20 地上の混乱
晩夏の西方大陸。
黒い紋が空を裂いた、その瞬間から、地上は静かに崩れ始めていた。
最初に止まったのは、人の足だった。
市場で荷を運んでいた男が立ち尽くす。
井戸端で話していた女たちが、空を見上げたまま口を閉ざす。
荷馬車を引いていた馬が鼻を鳴らし、前脚を踏み鳴らして後ずさる。
誰も、まだ何が起きたのか分からない。
ただ、胸の奥に冷たいものが落ちていた。
息がしづらい。
心臓が、見えない手で掴まれているようだった。
理由は分からない。
だが本能だけが叫んでいた。
──逃げろ。
──近づくな。
城壁の上でも異変は同じだった。
見張りの兵が槍を握り直そうとして、手を滑らせる。
別の兵が喉を押さえ、浅い呼吸を繰り返す。
「なんだ、あれは……」
誰かの声は、最後まで形にならなかった。
黒い裂け目の向こうで、空そのものが脈打っている。
揺れる黒幕。
垂れ落ちる闇。
地上の光を吸い込みながら、それはゆっくりと口を開いていく。
街の広場では、年寄りがその場に膝をついた。
母親が子を抱き込み、頭を胸に押しつける。
若い男が走り出そうとして、足をもつれさせて転ぶ。
叫び声は、なぜか大きくならない。
混乱しているのに、誰もが声を潜めていた。
大声を出せば、それに気づかれる。
そんな確信のない確信が、場を支配していた。
やがて、鐘が鳴る。
西方大聖堂。
警戒を告げる重い鐘の音が、街へ、城壁へ、平原へと広がっていく。
それでも、人々の視線は空から離れなかった。
黒い門は、まだ開き続けている。
あれは災厄だ。
誰もがそう思った。
──冒険者ギルド
その報は、すぐに周辺都市へ広がった。
最初に動いたのは軍ではない。
ギルドだった。
冒険者ギルドの掲示板に、新しい紙が張り出される。
《警告》
ざわめきが起こった。
若い冒険者が読み上げる。
「黒土周辺への接近を禁ずる……?」
別の男が鼻で笑う。
「は?」
「魔王軍が出たのにか?」
紙には続きがある。
魔王軍は正規軍である。
刺激するな。
挑発するな。
近づくな。
最後に、聖王国軍司令部の印。
酒場では、すでに話が回っていた。
「つまりだ」
大剣の男が言う。
「魔族が出てきたってことだろ?」
「そうだ」
弓使いが頷く。
「で?」
「近づくな?」
笑いが起きる。
「冗談だろ」
「冒険者にそれ言うか?」
「魔王軍だぞ」
「名を上げるなら今だ」
だが、隅の席で飲んでいた年嵩の男が、低く言った。
「死ぬぞ」
酒場が静かになる。
男は酒を一口飲んだ。
「斥候が戻ってきてる」
「魔族は軍だ」
「遊びじゃない」
それでも、誰も話を聞かない。
⸻
翌日。
平野の端。
警戒していた魔族兵が眉をしかめる。
「……おい」
隣の兵に言う。
「あれ、何だ」
「人族だな」
数人の冒険者が黒土を見ていた。
黒い地面。
薄く立ち上る魔素。
空気は重く、晩夏の熱に妙な粘りが混ざっている。
若い剣士が一歩踏み出した。
「……大したことないじゃないか」
その瞬間。
胸が締まる。
呼吸が浅くなる。
「……っ」
弓使いが顔をしかめた。
「空気が重い」
「戻るか?」
「いや」
剣士は前を見る。
遠く。
黒い天幕。
魔族の軍。
「近くで見てみよう」
丘を越えた、その時だった。
「止まれ」
冒険者たちが振り向く。
黒い兵。
角。
重そうな鎧。
魔族の兵士が立っている。
距離は百メートルほど。
兵は槍を持ったまま、はっきりと言う。
「止まれ」
低い声。
「それ以上来るな」
魔族兵は槍を立てたまま言う。
少し声を強める。
「危ないから近づくな」
剣士が怒鳴る。
「俺が怖いのか!俺は怖くないぞ!」
冒険者がさらに近づく。
「ここから出ていけ!」
「ここは人の土地だ!」
冒険者は止まらない。
「卑怯者!」
「魔王出てこい!」
魔族兵がため息をつく。
「……」
「なんの騒ぎだ」
周囲の魔族兵が出てくる。
お互い顔を見合わせる。
魔族兵は動かない。
ただ、淡々と告げる。
「危ない」
「だから来るな」
弓使いが小声で言う。
「……帰ろう」
だが、剣士は剣を抜いた。
「ここはおれたちの土地だ」
魔族兵が、ほんの少し肩をすくめた。
「言ったぞ」
次の瞬間。
兵の後ろから槍が飛んだ。
轟。
長さ四メートル。
もはや槍と呼んでいいのかわからない。
冒険者達から少し離れたところの地面を打つ。
衝撃で土が沈み、石が跳ねる。
冒険者たちが凍りついた。
距離はまだある。
それでも、衝撃だけで足元が揺れた。
魔族兵が言う。
「危ないと言った」
ただ、事実を言っているだけだった。
冒険者たちは後ずさる。
弓使いが、もう一度小さく言う。
「……帰ろう」
今度は、反対しなかった。
丘を下りながら振り返る。
魔族兵は、もうこちらを見ていない。
野営地の方を向いていた。
まるで、小動物を追い払っただけのようだった。
───
その日の夕方。
街のギルドの掲示板に、もう一枚紙が増えた。
《再警告》
黒土周辺は戦場である。
冒険者の立ち入りを禁ずる。
ざわめきが広がる。
「立ち入り禁止だと?」
「魔王軍が出たのにか?」
「だからこそだろ」
受付台の奥で、ギルド受付嬢が顔をしかめた。
「みなさん、英雄伝説に感化されすぎじゃないですか?」
「物語のやられ役と、規模が違いますよ」
笑う者はいない。
だが、剣を握る手は止まらない。
ギルド幹部の男が、低く言った。
「あっちは追っ払ってくれてるだけで助かってる」
「本気で殺す気なら、もう死体の数が足りん」
短い沈黙。
「戦場の外にいるつもりで近づくな」
「向こうは、最初から戦争をやってる」
それでも。
翌朝には、黒土へ向かう者がいた。
魔王軍が現れた。
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