第三話 品川灯台は山奥で待つ
⚠︎︎注意⚠︎︎
灯台擬人化
※これは灯台史に基づくフィクション作品です。実在する人物とは関係ありません。この作品に出てくる灯台は実在します。灯台オタクによる勝手な妄想の延長線です。
――午前二時十三分。
その時刻を境に、観音埼灯台の夢は変わった。
いつもの夢では、暗い海の底に誰かが立っている。
顔は見えない。声も遠い。ただ、そこにいる誰かが、観音埼に何かを尋ねてくる。
『お前は、まだ覚えているか』
けれど、今夜は違った。
暗闇の向こうに、ひとつの光があった。
小さく、頼りなく、それでも確かに輝いている光。
その光のそばに、誰かが座っていた。
黒い髪。穏やかな目。見覚えのある服装。
そして、懐かしい笑顔。
『観音埼くん』
「……品川くん?」
『うん。迎えに来たよ』
観音埼は、思わず手を伸ばした。
けれど、その指先が届くより早く、光が大きく揺らいだ。
『ごめんね』
品川は悲しそうに笑った。
『もう少しだけ、待っていて』
「待って、品川くん!」
光が消える。
暗闇が戻る。
そして、いつもの声が聞こえた。
『七つの光が失われる時、忘れられたものは海より還る』
観音埼は、その言葉を知らなかった。
知らないはずなのに。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
Ⅰ.山道の来訪者
「……ん」
観音埼が目を覚ました時、窓の外はまだ暗かった。
ヴェルニー灯台の建物は静まり返っている。遠くから聞こえる波の音だけが、夜の終わりを告げていた。
「……また、あの夢」
小さく呟き、布団から起き上がる。
枕元には、いつものように剱埼が置いていった上着が畳まれていた。少し肌寒い夜には着るように、と言われているものだ。
観音埼はそれを羽織り、部屋の外へ出た。
廊下の向こうから、足音がする。
「観音埼?」
「……剱埼さん」
現れた剱埼灯台は、すでに身支度を整えていた。腰には打刀。どうやら、少し前から起きていたらしい。
「どうした。眠れなかったのか?」
「うん。ちょっと夢を見て」
「またか」
剱埼の眉が寄った。
観音埼が最近、同じような夢を見るようになったことは知っている。本人は大丈夫だと言うが、目を覚ました後の表情は、どうにも落ち着かない。
「……どんな夢だった?」
「品川くんが出てきたんだ」
その名前を聞いた瞬間、剱埼の表情が変わった。
「品川?」
「うん。迎えに来たって」
剱埼はしばらく黙っていた。
品川灯台。
観音埼の一番の友人であり、いつもそばにいて、何かと気にかけていた灯台さん。
そして、いつの間にか姿を消してしまった存在。
今どこにいるのか、何をしているのか。
誰も知らない。
いや、正確には――探しても見つからなかったのだ。
「……そうか」
剱埼は、観音埼の頭にそっと手を置いた。
「夢の中の話だ。あまり気にするな」
「うん」
「何かあったら、俺に言え。ひとりで抱え込むなよ」
「……うん。ありがとう、剱埼さん」
観音埼は笑った。
その笑顔を見て、剱埼は少しだけ安心した。
その時だった。
建物の外から、鋭い警報音が響いた。
二人は同時に顔を上げた。
「……何だ?」
剱埼が窓の外を見る。
敷地の入り口に、ひとりの青年が立っていた。
古びた鞄を手に、濡れた靴で石畳を踏んでいる。
髪からは水滴が落ち、服の裾には海藻のようなものが絡みついていた。
けれど、その顔は。
「……品川くん?」
観音埼が呟いた。
青年は、こちらを見上げた。
そして、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「おはよう、観音埼くん」
その声は、夢の中で聞いたものと同じだった。
「久しぶりだね」
観音埼は、走り出した。
「品川くん!」
「おっと」
品川は、飛び込んできた観音埼を受け止めた。
「危ないよ。そんなに急がなくても、僕は逃げないから」
「だって、だって……!」
観音埼は品川の服をぎゅっと掴んだ。
「ずっと、どこにいたの? みんな心配してたんだよ!」
「……うん」
品川は、観音埼の頭を優しく撫でた。
「ごめんね」
その声は、少しだけ震えていた。
剱埼は二人を見つめていた。
懐かしい光景だった。
