第十三話
九月、二学期が始まってすぐの事である。
「……く、くくく、くろ、黒井さん」
「いちいち話しかける度に、吃音症の人みたいにならないでくれよ笹原くん」
「ご、ごごご、ごめんなさい」
「本当に苦しんでいる人達に失礼じゃないか? まったく…倉敷さんとは普通に話せるクセにどうして私と話す時だけそんなになるんだか…言っとくけど、私はそこまで緊張するような相手ではないぞ?」
「は、ははは、はい。すす、すみません」
まるで運命にでも導かれたように、奇跡的に私と黒井さんが前後の位置をキープしたまま席替えを終了した後、そんな座る場所さえも変わらない窓際にいる私達の周辺は、とある男子の介入によって少しだけ一学期より騒がしくなった。
彼の名前は笹原孝介くん、あの夏休み前に黒井さんを屋上に呼び出して見事玉砕しなかった珍しいクラスメイトだ。
「ほ、ほら黒井さん、笹原くんは私には興味がないから、だから緊張せずに話せるんだと思いますよ?」
「……興味がない? 君は私の親友に何の魅力も感じないし、関心も湧かないって事なのか?」
「い、いいい、いえ…そういう訳では」
「じゃあ、どういう訳なのか説明して貰おうか? 話すのが苦手なら原稿用紙4枚分の1600文字で、明日の朝、綺麗に揃えて私に提出して貰おうではないか!?」
ここ最近、毎日のように後ろ側で行われる遣り取りに呆れ果てた私は、そんな黒井さんの右隣になってしまったラッキーなんだか不運なんだか分からない笹原くんを助けようとして頼りない船を出したのだが、当たりどころが悪くてあっという間に爆散してしまった。
「……な、なんでそうなるんですかあぁ」
「嫌ならもっとシャキッとしろ! 男だろ君は? 胸を張って堂々と、私の目を逸らさず話し掛けられるようになれ! そうしたら…」
「そ、そそそ、そうしたら…何です?」
「そうしたらどうするんですか??」
「……階級を1つ上げてやってもいい。たまたま席が隣同士になったクラスメイトから、よく喋る友人に格上げして上げても構わない」
───ザワッ
一瞬、クラス内が騒がしくなったような気がしたけど仕方ない。
───だって私だって思ったから…
「……ゆ、友人ですか…が、頑張ります」
「うむ、頑張れ」
『これだけ話しておいて、まだ友達じゃなかったんかい!?』って、そんな私達の気持ちとは裏腹に、腕を組んで偉そうにふんぞり返る黒井さんは心なしか楽しそうに見えて、あれほど静かだった一学期の彼女を知る者達は皆、そんな騒がしくなった窓際の席を固唾を呑んで見守っていた。
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だけどそんな弱々しい彼にも、どうやら黒井さんにとっては1つだけ利点があるらしい。
「まあでも、私のあまり好きでない黒側をオドオドしながらも隠してくれるから、話した事もない男子に座られていた一学期に比べれば、とても過ごしやすくはあるね」
「……確かに教室ではどうしても、右側を皆に見せなきゃいけない格好になってしまいますしね」
「そう、嫌いな黒髪の方を常に衆人環視の中で晒してなきゃいけなかったから、一学期は本当にキツかったよ…あの授業中寝てばっかりで、休み時間はいつもフラフラいなくなってた奴に比べれば、笹原くんは非常に優秀な隣人だと言えるね」
住宅街を歩く帰り道、そう振り返る彼女の話を聞いて、だから一学期の黒井さんは大人しかったのかもしれないとも思った。
自分の嫌いな部分を見られるのは誰だって嫌だし、私だって例えば席が、あり得ないけど先生みたいに皆から見て正面を向いていたら、押し黙って震えて、縮こまって涙を堪える日々を過ごしているに違いないから…
「社会心理学者であり哲学者のエーリヒ・フロムが言うにはね、『たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かである』らしいのさ」
「たくさん与える人の方がですか…」
「そう、何かを持っているって状態は、自分のものを失う恐れや執着を生み出しやすくあるみたいでね。与えることは犠牲ではなく自分の生命力や喜びが溢れ出た結果に過ぎないと、他者に分け与える能動的行為こそが人としての幸せであると、彼は説いているのさ」
「……その、能動的というのは、受動的の反対の言葉ですか?」
「うん、受け身ではなく自ら進んで他のものに働きかける。それが能動的って言葉の意味なんだけど、フロムが言いたかったのはソコではない」
今日も今日とて黒井さんは相変わらず哲学の知識を私に与えてくれる。
必死になって勉強して、前世よりも豊かに生きたいと願う心から生まれた探求心を強要せずに、学んだ知識を優しく教えてくれるのだ。
「心の豊かさとは何かを彼は伝えたかった。惜しみなく愛や優しさを与えられる人こそが、内面が満たされた真に豊かな人であると、彼は皆に教えたかった」
「内面ですか…」
「つまり、私がいくら見栄えが良くても中身が汚いオジサンであるという事と同じことだよ。どんなに綺麗に取り繕っても内面が満たされていないから、私はいつまで経っても心が豊かになれない。だから反対に君や笹原くんの方が純粋に人に優しく出来ていて、内面的には非常に優れた存在であると、私は思うんだ…」
「そんなこと……」
「───っあるよ、あるから言ってるんだ」
珍しく自分を卑下したまま引こうとしない黒井さんは、それから暫く黙ってしまった。
こんなにも寂しい帰り道は久し振りで、普段横からラジオのように流れてくる優しい哲学の知識が一向に聞こえないのは、私が黒井さんと出会ってから初めてだった。
───ピタリッ
「……私、黒井さんのこと好きですよ」
「……」
だから私は足を止めて彼女に伝えた。
珍しく自分を卑下して止まない彼女に、いつも貰っていた勇気を半分だけでも返そうと思って、足を止めて本心を伝えたのだ。
「黒井さんの中身がオジサンなのも含めて全部ぜんぶ好きです。だから、だからそんな風に自分を悲観しないで下さい。席は前ですけど、私だって笹原くんに負けないように黒井さんを守りますから…ずっと味方でいますから……」
「……ずっと?」
「ええ、ずっと…」
……それから顔を背けた黒井さんは、器用に真横を向きながら真っ直ぐ歩いていて、正面にある沈む夕陽に照らされた白い部分は、鮮やかなオレンジへと色を変えていた。
「……あのさ、あんまりそんな台詞吐かない方が良いよ」
「黒井さんにしか言いませんよ」
「────っそれも」
最後の方は少し怒ったように聞こえたけど、彼女の家に着いて別れ際に手を振ったら、玄関の前で小さくコソッと振り返してくれたから、きっと内面は私達よりも断然優しくて、人一倍思いやりに溢れているに違いないのだ…




