第十四話 Side.黒井白帆④
────ガチャガチャ、バタンッ
「────っただいま」
「お、お帰りなさい…?」
必死に平静を装って玄関の扉を閉めて家の中へ入った私は、情緒が落ち着かないまま大きな声で「ただいま」の挨拶をして、キッチンで洗い物をしていた驚く母さんに目もくれず、大急ぎで部屋に繋がる階段を上がっていった。
───ドクン、ドクン、ドクン、ドクン…
心臓が大きく早鐘を打って、景色は何だかいつもより色鮮やかに見えて、九月に入って気候も落ち着いてきた筈なのに、真夏の青空の下を歩いていたあの頃より顔が熱い。
「……はあ、はあ、はあ、はあ」
ついでに口から漏れる呼吸音もやたら煩いし、冷や汗なんだか脂汗なんだか、それとも純粋な汗なんだか分からない物が、手と背中ばかりに激しく流れていって、握ったドアハンドルも滑らせてしまいそうだ。
ガチャ、バタンッ───
「はあ、はあ……真に受けるなバカたれ、『好きです』なんて社交辞令の挨拶みたいなもんだろうが…何を三倍以上も年下の少女の言葉に振り回されてるんだ…情けないぞ前世オジサンの黒井白帆ー……」
ズリズリズリ…と、閉めた扉に背中を預けて気が抜けたように腰を落としていく。
もはや抗う力を失った私の身体は、地球の重力をいつもの何倍にも強く感じてしまって、どんどんどんどん沈んでいく。
「哲学、なにか哲学の事を考えなくては…ダメだ、ダメだぞ私、この想いは絶対ダメだ……」
床に着いたお尻の下は生温い、エアコンを点けていってないから、母さんがいる下の階の冷気だけで家の中は冷やされていて、扉を閉めて出ていった私の部屋は、もうすぐ秋だと言うのに35度を優に超えている。
「くっそ…暑いんだけど、暑いんだけどなんで今日は、そんなに暑さを感じないんだ…」
暑がりな私は普段なら速攻でエアコンのスイッチを入れるのだが、どうしてか今日は身体の体温が部屋の気温を軽く超えてしまっていて、あまり暑さを感じなかった。
「今の私の顔色もあれぐらいなのだろうか…」
力が入らないのもあってか、制服のまま床に鞄を放り捨てた私は、窓から見える夕陽を眺めながらそんなくだらない事を呟き、暫くの間どちらが濃い茜色か、沈む太陽と勝負をしていたのだった…
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「〝友達とはあなたのすべてを知っていて、それでもあなたを愛してくれる人だ〟」
19世紀に活躍したアメリカの著名な思想家であり、哲学者でもあったラルフ・ワルド・エマーソンは、私が開いた哲学書のある1ページの中で、こちらの気も知らずにそんな事を軽く説明していた。
「愛が混ざってきたら友とは呼べなくなるじゃないか、何を言ってるんだこのTPO知らずのエマーソンは…」
自分という人間がいかに稀有な存在であるか深く考慮しないまま、ようやく気分が落ち着いてきた私は、椅子に座りながら過去の偉人に不満を漏らす。
(……冷静じゃない今の私には、ちょっと意味が分からないぞ?)
気持ちを切り替える為に着替えた今の服装は、黒のショートパンツに無地の白ティーシャツというシンプルな装いである。
エアコンを付けた28度以下の涼しい室内で、卓上本棚から愛読書のうちの一冊を引っ張り出した私は、その中から今の自分に見合った言葉はないか必死に探して彼の言葉に行き着いたのだが、そこには友という文字の中に愛も含まれていて、ますます頭がこんがらがった。
「〝真の友情の本質とは、まさしくこれである〟…か」
続いて、補足として付け加えられたエマーソンの言葉には、隠し事が不要で、自分の弱さや欠点を知られても嫌われない安心感が常にあって、良い部分も不完全な部分も含めて大切に思ってくれて、あまつさえ人生の重荷も分かち合い、ありのままの自分でいられる場所を作ってくれる人こそが、真の友であるとも綴られていた。
「……でもそれは、そんなのは…」
伴侶と呼ぶべき人じゃないか、と私は思った。
恋人を越えた伴侶となるべき人を指してるんじゃないか、と私は思った。
確かに友情の理想論はそこにあるというのは分かる。
隠し事が不要で無条件の受容があって、共に心を支え合える人が同性でいるならそれはそれで素晴らしい。
いや、最近ではLGBTなどもあるから一概には言えないが、でも心の性別が同じ人となら男女の垣根を越えた理想に辿り着けるとは思うのだがー……
「……思うのだが、私は男だぞ? 前世の記憶に引っ張られないようにしているが、私が好むのはたぶんー……」
────と、そこまで言って、皮だけ一緒で心の性別が違う私は一旦冷静さを取り戻し、その続きを言葉にするのを止めた。
『災いは口より出でて身を破る』…霊感なんてないからそこまで霊的なものを信じてはいないが、発した言葉通りの結果や現実を引き起こす力があると噂される『言霊』なんていうものがあるから、自分が不利になるようなネガティブな言動はなるべく避けた方が良いと思ったのだ。
「……なあエマーソン、私はいったいどうしたら良いんだ?」
思い返せば確かにここ最近の私の行動はおかしかった。
有口無行な自分は前世からの長い付き合いで慣れっこであるが、それでもあんな急に人恋しくなって電話するような人間ではなかったし、二人きりで遊びに行って密室であるカラオケボックスで4時間も時を忘れて歌い続けるなんて、本当に有り得なかった事だ。
「ましてや、極め付けは少し乗り気で母さんに浴衣を着付けて貰って、花火を見ながらあんな歯の浮くような台詞を…あんな、あんな、あああああー……年端もいかない少女に対して私はいったい何をやっているんだあっ!?」
────ガシャンッ
机の上で頭を抱えて思わず叫んでしまった私の声が下まで響いたのか、何かを落として割ったような音が聞こえてきて、更に母さんの心配する声まで届いてきた。
「し、白帆ー…? 何かあったの? 大丈夫なのー……??」
「ううぅ…何かあったどころじゃないですよ、母さん…」
……という私の声は、あまりに細過ぎて下の階までは届かなかっただろう。
だって、まさか知らず知らずの内に心が動いていた事に気付いていなかったのだから、私の意思に反して蕾が花を咲かせようとしていたとは思っていなかったから…
カナカナカナカナ……
「〝鳴く蝉よりも鳴かぬ蛍が身を焦がす〟…か、まったくその通りだよ、ふふふ……」
どこかで鳴いているヒグラシの声になぞって、盛んに鳴くセミよりも、声を出さずに光る蛍のほうが胸に詰まる思いが深いという意味の諺を呟いた私は、まさしくその通りだなと自虐を込めて笑ったのだ。