観音埼がまだ今よりも少しだけ落ち着いていた頃。品川が隣で笑い、二人で古い記録を読んでいた頃。
あの頃と、何も変わらないように見えた。
ただひとつ。
剱埼の視線は、品川の足元に向いていた。
石畳が濡れている。
品川の立っていた場所から、建物の入り口まで。
まるで、海の中から歩いてきたかのように。
「……品川」
剱埼が呼んだ。
品川は、ゆっくりと顔を上げた。
「久しぶりだね、剱埼くん」
「……ああ」
剱埼は一歩、観音埼の前に出た。
「どこにいた?」
品川は少し困ったように笑った。
「山奥だよ」
「それは聞いている。なぜ、今まで連絡を寄越さなかった」
「……少し、事情があってね」
「事情?」
「うん」
品川は手元の鞄を握り直した。
「君たちに、話さなければいけないことがあるんだ」
その瞬間。
剱埼の刀が、鞘の中でかすかに鳴った。
品川の影が、揺れていた。
朝の薄明かりの中で、影は不自然に長く伸びている。
そして、その影の先には。
海などないはずの石畳に、黒い水たまりが広がっていた。
Ⅱ.帰ってきた友人
「……とりあえず、中へ入ろうか」
剱埼は、品川から目を離さないまま言った。
「ここで話すことでもないだろう」
「そうだね」
品川は素直に頷いた。
「お邪魔するよ」
三人は建物の中へ入った。
観音埼は、品川のすぐ隣を歩いている。
まるで、少しでも離れたらまたいなくなってしまうとでもいうように。
品川も、それを咎めなかった。
むしろ、時折観音埼の顔を覗き込み、安心させるように微笑んでいた。
「観音埼くん、背が少し伸びた?」
「えっ、そうかな?」
「うん。前に会った時より、少しだけ」
「……いつ会ったっけ?」
観音埼が首を傾げる。
品川の足が止まった。
ほんの一瞬。
けれど、剱埼は見逃さなかった。
「……そうだね」
品川は、再び歩き始めた。
「いつだったかな」
観音埼は不思議そうな顔をしたが、それ以上は尋ねなかった。
やがて、三人は応接室に入った。
剱埼は観音埼をソファに座らせ、自分はその隣に腰を下ろす。
品川は向かいの席に座った。
鞄を膝の上に置き、ゆっくりと口を開く。
「まず、今回の件について話そう」
「響灘のことか」
剱埼が尋ねる。
「うん。海の底から現れた灯台。船幽霊が持っていた光。そして、清虚の名前」
品川は鞄を開いた。
中から取り出したのは、古びた帳面だった。
表紙は擦り切れ、背表紙には何も書かれていない。
それを見た観音埼が、目を輝かせた。
「わあ、古い本!」
「帳面だよ、観音埼くん」
「同じじゃないの?」
「……そうだね。君にとっては同じかもしれない」
品川は苦笑した。
その表情に、剱埼はわずかに警戒を緩めた。
やはり、品川だ。
観音埼の何気ない言葉に笑い、丁寧に返事をする。
昔と同じ。
けれど、昔と同じだからこそ、剱埼は不安だった。
品川は、観音埼が再建を重ねるたびに変わっていく姿を、誰よりも近くで見てきた。
そして、その変化を誰よりも悲しんでいた。
彼が突然いなくなった時も、観音埼は何度も探した。
「品川くんは、どこにいるの?」
「いつ帰ってくるの?」
その問いに、剱埼は答えられなかった。
だからこそ。
今、目の前にいる品川が本物であることを、剱埼は願っていた。
品川は帳面を開いた。
「……この帳面には、灯台さんたちの古い記録が残されている」
「古い記録?」
「ああ。今の灯台の歴史が整理されるよりも前のものだよ」
品川は、あるページを指でなぞった。
そこには、奇妙な紋章が描かれていた。
響灘で見た、あの灯台の紋章。
「この灯台は、昔から存在していたわけじゃない」
品川は言った。
「少なくとも、僕たちが知っている灯台さんと同じ存在ではないんだ」
「どういうことだ?」
「……この灯台は、失われた灯台の記憶が集まってできたものなんだ」
観音埼が息を呑んだ。
「失われた灯台の……記憶?」
「そう。廃灯になった灯台。災害で失われた灯台。建て替えられ、元の姿を失った灯台。そこに宿っていた存在の記憶が、長い年月をかけて海の底に集まった」
品川は、静かに続けた。
「そして、いつしかひとつの形を持つようになった」
剱埼は眉を寄せた。
「そんなことが、あり得るのか?」
「僕も最初は信じられなかったよ。でも、記録が残っている。何十年も前のものから、もっと古いものまでね」
