第五話 Side.黒井白帆②
ザアアアアアアー……
7月終盤、もうすぐ本格的な夏がやってくる季節に、まだしぶとい梅雨残りが下校時刻直前に降ってきた。
過去の記憶と照らし合わせても、こんなにしぶとく乱層雲は残ってたかなぁと思うのだが、人の記憶は都合の良いように書き換えられてしまうから断言が出来ないのが口惜しい所だ。
「……倉敷さんが戻ってくるまで暇だな」
下駄箱まで二人で移動して、共に傘を開いて『さぁ帰ろうか』という時に、私のおっちょこちょいな親友は、教室にスマホを忘れたと慌てて戻っていった。
頭をペコペコ下げながら廊下を走っていった親友の後ろ姿は非常に愛らしくて、私の前世がオジサンだったと知る彼女の前では、決して大きな声では言えないけれど、邪な感情を抜きにした純粋な感情で、小動物のような倉敷さんを彼女の弟と同様に愛でたいと、ついつい思ってしまう。
「一般的な梅雨明けは今も昔も、大きく見積もって7月中旬から8月上旬の間か…やっぱり人の記憶はあんまり当てにならないものだな…」
空いた時間にスマホを覗いてしまう癖は、やっぱり生まれ変わった今でもなかなか抜けない。
どんな依存性のある薬物よりも中毒性の高い道具を作り出した人物は、人類史上最高の冒涜者ではないかと思いながら、それに頼る私もまた同類だなと自虐し苦笑してしまった。
「あ、あああ、傘…私の傘がない。どうしよう…」
───そんな時ふと、昇降口の出口で雨を凌ぎながら倉敷さんを待つ私の耳に、あまり好きでない右側から暗い声が届いてきた。
手に何も持たずオロオロする少女は、眼鏡を掛けた大人しそうな雰囲気で、前に降り注ぐ大粒の雨を見ながら絶望して、この世の終わりのような顔をしている。
他人に干渉すれば、その人の悩みも同時に抱え込む事になる。
倉敷さん同様、信じられそうな瞳をしているが、側に置くには些か精神が不安定過ぎるように思えた。
「あのさ…」
「は、はい?」
声を掛けてしまえば繋がりが出来てしまうのに、眼鏡の奥の瞳に、降り注ぐ雨に負けないような雫を溜めた少女を見て、懲りない私はついつい声を掛けてしまったのだ。
「傘、見付からないのかい?」
「ええっと…はい。朝は確かに持ってきた筈なんですけど、きっと誰かがわざと持っていったんです…」
お人好しな癖もまた、なかなか抜けないようだった…
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「───誰かに虐められてるとか、そういうのだったりするのかい?」
「い、いえ…特に心当たりは…でももしかしたら私の知らない所で誰かが私を嫌っているかも知れません」
少し時間を置いてから名前も知らない少女に、核心を突いた質問をする。
スカーフの色が同じ青である事から、同学年なのは理解出来るが、私の朧気な記憶を辿ってみても、彼女のような人物は同じクラスにいなかった。
「その誰かとは? 見当も付かないのかい?」
「…はい、生憎と。もしかしたら勝手に私が仲が良いと思っていた人かも知れませんし、私という人間が存在するのすら嫌で、精神的ダメージを与えてやろうと画策した誰かかも知れません…」
「誰かが間違えて持っていったかも知れないじゃないか?」
「それはないです。だって、絶対に分かるようにって、大きく太文字で名前をフルネームで書いていましたから…私自身が誤って誰かの傘を持っていかないようにっていう思いも込めて」
「ふぅん、なるほどね…」
相変わらず雨脚は弱まる事なく、一定の強さで降り続けるなか、おっちょこちょいな倉敷さんが戻ってくるまで話を続ける。
少女は悲観的に自分の傘を誰かがワザと持っていったと主張していて、話を聞く限り恐らくそうだろうと推測出来るが、私は些か飛躍し過ぎじゃないかと考えたのだ。
「…因みに〝私達は実際には失っているものよりも、失うのではないかと恐れているもののほうが多い〟という言葉を知っているかい?」
「なんですかそれ?」
「古代ローマの政治家であり詩人、哲学者であったルキウス・アンナエウス・セネカの残した言葉でね、人間は実際に起きた災難よりも、まだ起きていない未来や損失を頭の中で大げさに想像し、恐怖によって自ら苦しみを生み出していると、彼は説いたんだ」
「…つまり、どういう事です?」
「君は失くなってしまった傘よりも、土砂降りの雨のなか帰る事よりも、これから失うかも知れない友人関係の方を危惧して、この場に立ち竦んでいるって訳さ」
「いけないんですか?」
