第十話
───これは私達の生活を支えてくれるお父さん達の一時のリフレッシュ期間が過ぎた後の出来事です。
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八月三週目の週末日曜日、その日の早朝に家族旅行から帰って来た私は、不衛生にも私服のままベッドで転た寝をしてしまった後、起きて直ぐに枕元にあったスマホから電話をかけたのです。
ピッ トゥルルルー……
時刻は午後4時を回っていて、暗くなるにはまだ早い時間帯です。
モゾモゾとベッドから起き上がった私は、手に取って見たスマホに、この一週間なんの履歴も残ってないのが寂しくなって、夏休み二日目に家に遊びに来て弟と『魂の10先』を繰り広げて以来、なんの音沙汰もなかった黒井さんが恋しくなって、相手の都合も考えず無造作に電話をかけてしまいました。
いつもは必ずLIMEで「都合はいいか」聞いてから電話をかけるのですが、この日の私は何故かそこまでの考えに至らずに、ぼんやりとした頭でただ彼女の声が聞きたくて通話ボタンを押してしまったのです。
トゥルルル、トゥルルル、トゥルルルー……
「急すぎたかな…もしかしてまだ旅行から帰って来てなかったり?」
なかなか繋がらない電話に不安が増して、耳元で繰り返されるコール音が、この日はとても煩わしく感じました。
黒井さんもお盆休みは家族で旅行に出掛けると言っていたから電話が繋がらなくても仕方ないのですが、耳元で鳴り続ける機械音に「早く優しい黒井さんの声を聞かせてよ」と、ついつい苛立ちを募らせてしまったのです。
聞きたいのはこんな機械的な音ではなくて、いつもの落ち着いた黒井さんの声なのに、聞いてるだけで安心出来るような優しい声なのにと…
急に掛けた私がもちろん悪いのですが、この日の通話回線は酷く意地悪なように感じました。
───ピッ
『───ザザ…もしもし、倉敷さんかい?』
「え、あ、はい。私です」
『久し振りだね、どうしたんだい急に? 何か用事でも出来たのかい?』
「い、いえ…ただ単純に、黒井さんの声が聞きたくて…」
『ザザザ…ははっ、嬉しい事を言ってくれるね』
いつもはクリアに聞こえる黒井さんの声が、どうしてか今日は雑音混じりで、もしかしたらまだ旅行から帰ってなくて、電波の悪い車内で私の電話を受けているんじゃないかと不安に感じました。
「あの、もしかしてまだ家に着いてなかったりしますか?」
『ザザ…いや、家だよ。屋内から電話を受けているよ』
「そ、そうですか…」
『うん……サ、ザザ…』
私が言う事に対して普段ならキッパリハッキリ答えてくれる彼女ですが、この日の黒井さんはなんだか様子がおかしかったのです…
歯切れが悪く、濁すように、煮え切らない感じで、話しているこちらが不安になるような受け答えばかりを並べてきました。
「りょ、旅行はどうでしたか? 楽しめましたか?」
『…ザザ……うん、いつものオドオドした情けないクラスメイトが隣にいなかったからね。存分に羽を伸ばせて楽しめたよ。奈良の鹿は可愛かったなぁ…ザザザッ』
「え? あの、それってどういうー……」
ついでにどう考えてもそれって私だよねと思うような酷い言葉も…
だって、黒井さんがクラスで話す人は私しかいなかったし、どんなに言葉を濁して固有名詞を避けても他に思い当たる人物はいなかったから…
「……私、何か黒井さんの気に障るような悪いことしましたか?」
『ザザザ……いいや何も? 何もしてないさ倉敷さんはただいつも通り。だけど私の機嫌が今日はたまたま悪かった。ただそれだけだよ…』
「りょ、旅行先で何か嫌な事でも?」
『ないね、旅先は非常に楽しかった。母さんとも女同士二人で色んな話をする事が出来たし、父さんからは普段は聞けない会社の悩みを聞けて、非常に有意義な旅行となったよ』
「じゃ、じゃあどうして…」
『そんな幸せな気分をぶち壊す誰かさんからの急な電話が非常に不愉快だったってだけだよー……ザザザザザ』
「そ、そんな…ごめんなさい」
耳に当てたスマホを持つ手はとても冷たく震えているのに、目頭は熱くなって、堪えていた涙が溢れて止まりませんでした。
親友だと思っていた人に、とても冷たい言葉を投げ掛けられた私は、もうどうなってもいいやって思って、この電話を最後にしようと思って、梅雨が明けてからの約二ヶ月の間、たくさん教えて貰った哲学の話を最後にもう一度聞きたくて、唇を噛んで問い掛ける事にしました。
哲学に例えるなら、今の黒井さんの心境はどんな感じなのかなって…
「最後に…教えて下さい。たくさん聞いてきた哲学の話が私は大好きでした。だからこれで最後でいいので、私に教えて欲しいのです。今の状況を表す誰かの言葉を…」
『ザ、ザザザ、ザザザザザー……哲学? なんだいそれは? て、哲学とはいったい何の事を言っているんだい…ザザザ、ザザザザザ』
「───え? あ、あの…あなたいったい誰でー……」
ブツン、トゥー、トゥー、トゥー、トゥー……
最後に投げ掛けた質問に、黒井さんらしき人は答える事が出来ませんでした。
あの哲学大好きな黒井さんの口から、なんの名言も格言も、語られる事はなかったのです…
「……だ、誰だったんでしょう? 今のは…」
狐につままれた様な感覚で、暫し呆然と虚空を見つめていた私は、それ以上スマホから誰かに電話をする事は出来なかったのです…
───以上がお盆休み最終日に、私が体験した不思議な出来事でした。
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───後日、正真正銘の生身の黒井さんが再び遊びに来た時に、この時の事を聞いてみた。
「……19世紀のドイツの哲学者にアルトゥル・ショーペンハウアーという人がいてね、彼が言うには『人間の社交本能も、その根本は何も直接的な本能ではない。つまり、社交を愛するからではなく、孤独が恐ろしいからするのである』らしいのさ」
「えっと、つまり…?」
「つまり、倉敷さんが掛けた相手は孤独を恐れる君の心に忍び込もうとした肉体なき誰かかも知れないってことさ、1人が寂しいから誰か話し相手が欲しくて、普段なら気にしない筈の着信履歴を見て落ち込んでた君の元に、この子なら容易く仲間に出来るだろうと考えた実体なき誰かかも知れないってわけ…」
「それって、幽霊……」
「さてね? 生憎と私には霊感までは備わってないから具体的には言えないけども、お盆の時期にそんな思いで電話を掛けたなら、奇妙な誰かに繋がってしまうのも考えられなくはないだろうね…」
───と、生身の黒井さんはツラツラと、いつものように持ってる知識をあらん限り披露してくれた。
私が聞きたかった哲学の話をこれでもかと…
「……黒井さん、今日は泊まっていきませんか?」
「やだよ、だってそうしたら同じ布団で寝なきゃいけなくなるじゃないか」
冷たい態度は電話口の誰かと同じだったけど、だけどこの黒井さんはやっぱり温かみのある優しい人で、持ってきた鹿せんべいをポリポリ食べながら顔を背けて恥ずかしがっていた。