「……なぜ、それを今まで誰にも話さなかった?」
品川は答えなかった。
ただ、帳面のページをめくった。
そこには、いくつもの灯台の名前が並んでいた。
今も海を照らしている灯台。
すでに廃灯になった灯台。
そして、誰も名前を覚えていない灯台。
それらの名前の横に、同じ言葉が繰り返し書かれていた。
『光、消失』
観音埼は、じっとその文字を見つめた。
「……品川くん」
「うん?」
「この灯台さんたちは、どうなったの?」
品川は、少しだけ目を伏せた。
「……分からない」
「消えちゃったの?」
「そうかもしれない」
「……そっか」
観音埼は、小さく呟いた。
その顔を見て、品川は手を伸ばしかけた。
しかし、その手は途中で止まった。
「……でもね、観音埼くん」
品川は、静かに微笑んだ。
「消えてしまったからといって、最初から存在しなかったことにはならないんだよ」
観音埼は顔を上げた。
「誰かが覚えていれば、その灯台さんがそこにいたことは、なくならない」
品川の声は優しかった。
「僕は、そう思う」
観音埼はしばらく黙っていた。
そして、ゆっくりと笑った。
「……うん。僕も、そう思うよ」
その瞬間。
帳面のページが、ひとりでにめくれた。
三人が顔を上げる。
紙が風もないのに揺れ、最後のページで止まった。
そこには、昨日まではなかったはずの文字が浮かび上がっていた。
七つの光が失われる時、忘れられたものは海より還る。
剱埼が立ち上がった。
「……これは何だ?」
品川の顔から、笑みが消えた。
「……もう、始まっているんだ」
Ⅲ.七つの光
「説明しろ、品川」
剱埼の声が低く響いた。
「七つの光とは何だ。何が始まっている?」
品川は、すぐには答えなかった。
帳面を閉じ、両手をその上に置く。
「……僕にも、全部は分からない」
「全部は?」
「分かっていることと、分からないことがあるんだ」
品川は剱埼を見た。
「ただ、ひとつだけ確かなことがある」
「何だ」
「海の底にいるものは、僕たちの光を求めている。そして、観音埼くんを探している」
「……なぜ、観音埼を?」
「それは――」
品川が言いかけた時。
観音埼が、突然立ち上がった。
「……あれ?」
「観音埼くん?」
品川が顔を向ける。
観音埼は、自分の胸元を押さえていた。
「何か……聞こえる」
「何が聞こえるんだ?」
剱埼がすぐにそばへ寄る。
観音埼は目を閉じた。
「……海の音」
室内は静かだった。
窓は閉じられている。
ここは海の近くとはいえ、波の音がはっきり聞こえる場所ではない。
それなのに。
観音埼には聞こえていた。
波が砕ける音。
船の軋む音。
誰かが泣いている声。
そして。
『……観音埼』
聞き覚えのない声が、名前を呼んだ。
『観音埼……』
「……誰?」
観音埼は、震える声で尋ねた。
『お前は、まだ覚えているか』
「……何を?」
『我らが、何を守っていたのか』
観音埼の目の前に、景色が広がった。
暗い海。
古い灯台。
その周囲に集まる、いくつもの光。
今よりも大きな姿をした自分。
隣には、剱埼がいた。
そして、その少し後ろに、品川が立っていた。
皆、今とは違う姿をしていた。
けれど、笑っていた。
まるで、ずっと昔からそこにいたかのように。
『観音埼』
声が、再び響く。
『約束を、忘れたのか』
「……約束?」
観音埼が一歩踏み出した。
「僕、何を約束したの?」
その瞬間、景色が崩れた。
古い灯台が倒れる。
光が砕ける。
海面が黒く染まる。
そして、無数の手が、暗闇の中から伸びてきた。
『返せ』
『返せ』
『我らの光を』
観音埼は息を呑んだ。
「……っ!」
「観音埼くん!」
剱埼が肩を掴んだ。
その声で、観音埼は我に返った。
気づけば、床に膝をついていた。
剱埼が、心配そうに顔を覗き込んでいる。
品川は立ち上がり、観音埼の前に膝をついた。
「……観音埼くん。大丈夫?」
「……うん」
観音埼は、ゆっくりと頷いた。
「でも、今……」
言葉が続かない。
何かを思い出しかけた。
けれど、手を伸ばすたびに、それは遠ざかってしまう。
「……ごめんね」
観音埼は、俯いた。
「僕、何も覚えていないんだ」
その言葉を聞いて、品川は静かに首を振った。
「謝らなくていいよ」
「でも……」
