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黒狼の航路(ブラックルート) ― 魔王戦記  作者: 一場れい
第二部 魔王戦争編

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93/100

29 一日目の終わりに

 夜。


 連合軍本陣、軍議の幕舎。


 燭台の火が揺れていた。

 机の上には、血で汚れた報告板と、歪んだ駒付き地図。

 外では負傷兵のうめきと、荷車の軋む音が絶えない。

 誰も、すぐには口を開かなかった。


 最初に沈黙を破ったのは、聖騎士団長だった。

「一日目の結果を確認する」

 低い声。

 感情は抑えられている。

 だが、抑え切れてはいない。


「午前、連合軍は押した」

「エルフ弓兵は効いた」

「トレントも外縁を崩した」

「鎌戦車も切れ目を広げた」

「午後、勇者ジャスティスが一面を押し返した」

「それでも黒は折れていない」


 机の上の空気が冷えた。

 各国軍部の一人が、噛みつくように言う。

「二十万だぞ。こちらは三倍いる」

「それでなぜ、橋頭堡一つ潰せぬ」


 別の軍部が報告板を押さえた。

「押した面はある。だが崩し切れない」

「黒は前列が乱れても、すぐ後列が詰まる」

「砦上の射も止まらん。補給も工兵も生きている」


 辺境伯が低く言う。

「壁を抜けば勝ち、ではないということだ」

 視線が地図へ落ちる。

 黒土の橋頭堡。

 奪われた大型砦。

 その前に並ぶ黒の陣。


「あれは砦を取った軍じゃない」

 「砦と橋頭堡をまとめて一つの前線にしている軍だ」

 聖騎士団幹部が、硬い声で言った。

「ジャスティスの一撃でも、全面は返せませんでした」


 沈黙。

 その一言が重かった。


 教会幹部が、燭台の火を見たまま言う。

 「それでも、一面は押し返した」

「勇者を出したからこそ、あの面は持ち直したのだ」


 辺境伯が視線も向けずに返す。

「他面は押されたままだ」


 各国軍部の一人が、我慢しきれず机を叩いた。

 「なら最初から出すべきだった!」

「午前からジャスティスを前へ出していれば、押し込みの幅はもっと広がった!」


 聖騎士団長の目が上がる。

「雑に切れば、黒狼が食う」

「だが切らねば今日の押し返しもなかった!」

 声が重なる。

「惜しみすぎたんだ!」

「切り札は盤面が動いた時だけ、などと温存して──」

「結果はどうだ、橋頭堡も砦も生きている!」


 聖騎士団長の声が、初めて強くなった。

 「勇者は駒ではない!」


 場が止まる。


「前哨戦で見たはずだ」

「ジャスティスが出れば、黒はそこへ寄せる」

「黒狼も、砦上の射も、前列の押し返しも、すべて勇者へ噛ませに来る」

 各国軍部の一人が、苦い顔で吐き捨てた。


「だが、その勇者を切ってなお決まらない」


 その時、枢機卿が顔を上げた。目の奥に、硬い光が差していた。

「ならば、教会の蔵を開く」


 何人かが顔を向ける。

 枢機卿は、ためらわず言い切った。

「聖別武器を全て出す」


 場の空気が変わった。


 聖騎士団幹部が眉をひそめる。

「全て、だと」


「そうだ」

 枢機卿の声は冷たい。

 「槍も、剣も、矢も、錫杖も。祭具として眠らせておく段ではない」


 教会幹部の一人が息を呑む。

「そこまで切るか」

 枢機卿は視線を外さない。

「黒は地上へ出た。砦を奪い、橋頭堡を築いた」

「ならばこちらも、飾りではなく武器として祈りを使う」


 辺境伯が低く言った。

「出し惜しみしている場合ではない、か」


 枢機卿は短く頷く。

「明日は、聖騎士団だけではない」

「前線全体に回せ。せめて黒の貫通を一段殺す」



 ───



 そこへ、エルフ幹部が初めて口を開いた。

 「黒は、兵数差を正面から受けていない」


 全員の視線が向く。


 エルフ幹部は地図の上、黒土の縁へ指を置く。

