第九話 Side.黒井白帆➂
「白帆、あなた冷蔵庫にスマホ忘れてるわよ?」
「ごめん母さん。それは忘れたんじゃなくて、わざとだから気にしないで」
学校から帰ってすぐに、ジップロックに入れて冷蔵庫の一番上の棚に放り込んだソレを、目敏い母さんに早速見つかってしまった。
「……わざとって、随分変わった事するわねぇ」
「夏休み中はずっとそこにあると思うから、起こさないようソッとしておいてくれると助かる」
「誰も起こさないわよ…でも帰ってきたらお父さんもビックリするでしょうね」
「その時はまた説明するから」
挨拶もそこそこに、真っ直ぐキッチンに向かって制服のまま何かガサゴソしている姿を怪しく思われたのか、二階に向かう私の背後で、そーっと扉を開けて中を確認した母は、とても呆れた表情をしていた。
「今度は何に影響されたのよ…」
「ブレーズ・パスカル」
「誰よそれ…」
私の奇行は今に始まった事ではないし、何か哲学書を読んではこのように突飛な行動をする事が多々あるから、これから帰ってくるであろう父もきっと、そこまで驚きはしないだろう。
『どこの誰よ、また娘に変な事を吹き込んだのは…』と、母は300年以上前の時代を生きた偉人に苦情を入れていたが、パスカルにしてみれば言いがかりも甚だしいといった所だろうか?
まあ、現代に至るまで様々な哲学書に名を残した偉人であるから、きっと大人の対応はしてくれると思うが、もしも優雅に過ごしている場所にまで母の声が届いてしまったならば、その返答は私にしてくれると有難い。
工場作業員のオジサンだった記憶を持って生きている私に、全ての責任があるのだから…
(しかし、どんなに知識を蓄えても精神だけはなかなか成熟しないものだな…)
───と、すっかり成長期の止まった身体で家の階段を静かに上がる。
身長は既に165を越えていて、前世の私と同等くらいの大きさで、胸も足も腕も、どうやったらこんな綺麗に偏った栄養の行き渡り方がするのだろうかと、軽い体重と比較して疑問を膨らませるばかりだ。
(見た目だけ、見た目だけは立派な娘なんだよなぁ…ホント母さん達には申し訳ないけど…)
普通の娘でなくてゴメンと、かなり変わった娘でゴメンと、折角の夏休みを家族皆で本物の海で過ごせなくてゴメンと、ぐるぐると謝罪の言葉を巡らせながら部屋の前まで辿り着いた私は、生まれ変わっても抜けない引きこもり体質を引き摺ったまま、そっと部屋の扉を開けて知識欲の渦に飲まれていったのだった…
パタン……
▼
私が今世こんなにも知識を渇望するのは、前世のような生き方はしたくないからだ。
歳を重ねて大人になって働く順番が来た時に、苦しい選択肢しか選べない前のような生き方をしたくないからだ。
「過失は恥じるべきだが、過失を改めるのは恥じるべきではない…か」
ちょうど机の上で開いていた哲学書のある1ページに、そんな言葉が記されていた。
18世紀のフランス啓蒙時代に活躍した思想家・哲学者ジャン=ジャック・ルソーは、失敗すること自体は反省すべきであるが、それに気づいて素直に正す事は立派であり、恥ずべき事ではないと説いている。
「……幅広く考えるとなかなかに難しい言葉だけどね」
人は生きていれば必ず何かしらの過ちは犯すし、何かしらの失敗はする。
それは大小様々な事例があって、もしかしたら事件性があったり直す事が出来ない過失だってあったりするから一概には言えないけども、だけど私達が普通に生活する上での過ちは、素直に反省して正す事はいつだって可能であるのだ。
やってしまったと自暴自棄にならず、そこで踏ん張って前に足を動かさなければ、私のように取り返しがつかなくなってから後悔するようになる。
「生まれ変わり」なんて、誰にでも訪れる奇跡ではないし「前世の記憶がある」なんて、何億分の一の確率だ。
ゲームのようにコンティニューは効かないし、小説のように「転生したら」はやっぱり訪れない。
私達は今の自分達の人生を、拳を握って奥歯を噛んで震える脚で踏み締めて、転んでも倒れても前を向いて歩いて行かなければならないのだ。
故に、完璧そうに見える今の私は、前世の過ちを改善した結果だ。
確かに見た目や運動能力は天から与えられた産物に甘えている現状であるが、知識や品性は自分で補った物だと理解して貰いたい。
私をよく「黒井さんは良いなあ…」と言う倉敷さんにこそ、この事を理解してもらいたいのであるが、今を生きる彼女に真の理解を求めるのもまた酷であるというものであろうか…
「……倉敷さん、今頃は何をやってるのかな?」
───ふと、そんな事を思った私が机の上に置かれた電波時計を見ると、日付は変わって翌日の朝6時になっていた。
窓から差し込む朝日に気付いた私は、夜通し哲学書を眺めていた現実に激しく打ちのめされ、夕飯は食べた記憶があるがお風呂に入り忘れていた自分に、ほとほと嫌気が差したのだった…
「は、初めての風呂キャン…不味いこのままでは前世と同じになってしまう…」
仕事の忙しさを言い訳にして、清潔感を投げ捨てていた彼のようにはなりたくないと、今世は厳しめに生きてきたのだが、知識の海を泳いでいるうちに温かい浴槽に浸かる事を忘れていた私は、まさしく本末転倒であるとガックリと肩を落とした後、立ち上がった。
バタバタ ガチャン
「ゴメン母さん、お風呂入るから沸かしていいかな?」
「今から? 洗濯しようと思ってた所なのに…それに昨夜お父さんが入ってそのままよ?」
「私はソコは気にしないから大丈夫」
時間が経つと雑菌が増える為、入浴後すぐに残り湯を使うのが基本であるが、私が昨日入るのを忘れていたから、洗いの工程が翌日になったのは仕方ない。
勿論すすぎには綺麗な水道水を使うけれど、広い家に住んでるのに節約好きな母は、こういう所はマメなのだ。
「あ、あと上がったら私、少し出掛けてくるから」
「昨日と言ってること違うじゃない」
「〝過失は恥じるべきだが、過失を改めるのは恥じるべきではない〟のですよ、お母さん?」
「また意味の分からない事を……」
知識の海を泳ぐのも結構であるが、そこに溺れていたのでは、せっかくの過去の財産が失われてしまう。
他人より多く失敗談を持っている私は、それを踏まえて今を生きる術があるのだから、パスカルには悪いが、静寂や孤独は案外お腹いっぱいであったから、その有意義な時間はここで終わりにするとしよう。
ピッ トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル…
ブチッ
ピッ トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル…
ブチッ
ピッ トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル……
「な、なかなか出ないな……」
それから風呂上がりにタオルで髪を乾かしながら、冷たいスマホで倉敷さんに電話を掛けたのだが、彼女が出てくれたのは10回目の着信時で、慌てた対応をする彼女に、ついつい『嫌われてしまったのかな』と下らない弱音を吐いてしまった。
(まあこれも、1つの経験という事で…)
……因果応報であるが、これもまた1つの良い経験になったのではないかと、学んだばかりのジャック・ルソーの言葉を借りてプラスに考える事にした。