「大丈夫」
品川は、観音埼の手を握った。
「今度は、僕が覚えているから」
その言葉に、剱埼が目を細めた。
「……品川」
「うん?」
「お前は、何を知っている?」
品川は観音埼の手を離し、ゆっくりと立ち上がった。
そして、剱埼をまっすぐに見つめた。
「……僕は、あの灯台を知っている」
「海の底の灯台か」
「うん」
品川は、窓の外を見た。
「そして、あの灯台が何を望んでいるのかも」
「……何を望んでいる?」
品川は、静かに答えた。
「帰りたいんだよ」
その声は、ひどく悲しかった。
「自分が何者だったのかも分からなくなって、それでも、帰る場所だけは忘れられずにいる」
剱埼は黙っていた。
品川は続けた。
「……あの灯台は、悪意だけで動いているわけじゃない」
「だからといって、船幽霊を放置するわけにはいかない」
「分かっているよ」
品川は頷いた。
「だからこそ、観音埼くんが必要なんだ」
その瞬間、剱埼の表情が変わった。
「……何だと?」
「観音埼くんにしかできないことがある」
「ふざけるな」
剱埼は、品川の前に立った。
「観音埼を危険に巻き込むつもりなら、俺は許さない」
「剱埼くん」
「こいつは、もう十分に失っているんだ」
剱埼の声が震えた。
「再建を繰り返して、記憶も、性格も、昔の姿も。本人が望んだわけでもないのに、何度も変わってきた」
観音埼は、目を見開いた。
剱埼は、拳を握り締めた。
「……これ以上、こいつから何かを奪うな」
品川は、しばらく黙っていた。
やがて、ゆっくりと頭を下げた。
「……ごめん」
その声は、心からのものだった。
「君の言うとおりだ。僕は、観音埼くんに何かを強いるつもりはない」
品川は顔を上げた。
「でも、何も知らないままでは、きっとまた同じことが起きる」
「……」
「だから、せめて知ってほしいんだ。何が起きているのか。何を忘れてしまったのか」
剱埼は答えなかった。
観音埼は、二人の顔を交互に見た。
そして、小さく手を挙げた。
「……あの」
「観音埼くん?」
品川が振り返る。
観音埼は、不安そうにしながらも、まっすぐに二人を見つめた。
「僕、知りたい」
剱埼が息を呑んだ。
「観音埼……」
「怖いよ。何も覚えていないのも、知らないことがたくさんあるのも」
観音埼は、自分の手をぎゅっと握った。
「でも、誰かが困っているなら……僕にできることがあるなら、知りたいんだ」
そして、品川に向かって笑った。
「だから、教えて。品川くん」
品川は、しばらく観音埼を見つめていた。
やがて、いつもの穏やかな笑顔を浮かべた。
「……うん」
彼は、鞄からもう一枚の紙を取り出した。
それは古い海図だった。
日本の海岸線が描かれ、その上に七つの印が記されている。
響灘。
瀬戸内海。
伊勢湾。
東京湾。
そして、残る三つの海域。
それぞれの印には、青白い光が灯っていた。
ただし、そのうちのひとつだけは、すでに暗くなっていた。
「……これは?」
剱埼が尋ねる。
「七つの光の位置を示す海図だよ」
品川は、指先で暗くなった印をなぞった。
「そして、これは――」
その時。
暗くなっていた印が、音もなく消えた。
三人は息を呑んだ。
品川の顔が、青ざめる。
「……そんな」
海図の上に、文字が浮かび上がった。
『第一の光、消失』
観音埼は、震える声で尋ねた。
「……品川くん。これって……」
品川は答えなかった。
ただ、海図を見つめていた。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう、時間がない」
Ⅳ.海の底から届く手紙
その日の夕方。
船幽霊対策本部には、再び緊急連絡が入った。
発信元は、響灘・玄界灘支部。
報告内容は、短いものだった。
海底にて異常な光を確認。
船幽霊の出現は確認されず。
ただし、海底に存在していた未確認の灯台が、完全に消失した模様。
部埼は、報告書を机に置いた。
「……消失した?」
六連島が、隣から覗き込む。
「この前の灯台さんが?」
「ああ」
部埼は、眉間に皺を寄せた。
「船幽霊が消えたわけでもない。灯台の姿だけがなくなったらしい」
「……どういうことだろう」
「分からん」
部埼は窓の外を見た。
海は穏やかだった。
あの夜と同じように。
