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黒狼の航路(ブラックルート) ― 魔王戦記  作者: 一場れい
第二部 魔王戦争編

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19 黒土

 黒いオーロラが、まだ空から降りている。


 ゆらり。


 ゆらり。


 黒い光が地面に触れるたび、魔族の兵が現れる。


 黒い軍旗が立つ。


 隊列が整い始める。


 本陣天幕。


 そこに、


 魔狼の首級。黒い毛皮。

 黒金の戦装束。

 天を衝く黒の二本角。

 レイゼン・ヴァーレス。


 その瞬間。


 周囲の魔族が一斉に膝をつく。

 黒の将たちも、同時に頭を下げる。

 ヴァイレンだけが立ったまま、鼻を鳴らした。


「遅ぇぞ」


 レイゼンは答えない。

 ただ、周囲を見回す。


 西方大陸の平原。


 遠くの砦。


 まだ緑の地面。


 一拍。


 レイゼンがゆっくり手を前に伸ばす。


「──ここを魔界とする」


 次の瞬間。


 地面の色が、変わった。


 黒。


 黒土(こくど)


 ゆっくり。


 それは波のように広がり、


 軍勢の足元を覆っていく。


 空気が変わる。


 魔素が濃くなる。


 魔族の兵たちが息を吐く。


「……息が楽だ」

 誰かが呟いた。



 レイゼンはそれ以上何も言わない。


 用意された椅子に腰を下ろす。

 戦装束のまま。


 すぐに側近が動く。


 薬草茶が差し出される。


 魔力回復のためのものだ。


 レイゼンは一口だけ飲む。


 そして視線を上げる。


 参謀が進み出た。

 青みがかった周辺の立体図が浮かび上がる。


「敵砦は三」

「丘陵線に沿って配置」

「周囲の聖王国軍、推定四万」


 参謀の指が地形をなぞる。

「こちらから進軍すれば──」


 戦が、始まろうとしていた。



  碇



 文官が前に出る。


 黒い箱が開かれた。


 中には──

 

 数本の杭。


 黒い金属。

 角ばった古代文字と符が刻まれている。

 淡く脈動していた。


 参謀はそれを受け取ると、魔将ルイへ差し出す。

 ルイが受け取り部下たちを引き連れ、立ち去る。


 ヴァイレンが顎をしゃくる。

「……こいつは?」


 レイゼンが答える。


「碇だ」


「碇?」


 レイゼンは黒土の広がった地面を見る。

「龍脈の引き込みと、転移の術を付与してある」


 ヴァイレンの眉が寄る。

 頭が少し傾く。

「……?」


 レイゼンは淡々と続けた。


 指を一本立てる

「周囲の魔素濃度を維持させる」

「何かあった時」


 二本目の指を立てる。

「この黒土をすべて、転移門へ切り替えられる」


 一拍。


 ヴァイレンの目が丸くなる。

「すげぇ便利じゃん」


 レイゼンはわずかに息を吐く。

「欠点がある」


 周りの魔将たちが何事かと目をむける。


 一拍。


「これで転移門の術を発動するには」


「私が地上に上がらねばならん」


 ヴァイレンが肩をすくめる。

「総大将なんだから城に引きこもるなよ」


 レイゼンは鼻で笑う。

「黒耀城から出ずに戦場を支配する」

「それが理想だ」


 横で聞いていたエルンが、

 わずかに眉をひそめる。

(……黒は、怖いな)

(戦う前からすでに強い)


 とにかく戦を仕掛ける赤と戦い方が全く違う。


 戦場を設計するのが魔王だった。




 少し後ろ。


 セレンは補給板を抱え、後送路の印を確かめていた。


 水。


 包帯。


 薬草。


 食料。


 負傷兵を運ぶ導線。


 伝令が走る空き。


 やることはいくらでもある。


 前には出ていない。


 だが、完全に後ろでもなかった。


 橋頭堡が前へ伸びれば、自分の立ち位置もそのぶんだけ前へ押し出される。


 そういう場所にいた。


 帳面の端を押さえ、印を見直す。


 汗が首筋を伝った。


 晩夏の地上は、思ったより暑い。


 


