13 別離の予感
金城。
夜遅くまで灯りが消えない執務室に、ヴァイレンは慣れていた。
卓上には西方大陸の地図と、その横に東方大陸の簡易図が広げられていた。
ヴァイレンは眉をひそめた。
「……まだ仕事かよ」
卓の向こうで、レイゼンは視線を上げない。
「お前に話がある」
短い声だった。
ヴァイレンは舌打ちしながら近づく。
地図を見る。
西方大陸。
東方大陸。
嫌な並びだと思った。
「何だよ」
レイゼンは一本の書板を脇に置いた。
「勇者のことだ」
ヴァイレンの肩が、わずかに強張る。
「……セレンがどうした」
「まだ何もしていない」
淡々。
「だが、しておかねばならん判断がある」
レイゼンの指が、西方大陸の上で止まる。
「秋までには地上に出る」
「知ってる」
「勇者に、人族と戦う覚悟がなければ」
一拍。
「戦場には出せん」
ヴァイレンは黙った。
レイゼンは続ける。
「中途半端なまま前線に立てば、迷いが出る」
「迷いは綻びになる」
「綻びは死に繋がる」
静かな声だった。
だが、刃のように冷たい。
「……鍛えてる」
ヴァイレンが低く言う。
「少しずつ戦場にも慣れてる」
「見てただろ」
「見ている」
レイゼンは否定しない。
「だからこそ言っている」
指先が、今度は東方大陸へ移る。
「覚悟が持てぬなら、東方大陸へ退避させる」
その一言で、作戦室の空気が変わった。
ヴァイレンの目が細くなる。
「……は?」
「身分も立場も切り離し、遠ざけて生かす道はある」
「人族に剣を向けずに済む」
「勇者が制御を失わぬなら、その方が被害は少ない」
あまりにも静かだった。
まるで、それがすでに地図の上で確定している経路であるかのように。
ヴァイレンのこめかみが、ぴくりと跳ねた。
「何言ってやがる」
「聞こえなかったか」
「そうじゃねぇ」
一歩、前に出る。
「逃がすのかよ」
レイゼンはそこで初めて、弟を見た。
「逃がす、ではない」
「退避だ」
「同じだろうが」
「違う」
即答だった。
「心が壊れて失うより、生かして遠ざける方がましだ」
ヴァイレンの喉が鳴る。
「弱ぇなら鍛えりゃいいだろ」
「鍛えてどうにかなるのは技量だ」
「覚悟は別だ」
「……っ」
「人を斬る覚悟」
「人族に剣を向ける覚悟」
「それがないまま勇者の力だけ持てば」
レイゼンの声が、わずかに低くなる。
「敵より危険だ」
沈黙。
ヴァイレンは歯を食いしばった。
反論したい。
だが、言葉がまとまらない。
セレンの顔が脳裏に浮かぶ。
補給帳面を抱えていた顔。
訓練場で息を切らしていた顔。
伝令を通したあと、少しだけ嬉しそうに返事をした顔。
あれが、行く。
黒から。
前線から。
自分の目の届く場所から。
勝手に、その図が頭に浮かんだ。
「……本人に聞いたのか」
「まだだ」
「じゃあ決めつけんな」
語気が荒くなる。
「まだ何も言ってねぇだろうが」
「だから先に、お前に告げている」
レイゼンは感情を挟まない。
「勇者には選ばせる」
「こちらにつくか」
「地上へ戻るか」
一拍。
「お前がどう思おうと、な」
それが一番深く刺さった。
ヴァイレンの目が見開く。
何かを言い返そうとして、言葉が出ない。
どう思う。
そんなもの、考えたくもなかった。
「……勝手に決めんな」
絞り出した声は、さっきより低かった。
「決めるのは勇者だ」
「そういう話をしてんじゃねぇ」
「なら何の話だ」
レイゼンは問う。
真正面から。
ヴァイレンは詰まった。
何の話か。
なぜ腹が立つのか。
なぜ東方大陸という言葉だけで、胸の奥がざらつくのか。
言えない。
言葉にならない。
「……クソ」
吐き捨てるように言う。
「俺は、あいつが弱ぇなら鍛える」
「戦場で使えねぇなら、使えるまでやる」
「それだけだ」
「そうか」
レイゼンの声は変わらない。
「なら、覚悟が持てるようにしろ」
短く区切る。
「出来ぬなら、送る」
それだけだった。
ヴァイレンはしばらく動かなかった。
拳を握り、開く。
喉の奥に何かが引っかかったまま、消えない。
やがて踵を返す。
「……話は終わりか」
「ああ」
「最悪だな」
「知っている」
ヴァイレンは舌打ちした。
乱暴に扉を開ける。
そのまま出ていこうとして、足を止める。
振り返らないまま、低く言った。
「兄貴」
「何だ」
「……勝手に、あいつに余計なこと吹き込むなよ」
一拍。
レイゼンの返事は淡々としていた。
「必要なことは言う」
ヴァイレンの肩が、目に見えて強張る。
「チッ」
それ以上は何も言わず、扉を閉めた。
回廊は静かだった。
遠くで兵の足音がする。
夜の城は冷えている。
ヴァイレンはその場に立ち尽くした。
東方大陸。
その言葉だけが、妙に耳に残る。
行くのか。
残らねぇのか。
鍛えて、やっと少しは前に出られるようになったのに。
魔界の文字も覚えて、補給も伝令も出来るようになってきたのに。
そこまで考えて、思考が止まる。
情を持ちすぎだ。
「……何考えてんだ、俺は」
低く呟く。
苛立ちまぎれに壁を小さく殴る。
石が鈍く鳴った。
「クソ……」
そう吐き捨てても、胸の奥のざらつきは消えなかった。
その夜、ヴァイレンは珍しく眠りが浅かった。
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