「こちらは面で押した。だが、あちらは面で潰されていない」

「外縁は崩れても、橋頭堡の骨が残る」

「砦上の射と、横陣と、後列補充が噛んでいる」


「ゆえに、一面を押しても、軍全体は折れない」


 辺境伯が低く言った。

「つまり、今日こちらが押したのは表面だけか」


 エルフ幹部は否定も肯定もしなかった。

 ただ、静かに続ける。

「少なくとも、黒はまだ本当に崩れていません」

 燭台の火が揺れる。

 エルフ幹部は一歩進み出る。

「意見を述べます」


「魔族は地脈を押さえてきています。放置してはまずい」


 枢機卿が眉をひそめる。

「……地脈とは何だ」


 エルフは答えず、杖の石突きを床へ打った。

 乾いた音。


 次の瞬間、淡い光が宙に浮かぶ。

 線。

 枝分かれ。

 脈打つように走る、見えない流れの図。

 部下のエルフが進み出て、連合軍の地図をその光へ重ねた。


 地図の上に、別の地図が現れる。

 街道。

 丘陵。

 川。

 砦。

 そして、その下を走る目に見えぬ筋。


 枢機卿が顔をしかめる。

「……何を見せている」


 エルフは杖先で、南部の一線を示した。

「地脈です」


「地に流れる力の道。水脈に似ていますが、水ではない。魔素と位相が流れる基底の筋です」



 エルフはそれを地脈と呼んだ。

 魔族の言う龍脈と、同じものだった。



 枢機卿の顔がさらに曇る。

「位相とは何だ」


 エルフは表情を変えない。

「空間の性質です」


 エルフは淡々と続けた。

「魔族は、地脈に沿って魔素を解放しています」

「そして、周囲の位相を塗り替えている」

 部下のエルフが、黒土の位置へ別の光を重ねた。

 地図の一角が、じわりと暗く染まる。

「黒土などという簡単なものではありません」

「彼らが変えているのは地面だけではない」

 杖先が、空中をなぞる。

「空間ごとです」


 室内が静まった。


 辺境伯が低く問う。

「……つまり?」


 エルフが答える。

「土地と空間に干渉し、生存に適した場へ変えていく。空気さえも」

「黒土は、その結果の一部に過ぎません」


 聖騎士団長が腕を組んだ。

「狙いは何だ」


 エルフは迷わず言う。

「おそらく移住です」


 その一言で、場の空気が変わった。


「……侵略ではなく?」

 誰かが呟く。


 エルフは首を振らない。

 ただ、事実を置く。


「侵略でもあるでしょう」

「ですが本質は、移住です」


 杖先が、地図の黒土と地脈を繋ぐ。


「彼らは奪うためだけに来たのではない。住むために来ている」


 沈黙。


 その沈黙を破ったのは、枢機卿だった。

「ならば、なおさら止めねばならん。根を下ろされたら終わる」


 教皇が、ようやく口を開く。

「その通りだ」

「魔王軍は、略奪だけで終わる敵ではない。地脈を押さえ、土地を変え、空間ごと住み替える」

「ゆえに、時間を与えてはならん」


 視線が全員を射抜く。


「各国軍は砦線を維持しろ」

「聖騎士団は中央。地脈上の要衝は、死んでも渡すな」


 エルフが最後に一言添えた。


「彼らは、地脈の上に砦を置く意味も理解しています」

「偶然ではありません。地を読んでいます」


 誰も軽口を叩かなかった。

 相手は野蛮な蛮族ではない。

 地を読み、軍を動かし、空間を変えてくる敵だ。

 それを、ようやく全員が同じ形で理解した。


「ではどうする」

「明日も同じことを繰り返すのか」


 誰もすぐには答えなかった。

 やがて、各国軍部の一人が言う。

「勇者を増やすしかあるまい」

 その言葉で、場の空気が変わった。

 重い。

 だが、全員が同じものを思い浮かべていた。


 幕舎の隅。

 沈黙の中にいる、もう一人の勇者。

「……バニングを出すのか」

 その名が落ちた瞬間、幕舎の空気がまた変わった。

 誰も、軽々しく頷かなかった。

 教会幹部が先に口を開く。

「他にあるまい」

「ジャスティス一枚では盤面を返し切れぬ以上、次の勇者を重ねるしかない」


