第二話 Side.黒井白帆➀
黒側の私を見ると、ついつい過去の記憶に引っ張られそうになる。
小さな工場で働いて年下の上司にペコペコ頭を下げていた情けない彼は、春の健康診断で胃に異常が見つかって、そのまま余命一年の胃癌で命を落とした。
「白帆あなた、まだその癖抜けないのね?」
「今日こそは少しは白くなってるんじゃないかと思ってさ」
登校前の時間帯に、同じ住宅街に住む倉敷美桜が訪れて家のチャイムを鳴らす前に、特に身嗜みをチェックする訳でもなく30分以上洗面台の鏡と睨めっこするのは、私の毎朝の恒例行事だ。
毎日毎日、右半分の白い髪が少しでも黒い部分に侵食してくれていないかと、コンマ1ミリも見逃さないようにチェックしている。
「昨日と一緒、何も変わってないわよ」
「そうかな?」
「でも、黒くもなってないから安心しなさい」
「……ありがとう」
そんな私を呆れながらも卑下する事なく宥めてくれる優しい母は、今日も洗濯籠を持ちながら忙しく走り回っていて、先に行った父も含め、両親には既に前世の記憶がある事を報告済みであった。
小学校に上がる前に部屋で読書をしていた時に突然記憶を取り戻し、驚天動地の状態に陥った私は、いても立ってもいられず大慌てで二人に報告しにいった。
『お父さん、お母さんごめんなさい。どうやら私には二人よりも年上の男性の記憶があるようです』とか言って…
リビングで優雅に珈琲を飲んでいた二人は暫く固まっていて、10分ぐらいの沈黙の後カチャカチャとカップを震わせながらソーサーに置いた父が、ゆっくりと私に『ギ、ギフテッドってやつかな…?』と、受け入れ態勢で聞き返してくれた。
特に前世の家庭環境を非難する訳ではないが、今世は随分と恵まれた環境に産まれたなぁと、改めて理解力のある両親に感謝しつつ広い室内を見渡す。
優しくなかった訳ではないが、前世の父は定年過ぎまで働き、母もパートのレジ打ちで家計をやりくりしていて、いつも余裕がなかった。
今より半分ほど狭い家に住んでいた私は一人息子だった。
そして、そんな彼等を助けるべく必死になって働いていたのだが…
「…結局は何も孝行できずに、ただ悲しませる結末に終わってしまったな」
働くだけが全てでないと今になって後悔する。
恋愛や結婚、その先に繋がる子孫繁栄などを案外期待されていたのかもしれないと思うのだ。
口には出さなかったが、もしかしたら私が誰かと幸せに暮らす未来を願ってくれていたのかも知れないと…
給料を入れる度に『いつもご苦労様』と言ってくれていた母は、思い返せばいつも悲しい顔をしていた。
あと一年で継続雇用が満了となる父も『…出ていきたかったら出ていっても良いんだぞ?』と、自分達の保身より私の未来を案じるような台詞を述べていたから、単純に臆病な私が逆に彼等にしがみついていたと言えなくもない。
だって私は『仮に本当に出ていったらあなた達はどうやって暮らしていくんだ』って思いながら過ごしていたのだから、独り立ちする勇気のない心を必死に隠して、悟らせないよう厳重に武装していたに過ぎないのだから…
「だからなんだろうね、これまで私に友人が出来なかったのは…」
そんな思いを常日頃から抱えて生きていた私には、今世でも当然友人など出来る筈がなかった。
それまでも何処か周りにいる子供達が幼稚に見えて仕方なかったが、小学校に入った私はそれに輪を掛けて、一つ上から周囲を見渡すようになっていった。
でもそれは彼等より精神年齢が上だからとかじゃなくて、単純に人の表面上の善意の裏にある悪意が怖かったからだ。
愚かな私は、過去の笑顔で優しく接してくる会社の同僚達の裏の姿を、まだ年端もいかない少年少女達に重ねてしまっていたのだ。
まだ善悪の判断もつかない少女達に。
拗らせに拗らせまくった私は、成長期が止まってから後悔する。
善悪の判断が出来るようになってしまったクラスメイト達を見て、愕然と肩を落とす。
ああ、どうしてもっと早くに声掛けしなかったんだろうって……
だってもっと早くに声を掛けていれば、私という人間の真の味方になってくれる誰かをもっと早く、傍に置けていたかもしれないのに、洗脳とか刷り込みとかそんなんじゃないけれど、地道に友情を育んでいれば真の友人と呼べる人物がもっと早く出来ていたかもしれないのに……
「だから彼女に出会えたのは本当に幸運だった。倉敷さんに出会えたのは、私にとって宝くじに当たるより幸せな出来事だ…」
15年間、無駄に囚われてきたなぁと今世を振り返る。
憂鬱な気分のまま中学生時代を乗り切り、高校生になって出会った前の席の彼女は、本当に本当に大切にしたいと思う。
『オジサンの記憶があるからって、私は何も気にしないですよ?』と、裏表なく答えてくれた彼女は、どんなチートなギフテッドよりも素晴らしい存在なのだから…
───ピンポーン
「白帆、美桜ちゃんが迎えに来たわよ?」
「ああ、うん分かった。今行く」
古代ギリシアのヘレニズム期に活躍した哲学者エピクロスは、世間の目や欲望に振り回されずに、心の平穏を保ちながら小さく静かに暮らすことが真の幸福であると説いた。
───『隠れて生きよ』と彼は言う。
大層な外見を持って産まれた私は、前世で報われなかった分、これ見よがしに歩いても良いのじゃないかと時折思ったりもするが、出る杭は打たれるのが世の常識というものだ。
出過ぎる杭は必ず大きなハンマーで上から叩かれる。
それは横からかも知れないし、案外前からかも知れない。
故に私はただひっそりと、純粋なる親友の影に隠れて今を生きるのだ。
私よりも数段引っ込み思案である彼女の背中を時折押したりするかも知れないが、はたまた傷付く姿を見たくなくて前に躍り出てしまうかも知れないが、だけれど私は恵まれた今の容姿に胡坐をかく事なく今を生きて行こうと思う。
ガチャリ…
「おはよう倉敷さん、今日も暑いね」
「ええ、おはようございます黒井さん。今日の日中は35度を超える猛暑日となるらしいですよ」
朝の涼しい時間帯に少しだけ額に汗をかいた彼女の顔を見ながら、今日もひっそりと『影に隠れて生きていこう』と、純真無垢で引っ込み思案な倉敷美桜に、私は大それた主役の座をお願いしたのだった。




