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黒狼の航路(ブラックルート) ― 魔王戦記  作者: 一場れい
第二部 魔王戦争編

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80/100

18 黒き門

 晩夏。

 西方大陸、中央部。


 空が暗い。


 晴れていたはずの天が、ゆっくりと黒く濁っていく。

 雲ではない。

 渦だ。


 空の高みに、巨大な紋様が浮かび上がる。

 黒い紋。

 円環が重なり、幾何の線が空を裂く。


 人々が足を止めた。


 街の広場。

 市場。

 城壁。


 誰もが空を見上げている。

 ざわめきが広がる。


「あれは……?」


 聖王国の大聖堂。

 石段の上で、枢機卿が息を呑んだ。

 口伝や書物でしか知られていない。


「魔界からの……」


 声が震える。


「転移門……!」


 空の紋様が、ゆっくりと開く。


 黒い裂け目。

 深い闇。


 そして──


 落ちてきた。


 圧力。


 音もなく、世界そのものが押しつけられる。


 空気が重い。

 いや、重力が違う。


 深海の底に沈められたような圧迫。

 心臓を、冷たい手で掴まれる。

 ぎし、と胸が軋む。


「ぐ……っ」


 枢機卿の膝が崩れた。

 司祭たちが次々と地に落ちる。

 祈祷の声が途切れる。

 聖堂の石床に膝がつく。

 呼吸が浅い。

 空気が冷たい。


 その中で──


 ただ一人。

 教皇だけが、玉座に座ったまま耐えていた。


 衣の袖が、わずかに震える。

 視線は、空から逸らさない。


 闇の裂け目から、声が降りてきた。


 低い。

 深い。

 知らぬ言語。

 だが、なぜか意味だけが頭に押し込まれる。


「──聞け」


 世界が静まる。


 声は続く。


「我が名は」


 わずかな間。


「黒の魔王」


 空の闇の中に、影が立つ。

 巨大な黒い紋が背後で脈動する。


「レイゼン・ヴァーレス」


 その瞬間。

 空の門が完全に開いた。


 黒いオーロラが地に触れる。


 黒い軍旗が翻る。

 黒い鎧。

 黒い槍。

 無数の影が現れる。


 整然と。

 静かに。

 圧倒的な数で。


「ここに」


 レイゼンの声が地上を覆う。


「宣戦を布告する」


 その瞬間、門の闇がさらに深く脈打った。


 鐘が鳴り始める。


 西方大聖堂。

 警戒を告げる重い音が、街へ、城壁へ、平原へと広がっていく。


「魔王が攻めてきた!」

「魔界が地上に出たぞ!」


 誰かが叫ぶ。

 市場が止まる。

 馬が嘶き、後ずさる。

 母親が子を抱き込む。

 城壁の兵が槍を取り落とす。


 それでも、人々の視線は空から離れなかった。


 黒い門は、なおも開き続けている。


 まだ、何一つ終わっていない。

 むしろ──ここから始まるのだと、誰もが理解していた。


 ───


 西方大陸南部の空気は、魔界より軽く、乾いていた。


 黒い転移門が平原に口を開いている。


 空から垂れる黒い揺らめきの奥から、魔界軍が次々と地上へ降り立っていた。


 その先頭。


 丈八蛇矛。


 天を衝く黒い角。


 ヴァイレン・ヴァーレスが、ゆっくりと平原へ踏み出した。



 一歩。


 

 靴底が地を踏む。



 そこで、眉が寄った。


「……なんだこりゃ」


 深く息を吸う。


 肺に入る空気が、妙に軽い。


「空気、薄っ」


 空では、まだ黒いオーロラが降り続けていた。


 ヴァイレンは空を見上げ、鼻で笑う。


「地上か」


 蛇矛の穂先を軽く回す。


 フンと鼻を鳴らす。


「大したことねぇな」


 その背後で、次々と魔王軍が降り立っていた。


 周囲で、兵たちの動きがわずかに乱れた。


「……っ」


 一人が膝をつく。


 別の兵が喉を押さえ、肩で息をした。

 顔色が悪い。

 足元も覚束ない。


 魔界ほど魔素が濃くない。

 慣れた循環が、地上ではずれていた。


 ヴァイレンが振り返る。


「おい」


 倒れかけた兵の兜を、蛇矛の石突で軽く小突く。


「お前ら」


 一拍。


「気合い足りてねぇぞ!」


 怒鳴り声が平原に響いた。


 兵たちが歯を食いしばる。

 浅く乱れていた呼吸を整える。

 膝をついた兵が、ふらつきながらも立ち上がった。


「……問題ありません!」


 別の兵も続く。


「進めます!」


 ヴァイレンは鼻を鳴らした。


「なら動け」


 その一言で、黒軍は止まらなかった。


「杭、前へ!」

「荷は下ろせ!」

「外周を取れ!」

「弓、丘を押さえろ!」


 重装歩兵が左右へ散る。

 騎兵が外縁へ走る。

 工兵が柵を担いで前へ出る。

 補給兵が荷車を開き、資材を並べた。


 杭が打ち込まれる。

 土が削られ、浅い塁線が引かれる。

 弓兵が高所を押さえ、後方では水樽と物資箱が整列していく。


 着いたばかりの土地が、見る間に黒へ塗り替わっていった。


 野営ではない。

 陣地だった。


 ヴァイレンはその中央に立ち、蛇矛を肩に担いだまま前を見ている。


 まだ一歩も攻めていない。

 だが、その場に立つだけで、正面から近づく気を削ぐ男だった。


 黒い軍旗が立つ。

 隊列が定まる。

 橋頭堡の輪郭が、晩夏の平原に刻まれていく。


 魔王軍は、その日、地上へ足場を打ち立てた。

最後まで読んでくださりありがとうございます。

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