても、僕は覚えているよ」
その背後で、剱埼が刀の柄に手をかけた。
品川の足元に、海水が滴っていたからだ。
彼が歩いてきた山道には、海などなかったはずなのに。
**――そして、品川の影はひとつではなかった。**




