第十五話
「あの、黒井さん…」
「……なんだい?」
「お箸とお茶碗って、普段どっちの手で持ちます?」
「右で掴むのが箸で、左で持つのがお茶碗だよ」
「そうですか…」
「そうだよ…」
九月某日午前七時、いつも通りに家を出て、黒井さん家の呼び鈴を鳴らして、出てきた彼女と共に学校に向かっている私は、なぜか左側を歩く黒井さんに、とてつもない違和感を覚えていた…
「……急に左利きになったとか、そういうのではないですよね? 例えば利き目が変わったとか、利き足が変わったとか、それとも左右盲になってしまっただとか、今の黒井さんがどちらを歩いてるかは本人的には自覚しているんですよね?」
「凄い遠回しに言ってきてるけど、私が今歩いてるのは倉敷さんから見て左側だと認識しているから、特に変な病気を疑わなくても大丈夫だよ」
「……なら、いいんですが」
「何となく、ただ左側を歩きたくなっただけだから気にしないでくれ…」
───と、黒井さんはいつものように平然と、表情を殆ど崩さずに『気分転換みたいなものだから』と答えるのだが、やはりどうしても気になってしまう。
だって梅雨明けから数えて約二ヶ月半、朝と帰りを足してだいたい78回、私は黒井さんと共に登下校を繰り返してる訳なのだが、彼女があまり好きでない黒側を私に見せながら歩くなんて初めてだから、本当にどんな心境の変化があったのだろうかと、勘繰ってしまう。
───もしかしたら私が、知らず知らずのうちに何か不手際をしてしまったんじゃないかって…
「……因みに、倉敷さんが何かしたとかでもないからね、これは完全に私の問題。倉敷さんに落ち度は一切ないから気にしないで」
「……ど、読心術師ですか?」
「独身だった過去はあるけど、そうではない」
「漢字が違いますよ…っもう」
「こりゃ失敬」
このように、他愛ない冗談は交わせるのだから、彼女の言う通り私達の関係性にヒビは入っていないと思う。
本当に相手を嫌いになったら口も聞かなくなるし顔も見たくないし、目の前で呼吸されてるだけで嫌悪感が走るらしいから…
私はそこまで人を嫌いになった事はないけど、漫画と小説で得た知識ではそうだった。
「せめて、その切っ掛けだけでも教えてくださいよ」
「そこが一番重要な所なんだから教えられる訳ないだろ? いいから、暫くは黙って黒側を眺めていてくれよ。陰気でジメジメとした何考えてるか分からない方をさ…」
「えぇぇ…誰もそこまでは…」
「ふん、ホラ学校行くよ」
そう言って、足の長い黒井さんは私を数歩置き去りにしてスタスタ進んで行ってしまい、私はそれを小走りで追い掛けるので精一杯だった。
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「……あ、あの、何ですか話って」
「クラスで一番黒井さんを見ている笹原くんなら何か知ってるんじゃないかって思ってさ…ねえ、今日の黒井さん何か変じゃない?」
昼休み、黒井さんがトイレに行った隙を狙って教室から笹原くんを連れ出した私は、一階にある昼間は誰も使用していない理科室へとやって来て、朝の登校時間から続く違和感について尋問を開始していた。
「と、特には…」
「本当に? どこも? 全部いつもと一緒?」
「う、強いて言うなら…今日はいつもより溜め息の回数が5~6回ほど多いなぁっていうのと、授業中倉敷さんの背中をあまり見ようとしないなぁって事ぐらいでしょうか…黒板を見る時はなぜかオーバーアクションで、倉敷さんの背中を避けるように身体を傾けて覗いていましたから…」
「私の背中を避けるように?」
「は、はい…」
身長が10センチも違うから、どう足掻いたって私を避けずとも簡単に黒板は見える筈なのに、いったいどうして黒井さんはそんな手の込んだ事をしたのか…
謎は深まるばかりで、私は連れてきた笹原くんをそっちのけで、かの名探偵の如く顎に手を添えて推理を開始した。
(いったい何が黒井さんの逆鱗に触れたんだ…?)