「……ここで合っていますか」


 セレンは、少し離れたヴァイレンへ声を向けた。

 視線は地図の方へ落ちたまま。


 ヴァイレンは前を見たまま答える。


「ああ」


 短い。


 それだけだった。

 それだけで、十分通る。

 喧嘩したままでも、命令と確認だけは噛み合う。


 そのことが、かえって胸に刺さる。


 セレンは頷き、木札を一枚差し替えた。


「後送路、こっちです!」

「水はまだ開けないでください、先に数を見ます!」


 補給兵が走る。


 女兵が頷く。


 工兵が荷の位置を直す。


 橋頭堡の輪郭が、少しずつ定まっていく。


 金城での合同訓練を思い出す。


 あの時は、何もかも重くて、遠かった。


 だが今は違う。


 やることが目の前にあり、それをこなせば誰かが助かると分かっている。


 手は止まらなかった。



 聖王国。大聖堂、内議の間。


 空気は重かった。


 つい先ほどまで、誰もが空を見上げていた。

 黒い転移門。

 地上を覆う闇。

 地底から伸びた魔王の手。


 その残像が、まだ部屋の中に残っている。


 長机の向こうで、教皇がゆっくりと立ち上がった。


「来たか」


 低い声だった。

 だが、誰一人として聞き漏らさなかった。


「各地方軍を動員せよ」

「砦線を構築しろ」


 短い命令。


 その瞬間、将軍たちが一斉に動いた。


「西部街道を閉鎖!」

「徴発を急げ!」

「兵站庫を開けろ!」

「伝令を飛ばせ!」

「南北の関門を固めろ!」


 怒号が飛ぶ。

 椅子が鳴る。

 扉が開き、伝令が走る。


 それでも、場の底にある冷たさは消えなかった。


 枢機卿の一人が、喉を湿らせてから口を開く。


「……新たな勇者は、出ないのでしょうか」


 別の枢機卿が、すぐには答えなかった。

 顔を伏せ、指先で机を押さえる。

 やがて、苦い声が落ちた。


「見つかっていない」

「北は勇者を使い捨てた」

「……罰やもしれぬ」


 室内が静まる。


 最初の枢機卿がなおも言う。


「勇者は探し続けます」

「東方大陸は……」


 教皇が遮った。


「間に合わぬ」


 一拍。


「何より、西の戦に参加する理由もない」


 その言葉で、空気がさらに重くなった。


 東方は西方教会の外にある。

 同じ人族であろうと、祈りも法も違う。

 黒い門が空を裂いた今ですら、ただちに兵を出すとは限らない。


 沈黙。


 別の枢機卿が、小さく言う。


「……勇者自体は」


 教皇の目が上がる。


「三人いるはずだ」


 場にいた全員の背筋が、わずかに強張った。


 教皇は続ける。


「歴史上、類を見ない」


 勇者同士が争うなど歴史にはない。

 悪を成敗し伝説となる存在、それが勇者。


 だが、此度は違う。


 三人だ。


 白き教会の勇者。

 黒の側にある勇者。

 そして、紫にある勇者。


 三人の勇者が、同じ盤面に立つ。


 教皇は目を閉じた。


(奇跡か)


 一拍。


(破滅か)


 答えは、まだない。


 机の上で、燭台の火が小さく揺れた。


 教皇が、もう一つだけ確認するように言う。


「献上品は止めてあるな」


 枢機卿が顔を上げる。

 その声はわずかに掠れていた。


「はい……」


 それでよかった。

 少なくとも、今は。


 黒い転移門が開いた。

 魔王軍は地上へ出た。

 もはや誤魔化しは利かない。


 教皇は、静かに全員を見渡した。


「祈りだけでは足りぬ」


 短い言葉だった。


「備えよ」


 誰も反論しなかった。


 外では、鐘がまだ鳴っていた。




 西方大陸南部。


 聖王国に属する辺境伯領の監視丘。

 丘の上では、斥候たちが腹這いになり、黒軍の橋頭堡を見下ろしていた。


 草の匂い。


 乾いた土。


 だがその向こうだけ、もう別の土地に見えた。


 若い斥候が、震えた声を漏らす。

「おい……見ろよ」


 年長の兵が、目を細めたまま答える。

「見てる」


 若い斥候の喉が鳴る。

「なんだ、あれは」


 別の斥候が、乾いた声で返す。


「土だろ」


 すぐに叫ぶような返答が飛んだ。


「土が黒くなってるんだよ!」


 声が裏返る。


 だが、誰も笑わなかった。


 


 黒軍の陣から、じわじわと色が変わっていく。

 草が沈む。

 土が黒く染まる。

 地面そのものが、別のものへ変わっていく。


 


 誰かが唾を呑んだ。


 見たことはない。


 だが、知らないものでもなかった。


 古い説話。


 教会の説教。


 冬至祭で聞かされた終末の言葉。


 悪魔が地獄から這い出る時。


 世界は闇に覆われる。


 あれは、そういう話の中だけにあるものだった。


 年長の兵が、青ざめた顔で呟く。


「言い伝えどおりだ……」


 一拍。


「……予言は、本当だったんだ」


 その声には、もう敵情視察の冷静さはなかった。


 ただ、理解してしまった者の怯えだけが残っていた。


 若い斥候が、かすれた声で言う。


「そんなの迷信だろ……」


 別の斥候が、無理に平静を装うように口を開く。


「距離は?」

 年長の兵が、黒軍との間を測る。


「……弓の射程外だ」

 次の瞬間。



 轟。


 

 槍が平原へ突き刺さった。



 炸裂に近い衝撃が走る。


 大地の縁が大きく抉れ、土砂が半円状に吹き上がった。


 馬が嘶き、斥候たちは思わず身を伏せる。


 ひとりを貫くための一撃ではない。


 小型の攻城兵器めいた打撃だった。


 沈黙。


 若い斥候が、伏せたまま呟く。

 

「……弓じゃない」


 別の斥候が、掠れた声で答えた。


「槍……」


 丘の上に、乾いた風だけが吹いた。

 その下で、黒い橋頭堡はなおも広がっていた。

 





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