けれど、何かが確実に変わっている。
その時、部埼の懐中時計が、再び音を立てた。
午前二時十三分ではない。
夕方の、まだ明るい時間だった。
それなのに、秒針が逆回転している。
部埼は時計を開いた。
文字盤の隅に、見覚えのない文字が浮かび上がっていた。
『ひとつ、帰った』
部埼は息を呑んだ。
その直後、窓の外で、海面が青白く光った。
ほんの一瞬。
まるで、誰かが遠くから手を振ったかのように。
部埼は懐中時計を握り締めた。
「……帰った、だと?」
それは、誰が。
どこへ。
何のために。
答えは、まだどこにもなかった。
ただひとつだけ、確かなことがあった。
海の底にいた灯台は、もういない。
そして、品川の海図からも、ひとつの光が消えた。
それが救いなのか、災いなのか。
今は、誰にも分からなかった。
Ⅴ.約束
夜。
ヴェルニー灯台の一室で、観音埼は窓辺に座っていた。
品川は、別室で古い記録を整理している。
剱埼は、扉の外で見張りをしていた。
観音埼が眠るまで、そばを離れないつもりらしい。
「……剱埼さん」
「何だ?」
扉の向こうから、すぐに返事があった。
「品川くん、明日もいてくれるかな」
少しの沈黙。
「……ああ。いるだろう」
「そっか」
観音埼は、ほっとしたように笑った。
「よかった」
剱埼は、扉に背を預けた。
「……観音埼くん」
「なあに?」
「お前は、何も心配しなくていい」
「……うん」
「何が起きても、俺がそばにいる」
観音埼は目を閉じた。
「ありがとう、剱埼さん」
その声は、眠気に溶けていく。
しばらくして、規則正しい寝息が聞こえ始めた。
剱埼は、ようやく肩の力を抜いた。
けれど、安心したわけではない。
海底の灯台。
失われた七つの光。
そして、品川が隠している何か。
気になることは山ほどある。
それでも、今夜だけは。
観音埼が眠れていることを、喜びたいと思った。
その頃。
別室では、品川がひとり、机に向かっていた。
古い帳面を開き、消えた第一の光に関する記録を探している。
けれど、どのページにも答えはない。
ただ、最後のページにだけ、見覚えのない文字が増えていた。
第一の光は帰った。
第二の光は目覚める。
第三の光は、すでに人の手の中にある。
品川の指が止まった。
「……人の手の中?」
彼は、ゆっくりと顔を上げた。
窓の外には、夜の闇が広がっている。
その向こうに、海がある。
品川は、長い間その暗闇を見つめていた。
そして、誰にも聞こえない声で呟いた。
「……まさか、もう見つけていたのか」
帳面の上で、文字がひとつ増えた。
『観音埼は、約束を思い出す』
品川は、目を閉じた。
「……ごめんね、観音埼くん」
その声は、かすかに震えていた。
「本当は、もっと早く会いに来るべきだった」
机の上に置かれた天球儀が、静かに回り始める。
星の中心には、ひとつの光。
それは、山奥から見えるはずのない海の光だった。
そして、その光のそばに。
もうひとつ、小さな影が立っていた。
品川は、立ち上がった。
「……急がないと」
彼は帳面を閉じ、窓の外を見た。
「今度こそ、間に合わせなきゃ」
遠い海の底で、何かが目を覚ました。
それは、かつて灯台だったもの。
誰かに忘れられ、誰かを忘れ、それでも帰る場所を求め続けた存在。
そして今、その存在は。
観音埼の夢の中で、ゆっくりと目を開けていた。
『……約束だよ』
声が、海の底に響いた。
『今度こそ、僕たちを忘れないで』
次回・第四話「瀬戸内海、境界線の異変」
響灘の事件から数日後。
瀬戸内海でも、異常な現象が起こり始める。
潮流を知り尽くした蒲生田岬が、海の流れの中に「存在しない潮」を見つけたのだ。
一方、紀伊日ノ御埼は、蒲生田岬のそばを離れようとしない。
「……蒲生田岬くん。今夜は、私のそばにいてください」
「えっ? いや、調査が……」
「お願いします」
いつもと変わらない、柔らかな笑顔。
けれど、その手は蒲生田岬の袖を強く握っていた。
その頃、友ヶ島は海図を見つめ、静かに呟く。
「……この潮の流れ。まるで、誰かが境界線を越えようとしているようですね」
そして海の底から、再び声が響く。
『第二の光を、返して』
瀬戸内海の境界で、忘れられた過去が動き始める。
――その潮は、どこへ向かうのか。