───コンコンコンコン
すると、ちょうど見計らったように誰かが理科室のドアをノックして語り掛けてきた。
「あのさ、勝手に二人で探偵ゴッコを始めないでくれるかな? まるで君ら二人の言い分だと、私が酷い容疑者みたいじゃないか…特に倉敷さん、朝の説明じゃ納得出来なかったのかい? 疑念を抱かせるような行動をしてる私が悪いとはいえ、些かこの行動にはショックを隠せないんだが…人がトイレに行ってる隙にコソコソとさ…」
「げっ……」
「く、くくく、黒井さん…」
正体は案の定黒井さんだった。
この時間に理科室なんてホルマリン臭い場所に訪れる生徒は滅多にいない。
せっかく食べた美味しい物を台無しにしてしまうような標本や模型が、この一階の校舎端には多く飾られている。
だから例え勘の良い彼女でも、まさかここには辿り着かないと思っていたのだが…
「は、早くないですか? トイレ…まだ五分も経っていませんよ…」
「生憎と、排泄行為に無駄な時間を掛ける趣味は持ち合わせていないんでね…」
「は、ははは、排泄行為って、あわわわ…」
威風堂々と、開けっ放しだった扉の間に立つ黒井さんは、腕を組んで鼻をフンッと鳴らして、青少年が聞くには恥ずかしい言葉を惜しげもなく披露する。
「あのね倉敷さん、朝も言ったと思うんだけど……」
────と、切り出した黒井さんの口から何が語られるのか、それはやっぱり彼女の十八番である哲学の話に違いないのだった…
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「〝偉大な頭脳はアイデアを語り、凡庸な頭脳は出来事を語り、小さな頭脳は人を語る〟君達二人はこの言葉を知っているかい?」
「えっと…」
「し、ししし、知らないです」
さて、普段なら私が待ってましたとばかりに耳を傾ける大好きな筈の哲学の授業が始まった。
───しかし、今日の話はとっても耳が痛くなりそうなので、ついつい身構えながらの聞き入り態勢へとなってしまった。
「アメリカの第32代大統領フランクリン・ルーズベルトの妻であり、国連人権委員会委員長として『世界人権宣言』の起草を率いた政治活動家、人権擁護者のエレノア・ルーズベルトが言うには、人が普段どんな話題に関心を持ち、言葉にしているかによって、その人の器の大きさが分かるらしいのさ」
「器の大きさですか…?」
「そう、大きく3つに分けるなら『アイデア、出来事、他人』この中のどれに関心を持ち他人と語らい合うか、それによってその人の人間性が深く読み取れると彼女は述べている」
「む、むむむ、難しいですね」
一歩だけ前に進んだ黒井さんは、理科室の入口の前で人差し指を上げて堂々と、扉も閉めずに今度は彼女が名探偵になったかのように語り続ける。
「ファーストレディのエレノア・ルーズベルトは思想家であり活動家でもあったが、しかし哲学者ではなかった。だが彼女の残した言葉は『人はどう生きるべきか』という人生哲学の代表的な指針として、広く後世に語り継がれている」
スタ、スタ、スタ、スタ……
一歩ずつ、黒井さんは私達に近付いてくる。
教室の端の長テーブルの間でコソコソ噂話していた私達のもとへゆっくりと近付いてくる。
「聞きたいことがあったら直接私に聞けばいい…影でコソコソ憶測を立てて出した答えは必ず歪んだ正解に辿り着く。君達二人が今日話題に出していたのは、先程の例の中で最も程度の低い『他人』というクソ詰まらない事柄だ」
「す、すみません…」
「ぼ、僕も、相談を持ち掛けられたからとはいえ、申し訳なかったです…」
「素直に謝る純粋さがあるなら、最初から朝の私の言葉を信じて欲しいね。完全に私の問題で、倉敷さんに落ち度は一切ないって私は言ったよね? 暫くしたら普通に戻るとも別のニュアンスでだが伝えた筈だ」
「は、はい。確かに…」
「まったく…本当にさ、私だって完璧超人じゃないんだから、たまには揺らぐ日だってある事も分かって欲しいものだよ…」
────そう言って、黒井さんは大きな溜息を吐いた後、指を下ろして天井を見上げた。
所々ひび割れた天井は、なんだか私達未熟な精神の者たちの心情を表しているようで、ちょっとした行き違いで大きく亀裂が入ってしまうから、崩落しないように気を付けないとなぁと、黒井さんと笹原くんと一緒に見上げながら思ったのだ。
「ごめんなさい、これからは気を付けます」
「僕も、もう少し強い人間になります」
「はあぁー……」
私達二人の答えに黒井さんは更に大きく溜息を吐いて、再び目線を戻してから、主に私を見ながら最後にこんな台詞を言ったのだ…
「……こんな純粋な彼等に謝らせて、何をやってるんだ私は情けない…」
────って、今日初めて正面から見た黒井さんは変わらず綺麗なアシンメトリーカラーで、そんな彼女は帰り道、いつもの私達二人の下校時に、また何食わぬ顔で右側を歩いて、慣れ親しんだ白側を見せてくれたのだった…