 各国軍部の一人が、露骨に顔をしかめた。

「本当に使えるのか、あれが」


 視線が、幕舎の隅へ向く。

 バニングは座っていた。

 いや、座らされているに近い。

 背と首が引きつるように曲がり、体幹はまっすぐではない。

 それでも顔は穏やかで、目だけが静かにこちらを見ていた。


 辺境伯が低く言う。

「人に見えん」


 教会幹部が即座に返す。

「勇者だ」


「勇者なら何でもよいのか」

 別の軍部が吐き捨てる。

「今日の盤面で必要なのは、札の枚数ではない。制御できる戦力だ」


 枢機卿が、その言葉にかぶせるように言う。

「制御できようができまいが、押し切れぬまま明日を迎えれば終わる」

「黒は立て直す」

「こちらは消耗したまま」

「ならば強引にでも盤を割るしかない」


 聖騎士団長は黙っていた。

 やがて、低い声で言う。

「出すにしても、全面ではない」


 全員の視線が集まる。


「二日目、限定投入だ」

「右翼」

「押し込みの一点だけ」

「ジャスティスとは切り離して使う。


 各国軍部の一人が眉を寄せる。

「なぜ分ける」

「干渉するからだ」


「二枚の勇者を同じ場所へ重ねれば、黒はそこへ兵を寄せる」

「食い破られて終わる」


 辺境伯が頷く。

「なら、バニングは裂く役か」


「そうだ」

 聖騎士団長は地図の右翼を指で叩いた。

「右翼を押し込ませる」

「中央はジャスティスで支える。少なくとも、どちらか一方は抜く」


 教会幹部が言う。

「賭けだな」


 聖騎士団長は否定しなかった。

「賭けだ」


 やがて、静かに口を開く。

「だが一点なら、黒も全域には寄せきれない」

「切り裂く余地はある」


 教会幹部が息を吐いた。

「なら決まりだ」


 だが、各国軍部の一人はなお食い下がる。

「壊れたらどうする」


 それはバニングを見ての言葉だった。

 背と首を不自然に折ったまま、勇者は静かに座っている。

 呼吸はある。

 受け答えもできる。

 だが、正常ではない。


 辺境伯も低く言う。

「暴発すれば、敵味方まとめて終わるぞ」


 教会幹部が険しい顔で返す。

「だから限定投入だ」


 聖騎士団長が、最後にバニングを見た。

「動けるか」


 しばらく間があった。


 バニングはゆっくりと顔を上げる。


 紫黒の瞳が、燭火を鈍く返した。

「……戦えます」


 声は通る。

 言葉も成立している。

 それが、かえって場を冷やした。


 教皇が、ようやく口を開いた。

「二日目」

「勇者バニングを右翼へ限定投入する」


 誰も口を挟まない。


「中央はジャスティス。二枚を重ねるな。一点を裂け」

「裂けぬなら、三日目はない」


 その言葉が、決定になった。

 辺境伯が目を伏せる。

 各国軍部は苦い顔のまま黙る。

 枢機卿は頷いた。

 教会幹部は息を吐く。

 エルフ幹部だけが、なお地図を見ていた。


 聖騎士団長は、駒を一つ右翼へ置いた。

「二日目は、ここだ」

 燭台の火が揺れる。

 誰も勝ち筋を見た顔はしていない。

 だが、引き返す顔でもなかった。



 ───



 伝令が魔王本陣へ駆け込む。


「報告」

「連合側から使者が参りました」


 レイゼンが目を上げる。

「誰の名だ」


「辺境伯名義です」


 レイゼンは小さく頷いた。

「通せ」


 ヴァイレンが鼻を鳴らす。

「早ぇな」


「早くない」

 とレイゼンは淡々と言った。

「遅いくらいだ」




 ⸻


 


 辺境伯の腹心は、黒の野営地を進んだ。


 観察する。


 統制の取れた布陣。

 乱雑さがない。

 ただ兵が多いだけの陣ではない。

 幕。

 どれも上質だ。

 厚い布。

 無駄のない柱。

 結び方ひとつまで整っている。

 旗。

 重厚。

 黒の地に、金糸の縁取り。

 白い四芒星。

(分かる)

 男は内心で息を吐いた。

(高い文化がある)


