第八話
八月第二週目、世のお父さん達がお休みに入る前のお盆休みの直前に、私達の学校は世間より少し遅れて夏休みに突入した。
「明日から夏休みですねぇ、他校に比べれば少し短いですけど」
「それでも八月いっぱい、約4週間は休めるんだ。私からしたらじゅうぶん過ぎるくらい贅沢な期間だよ」
終業式を終えた帰り道、相変わらず右隣を歩く黒井さんに歩道橋の階段を降りながらそんな愚痴を漏らせば、前世の記憶がある彼女に考えが甘いと、ピシャリと窘められてしまった。
「そもそも、お盆休み事態を貰える会社の方が今は少ないんだ。世間一般的な指標は分からないけど、私の父も倉敷さんのお父さんも、随分と恵まれた環境で働いているなぁと、個人的には思うよ」
「……工場勤務には無かったのですか?」
「殆どないね。受注発注が安定しない小規模な会社はどこも休みが不安定だったし、休日出勤は当たり前で、カレンダーに記される祝日がいったい何の日か殆ど不明だった。募集要項にある平均労働時間なんて真っ赤な嘘で、少なくとも私が働いていた会社では、お盆休みなんていうワードは禁止用語に近かったりもしたよ」
「な、なんだか刑務所みたいな環境ですね…」
「そう比喩されていた事もあったね」
「な、なるほど…」
今日は午前中で1日の予定は終了で、部活動や生徒会活動がある特別な生徒以外は完全下校の態勢となっている。
私と黒井さんのような、どこにも属さない一般ピーポーは、垂直90度の真上にある太陽の下を歩いて帰らねばならないという贅沢な悩みに苦しんでいるという訳だ。
「と、ところで黒井さんは休み中、どこかに出掛けるとか、何か予定があったりするのでしょうか?」
「特にないさ、でも強いて言うなら今年の夏は、退屈な時間を満喫しようかなと思っていてね…」
「え? そ、それってつまらなくないですか?」
「うーん…少し前までの私なら倉敷さんと同じような結論に至ったんだけど…」
階段を降りきった所で一息ついた私は、同じように『ふうっ…』と息を吐いて額にかいた汗を拭う黒井さんに、話題を変える意味でも休み中の予定を聞いてみた。
「……これは最近学んだ言葉なんだけど『人間の不幸のすべては、部屋に静かにじっと座っていられないことから起こる』っていうのがあってね」
「部屋で静かに、ですか?」
「うん、17世紀フランスの数学者であり哲学者のブレーズ・パスカルが言うには〝人間は自分の内面に向き合うのを恐れ、退屈から逃れるために気晴らしを求めて自ら不幸を招いている〟らしいのさ…」
「えっと、つまり…?」
「つまり私達は、SNSやスマートフォンを活用して、絶えず情報を浴びて気を紛らわせようとしては、ドツボにハマるという現象を繰り返しているってコト。知らなくていい情報に身を委ね、他人の欠点を記事にした文を眺めては、私は彼らよりはマシだなと、一歩も前に進めず暗い部屋でほくそ笑む不幸な日々を送っている訳さ…」
黒井さんは珍しく右側から私に向き直り、普段ならあまり見せない筈の黒側を覗かせながら、不思議な夏休みの抱負を語り続ける。
「孤独や静寂に耐えられず、退屈や不安から逃れるために常に何かを求めて動き回っては、 絶えず気を紛らわせ続けることで、自分の本音や本当に大切な価値観を見失いやすくなっているのが今の私達なんだ」
「本音さえも情報によって、書き換えられてしまうと…」
「そうその通り。自分が欲しい情報ばかり目にしていては、大切な良心さえも見失ってしまうってワケ。これを『内省の欠如』といって、他責思考ばかりが育ってしまう要因となり現代社会では大きな問題となっているんだ」
「はあ、なるほど……」
相変わらず難しい事を言う黒井さんに、あまり頭が良くない私は似たような相槌を打つので精一杯だ。
この前の期末テストだって、ギリギリ半分より上くらいだったし、どうやったら彼女のように絶えず色んな情報を頭に入れられるんだろうと、スカスカの頭の下にある首をかしげてしまう。
「まあつまり今年の夏、私は部屋で1人静かに哲学の海に潜ろうかと思ってね。静寂の敵であるスマホを冷蔵庫の中に放り込んで、黙々と知識を蓄える事は、退屈からの回避を嫌うパスカルも許してくれるんじゃないかと思ってさ…」
───そう言って、黒井さんは再び正面に向き直り、私に白側しか見せないまま真っ直ぐ前に歩き始めた。
暫し呆然と佇む私を置き去りにして、せっかく夏休み暇だったら一緒に遊ぼうかと思っていた私を置き去りにして、スタスタと知識の海を目指して歩いて行ったのだ…
(……まあ仕方ないか、だってあの黒井さんだし)
だって休み時間、私が話しかけない限り常に哲学書を読んでいる黒井さんは、いつも話しかけづらいオーラを放っていて、ついこの間勇気を出して告白した彼も未だ声をかけられずにいる訳だから…
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トゥルルル、トゥルルル、トゥルルルー……
───それは、夏休みが始まってまだ二日目の午前中の出来事であった。
「姉さん、電話鳴ってるよ? 出なくていいの?」
「どうせイタズラ電話でしょ、無視無視」
居間のソファーに座って弟と共に高校野球を見ていた私のもとに、テーブルに置きっぱなしのスマホから1本の着信が鳴り響いた。
掛けてくる友達もいないし、どうせ非通知設定からの電話だろうと高を括っていた私は、九回裏の緊迫した場面を優先して無視をしたのだ。
……トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル
ブチッ
……トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル
ブチッ
……トゥルルル、トゥルルル、トゥルルル
「……姉さん、本当にイタズラ電話なの? なんかおかしいよ…見てきた方が良いんじゃない?」
「えー……」
営業やイタズラにしては、あまりにも何度も鳴り響く着信音に、弟から心配の声が上がり、私は仕方なくソファーを離れ、食卓の上にあったスマホを取りに行った。
「……げっ、黒井さん…なんで?」
手に取ったスマホにある着信相手の名前を見てブルブルと震える。
掛かってきた着信回数は合計で9回、あとワンコールでゲームセットとなってしまう中、私は最後に鳴った着信音で直ぐに電話に出た。
トゥルル ピッ
「は、はい倉敷です! く、黒井さん御免なさい! イ、イタズラ電話だと思ってまして…すみません!!」
『───なあ倉敷さんって…もしかして私の事キライなのかい?』
……知識の海に潜り込むと言っていた黒井さんは、どうやら早々に孤独と静寂に耐えきれなくなってしまったらしく、その後の通話で『生身の友人と対話する事は悪ではない』と、パスカルさんが説いた台詞に補足を加えていた。