「いいや、それが当たり前だし、私も君と同じ立場だったらきっとその事を想像するだろう…起きていない未来を必要以上に暗く描いて、最悪の事態を想定して自分を守ろうとするに違いない」
「なら、そんな酷い事言わないで下さいよ…私が間違ってるみたいな事言わないで下さいよ」
「ごめん、確かにそうだね…」
辛い時、落ち込んでいる時、誰かに悩みを打ち明けた時、たとえ嘘でもいいから自分を肯定して欲しくなるのが人間というものだ。
欲しいのは叱咤じゃなくて激励で、ムチなんて要らないから欲しいのはただ優しい飴だけで、今日を生きる勇気を貰えれば、それで満足して明日へ進める。
「だけどね、未来を不安がってばかりいて、今をどうでもいいやと、雨の中走って帰るのは私は違うと思うんだ」
───だけど私は、それを分かっていながらも彼女に同調する事をやめた。
『うんうん、そーだね』が欲しいのは分かるけれど、それで背中を押されて前に進んだ所で、気分が晴れるのは翌日のみだと知っているから…
『違うよ、そーじゃない』を何度も言われた。
『誰も君の悪口なんか囁いてないよ』と、何度も聞かされた。
甘い言葉に騙されて出勤して、私を陰から窺う者達がヒソヒソ話している姿を見て、何が真実か分からなくなって、最終的には『きっと自分は頭がおかしいんだろう』という最悪の結論に至った。
気にしすぎ、考えすぎ、悩みすぎ…そんな考えがぐるぐる回って、頭のおかしい私は今を生きる資格が無いんじゃないかと、激しく自分を責め立てるようになった。
「あえて厳しく言うよ。一期一会だけど私を激しく嫌ってくれても構わない。多分恐らく君の傘は誰かが意図的に持ち去った。だけれどそれは悪意のある行為かは今は分からない。もしかしたら君の友人が君ならきっと許してくれるだろうと思って、今より激しい雨の中、謝りながら傘を借りて行ったのかも知れないのだから…」
私が倉敷さんと下駄箱に向かう前に、教室の窓を打つ雨は今より激しかった。
最近では通り雨が殆どだったから、用事か何かがあって先に教室を出たと思われる友人が、傘を借りていった可能性も残されているのだ。
彼女が帰る頃にはきっと止んでるだろうって…
「可能性はあくまで可能性だけどね、悪意ある誰かが盗ったかもしれないけど、だからどうしたって話だ。君はそんな未来を不安視するよりも今をキチンと生きた方が絶対に幸せになれる筈なんだ」
「でも、人に嫌われるのはやっぱり嫌じゃないですか…」
「知ってるかい? 心配事の9割は実際には起こらないって。それだけ悩んでるんだ、明日はきっと晴れる筈だから、この傘を持って帰りなよ」
スッと差し出した傘を見て、名も知らぬ少女はとても驚いた顔をしていた。
何度も傘と私の顔を交互に見て、本当に良いのかと、口をパクパクさせながらお伺いを立ててくる。
「……心配要らないよ。私はこれから来る友人に入れてもらうから」
「で、ですが…」
「いいから。ただそうだね…後日傘を返す時には、私の想像通りだった場合、柄の部分に花丸を書いた紙でも貼ってもらえると助かるかな? やっぱり私も先がどうなったか気になるしね」
差し出した傘をおずおずと受け取った少女は、そのまま何度も頭を下げて、土砂降りの雨の中を帰っていった。
少女が見えなくなったのを確認してから、私は持っていた鞄の面積と自分の肩幅を見比べて、明日はきっと風邪を引くことになるだろうなと、やや諦め気味にため息を吐いた。
「はあ……」
「……何を一生懸命、鞄と自分を見比べてるんです? 黒井さん?」
「え? あ、戻ってたのかい倉敷さん」
「あんな事言っておきながら、まさか自分は土砂降りの雨のなか何も差さずに帰る気じゃないでしょうね?」
「いや、だって…私は前世オジサー……」
「関係ないです! ほら、1つの傘で一緒に帰りますよ!!」
必死に鞄を頭上に構える練習をしていた所に、いつから聞いていたのか分からない倉敷さんが現れて、有無を言わさずズンズンと、私の腕を掴んで歩き出した…
「ふんふん、ふーん♬」
「う、嬉しそうだね…」
「ええ、とっても♪」
肩がぶつかり合う距離で、土砂降りの雨の中を1つの傘の下でゆっくりと歩く。
左隣には御機嫌そうに鼻唄を歌いながら歩く倉敷さんの姿があるけれど、こうして誰かと1つ傘の下で歩く事は初めてだった私は、早鐘のように鳴る心拍数を抑える事に必死だった。
(…まったく、だから他人に干渉するのはほどほどにしておくべきなんだ。結果、自分が泥を被る結末になる事が殆どなんだから……)
ザアアアアアアー……
───後日、傘立てに花丸の付いた私の傘が戻されていて、それを見た私はほんの少しだけ溜飲が下がったのだ。