 有角の魔族たちが立つ。

 長身。

 重い鎧。

 それぞれが、ただそこに立っているだけで威圧になる。

 しかも、乱れていない。

 強いだけではなく、従っている。

 そこが何より恐ろしい。

 天幕へ通される。

 重い。

 空気ではない。

 圧力だ。


 黒や赤の二本角を生やした男たちがいた。

 外にいた者は一本ばかりだった。


 格が違う。


 魔将。


 それぞれが、一軍を率いているのだと見るだけで分かる。

 最奥。


 黒の長髪。

 美しいかんばせ。

 長い黒の二本角。


 王がいた。


 その横には、よく似た顔の武将が立っていた。

 こちらは獣じみた圧を隠していない。

 同じ顔立ち。

 双子か。

 だが、雰囲気はまるで違う。

 腹心は膝をついた。

「辺境伯閣下の使いとして参りました」


 レイゼンは感情を見せない。

「名は」



「ガレス」



「用件を述べよ」


 ガレスは顔を上げた。

「停戦を求めに来たのではありません」



「黒がどこで止まるのか。それを聞きに参りました」


 ヴァイレンが口の端を吊り上げる。

「へぇ」


 レイゼンは視線を動かさない。

「辺境伯は賢いな」


 それが褒め言葉かどうか、ガレスには分からない。

 だが、ここで嘘は要らぬと分かる。

「我らも、分かっています。押しているようで、押し切れてはいない」

「そして貴軍もまた。下がってはいても、崩れてはいない」


 レイゼンは小さく頷いた。

「続けろ」


「辺境伯閣下は知りたいのです。乾燥地帯で止まるのか、大型砦線までか、それとも、西方全土を要するのか」


 天幕の空気が静まる。


 ヴァイレンが椅子にもたれたまま言う。

「全部欲しいって言ったら、どうすんだ」


 ガレスは即答しなかった。

 それが誠実さだと知っていた。

「その場合は、辺境伯閣下も、戦うしかないと判断されるでしょう」


 ヴァイレンが鼻を鳴らす。

「筋は通ってんな」


 レイゼンは淡々と問うた。

「では逆に聞こう」


「は」


「辺境伯は、何を守りたい」

 短い問いだった。

 だが、これ以上ないほど核心だった。


 ガレスは静かに答えた。

「民、街道、耕地、冬を越すための備え」

「名誉もあります。ですが最後は、冬を越せるかどうかです」


 レイゼンの目が、ほんのわずかに細まる。

「よい答えだ」

 視線を横に向ける。


 参謀が一歩進み出た。

「では、こちらも明かしましょう」


 立体図が浮かぶ。


 ガレスは目を見開いた。

 エルフの出した地脈図などとは違う。


 正確な、

 空間把握。


 黒土。

 龍脈。

 砦。

 乾燥地帯。

 補給線。


「我らが最優先とするのは乾燥地帯。移住圏の確保。要衝。そして補給路の安定です」


 ガレスはその図を見た。

 恐ろしいほど整理されている。

 欲望ではない。

 設計だ。


 参謀が続ける。

「西方全土が必要なわけではありません」

「だが、乾燥地帯とその周辺龍脈を押さえる必要はあります」


 ガレスが低く問う。

「大型砦線より先へは」


 レイゼンが答えた。

「辺境伯次第だ」


 沈黙。


「抗戦を続け、街道を焼き、補給を絶ち、我らの移住を妨げるなら」

「止まる理由はない」


「だが。乾燥地帯と要衝を認め、街道の一部使用と非干渉を呑むなら」

「それ以上の押し広げは、今は不要だ」


 ガレスの喉が鳴る。

「今は、ですか」

 

 レイゼンは答えた。

「未来は、未来の話だ」


 冷たい。

 だが、誤魔化しはない。


 ヴァイレンが口を挟む。

「おい、勇者をなんとかしろ」


 ガレスが目を向ける。


「聞いてねえのか?」

「うちの勇者が警告しに行っただろ。何が起きてもしらねぇぞ」

 黒狼の魔将の目は冗談を言っていなかった。


 ガレスは唾を飲み込んだ。


 レイゼンが静かに締める。

「辺境伯に伝えろ」

「我らは、生きる場所を取りに来た。無駄に全てを焼く趣味はない」


 立体図の乾燥地帯に、指が落ちる。

「だが」

「必要なら焼く」


 沈黙。


「どこで止まるかは」

「貴様らが、どこまでを差し出し」

「どこからを守るかで決まる」

 

 ガレスは深く頭を下げた。


「……確かに承りました」


 踵を返しかけたその時、レイゼンが最後に言った。

「賢く選べ」


 ガレスは振り向かないまま答える。

「閣下も、同じことを申されるでしょう」


 天幕を出る。

 夜気が冷たい。

 だが、背中には汗が流れていた。


 停戦はまだ遠い。

 それでも、線は見えた。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

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