18 黒き門
晩夏。
西方大陸、中央部。
空が暗い。
晴れていたはずの天が、ゆっくりと黒く濁っていく。
雲ではない。
渦だ。
空の高みに、巨大な紋様が浮かび上がる。
黒い紋。
円環が重なり、幾何の線が空を裂く。
人々が足を止めた。
街の広場。
市場。
城壁。
誰もが空を見上げている。
ざわめきが広がる。
「あれは……?」
聖王国の大聖堂。
石段の上で、枢機卿が息を呑んだ。
口伝や書物でしか知られていない。
「魔界からの……」
声が震える。
「転移門……!」
空の紋様が、ゆっくりと開く。
黒い裂け目。
深い闇。
そして──
落ちてきた。
圧力。
音もなく、世界そのものが押しつけられる。
空気が重い。
いや、重力が違う。
深海の底に沈められたような圧迫。
心臓を、冷たい手で掴まれる。
ぎし、と胸が軋む。
「ぐ……っ」
枢機卿の膝が崩れた。
司祭たちが次々と地に落ちる。
祈祷の声が途切れる。
聖堂の石床に膝がつく。
呼吸が浅い。
空気が冷たい。
その中で──
ただ一人。
教皇だけが、玉座に座ったまま耐えていた。
衣の袖が、わずかに震える。
視線は、空から逸らさない。
闇の裂け目から、声が降りてきた。
低い。
深い。
知らぬ言語。
だが、なぜか意味だけが頭に押し込まれる。
「──聞け」
世界が静まる。
声は続く。
「我が名は」
わずかな間。
「黒の魔王」
空の闇の中に、影が立つ。
巨大な黒い紋が背後で脈動する。
「レイゼン・ヴァーレス」
その瞬間。
空の門が完全に開いた。
黒いオーロラが地に触れる。
黒い軍旗が翻る。
黒い鎧。
黒い槍。
無数の影が現れる。
整然と。
静かに。
圧倒的な数で。
「ここに」
レイゼンの声が地上を覆う。
「宣戦を布告する」
その瞬間、門の闇がさらに深く脈打った。
鐘が鳴り始める。
西方大聖堂。
警戒を告げる重い音が、街へ、城壁へ、平原へと広がっていく。
「魔王が攻めてきた!」
「魔界が地上に出たぞ!」
誰かが叫ぶ。
市場が止まる。
馬が嘶き、後ずさる。
母親が子を抱き込む。
城壁の兵が槍を取り落とす。
それでも、人々の視線は空から離れなかった。
黒い門は、なおも開き続けている。
まだ、何一つ終わっていない。
むしろ──ここから始まるのだと、誰もが理解していた。
───
西方大陸南部の空気は、魔界より軽く、乾いていた。
黒い転移門が平原に口を開いている。
空から垂れる黒い揺らめきの奥から、魔界軍が次々と地上へ降り立っていた。
その先頭。
丈八蛇矛。
天を衝く黒い角。
ヴァイレン・ヴァーレスが、ゆっくりと平原へ踏み出した。
一歩。
靴底が地を踏む。
そこで、眉が寄った。
「……なんだこりゃ」
深く息を吸う。
肺に入る空気が、妙に軽い。
「空気、薄っ」
空では、まだ黒いオーロラが降り続けていた。
ヴァイレンは空を見上げ、鼻で笑う。
「地上か」
蛇矛の穂先を軽く回す。
フンと鼻を鳴らす。
「大したことねぇな」
その背後で、次々と魔王軍が降り立っていた。
周囲で、兵たちの動きがわずかに乱れた。
「……っ」
一人が膝をつく。
別の兵が喉を押さえ、肩で息をした。
顔色が悪い。
足元も覚束ない。
魔界ほど魔素が濃くない。
慣れた循環が、地上ではずれていた。
ヴァイレンが振り返る。
「おい」
倒れかけた兵の兜を、蛇矛の石突で軽く小突く。
「お前ら」
一拍。
「気合い足りてねぇぞ!」
怒鳴り声が平原に響いた。
兵たちが歯を食いしばる。
浅く乱れていた呼吸を整える。
膝をついた兵が、ふらつきながらも立ち上がった。
「……問題ありません!」
別の兵も続く。
「進めます!」
ヴァイレンは鼻を鳴らした。
「なら動け」
その一言で、黒軍は止まらなかった。
「杭、前へ!」
「荷は下ろせ!」
「外周を取れ!」
「弓、丘を押さえろ!」
重装歩兵が左右へ散る。
騎兵が外縁へ走る。
工兵が柵を担いで前へ出る。
補給兵が荷車を開き、資材を並べた。
杭が打ち込まれる。
土が削られ、浅い塁線が引かれる。
弓兵が高所を押さえ、後方では水樽と物資箱が整列していく。
着いたばかりの土地が、見る間に黒へ塗り替わっていった。
野営ではない。
陣地だった。
ヴァイレンはその中央に立ち、蛇矛を肩に担いだまま前を見ている。
まだ一歩も攻めていない。
だが、その場に立つだけで、正面から近づく気を削ぐ男だった。
黒い軍旗が立つ。
隊列が定まる。
橋頭堡の輪郭が、晩夏の平原に刻まれていく。
魔王軍は、その日、地上へ足場を打ち立てた。
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