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黒狼の航路(ブラックルート) ― 魔王戦記  作者: 一場れい
第二部 魔王戦争編

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12 炎影

 炎影


 旧金領・夏の夜。


 昼の熱が、まだ石壁に残っていた。

 旧都アウレスの宿舎群は、夜になってもぬるく熱を持っている。


 夜の補給天幕は、いつもより静かだった。


 合同訓練を終えた兵たちは、ようやく鎧を緩めていた。

 汗の匂い。

 湯気の立つ飯。

 遠くで聞こえる笑い声。


 だが、風は乾いていた。


 補給天幕で帳面を閉じかけたセレンに、声がかかる。


「勇者殿」


 赤の女兵だった。

 見覚えはある。補給列で何度か顔を合わせていた。


「はい?」


「補給品について確認したいことがある」

「倉庫の在庫が合わない」

「すぐ済む」


 セレンは頷いた。


「わかりました」


 女兵に案内され、宿舎裏の倉庫へ向かう。


 人通りは少ない。


 灯りも弱い。


 扉が半ば開いている。


「この中だ」


 赤の女兵は、そこで一歩も中へ入らなかった。


 セレンは帳面を抱えたまま、一歩、中へ入った。


 その瞬間。


 背後で、扉が閉まった。


 重い音。


 セレンが振り返る。


「……え?」


 外から、閂が落ちる音がした。

 閉じ込められた。

 喉の奥が、ひゅっと細くなった。

 そのとき、鼻を刺す臭いがした。


 油。


 直後、廊下の奥で火が上がる。

 細い火筋が床を走り、たちまち扉口を塞いだ。


「っ……!?」


 熱気が押し寄せる。

 煙が一気に満ちる。


 セレンは咳き込みながら扉へ駆け寄る。

 だが火が近い。熱で手を伸ばせない。

 窓へ向かう。外格子がはまっている。

 剣を抜いて打ちつける。

 甲高い音が返るだけだった。


「誰か……!」


 煙を吸い、喉が焼ける。

 視界がにじむ。


 ⸻


 同じ頃。


 補給天幕の片づけを終えた黒の女兵たちが、ふと顔を上げた。


「……セレンは?」


 一人が周囲を見回す。

 いない。


「さっきまでいたよな」

「赤の兵に呼ばれてたぞ」

「何の用だ?」


 その時。

 風に混じって、焦げた匂いが流れた。


 女兵の顔色が変わる。


「煙……?」


 宿舎の一角。

 黒い煙が細く立ち上っていた。


「まずい!」

「火事だ!」


 女兵たちが駆け出す。


 ⸻


 別棟を歩いていたヴァイレンの胸が、どくんと脈打った。


「……っ」


 嫌な予感ではない。もう、痛みだった。


 絆。


 胸を掴む。


 視線が宿舎へ向く。

 煙。

 

 次の瞬間には地を蹴っていた。


「セレン!」


 ⸻


 宿舎。


 扉の外には油が撒かれていた。

 火は廊下を走り、逃げ道を塞いでいる。


 中では、セレンが煙に咳き込みながら扉へ手を伸ばしていた。

 だが熱で近づけない。

 膝が揺れる。

 吸った煙で視界が暗くなる。


 その時。


 轟。


 外から扉が吹き飛んだ。


 煙の向こうに、ヴァイレンが立っていた。


「何やってんだ!」


 怒鳴り声。

 だが返事を待たない。


 炎の中へ踏み込む。

 セレンの腕を掴む。

 そのまま力任せに抱え上げる。


 燃えた木材が落ちる。

 ヴァイレンは肩で受け、蹴り飛ばす。

 壁際へ踏み込み、火の薄い箇所を見定める。

 木組みを蹴り砕く。


 外へ飛び出した。


 ───


 地面に下ろされたセレンは、激しく咳き込んだ。

 涙で濡れた目の前に、夜気が広がる。


 女兵たちが駆け寄る。


「おい!」

「無事か!?」


 セレンは咳の合間に、かろうじて頷く。


 ヴァイレンは振り向かない。

 鋭い目で周囲を走査していた。


「犯人は」


 低い声。


 だが、もう影はない。

 残っているのは、油の臭いと不自然な火の回り方だけだった。


 事故ではない。


 それだけは明白だった。


 ───


 金城。作戦室。


 煙を吸ったセレンは、室内の隅で治療を受けていた。


 咳はもう収まりつつある。


 だが、喉はまだ赤く、声も掠れていた。


 長卓の周囲には、黒と赤の将が並んでいる。


 空気は重い。


 黒の女兵が報告した。


「セレン様は、赤の兵に呼ばれて宿舎へ向かいました」


「その後、しばらくして火が出ました」


 沈黙。


 バルクスが眉をひそめる。


「赤兵か」


 赤の将が即座に顔を上げた。


「我らではない」


 低い声だった。


 だが、怒気は隠していない。


 ルイが静かに口を開く。


「だが、赤の名で呼び出されています」


「だからこそ不自然だ」


 赤の将が言い返す。


「この時期に、そのような真似をして何になる」


 声が重なる。


 空気が張る。


 ヴァイレンは黙っていた。

 顔には苛立ちが濃い。

 今にも何かを叩きつけそうな気配がある。

 だが、赤は義に厚い。

 いまここで裏切るというのは違う。

 理屈ではなく、勘だった。


 それでも火は出た。


 セレンは狙われた。


 その時。


「違う」


 レイゼンの声が落ちた。


 全員が黙る。


 レイゼンは卓上の地図を見たまま言う。


「これは火ではない」


「疑いだ」


 一拍。


「赤を疑わせるために仕掛けた」


「再編直後の今、赤黒に亀裂が入れば最も得をする者の手だ」


 視線が巡る。


「蒼か」


「あるいは教会」


 作戦室が静まり返る。


 レイゼンは続けた。


「赤には、勇者を害す理由がない」


 指が地図の上で止まる。


「利用するなら、生かしたまま接触する」


「殺す意味が薄い」


 一瞬だけ、弟へ視線が向く。


「絆を結ばせる余地があるなら、なおさらだ」


 ヴァイレンの眉がぴくりと動く。


 レイゼンは淡々と続ける。


「もっとも」


「黒が勇者への接触を許すはずもない」


 ヴァイレン、兵士、女兵たち、工兵、司書。

 勇者を見守る目は多い。


 下手人が同じ女性であったことは完全に不意を突かれた。


 レイゼンは赤の将へ視線を戻す。


「ならば、なおさらこの手口は赤ではない」


 エルンが腕を組んだまま言う。


「外からの手だな」


「ああ」


 レイゼンは頷く。


「火を使ったのも、そのためだ」


「証拠を残さず」


「混乱だけを残す」


 短い沈黙。


 ヴァイレンがようやく口を開いた。


「……蒼か」


 低い声だった。


 怒りは沈んでいない。


 レイゼンは静かに言う。 


「赤に疑いを向けさせる」


 卓上には旧金領の地図。

 宿舎区画。

 補給線。

 赤黒混成の配置。


 そして、その先──地上への進軍路。


 レイゼンは黙って地図を見ていた。


 黒の内で勇者を落とせなかった。

 なら敵は、次を選ぶ。

 もっと混ざる場所。

 もっと疑いが散る場所。

 もっと死を事故にしやすい場所。


「次は、もっと乱れた場所で来る」


 一拍。


「戦場だ」


 その言葉で、作戦室の空気がさらに冷えた。



 ───



 火は消えた。


 だが、胸のざわつきは消えなかった。


(私のせいだ)


 黒だけではない。


 赤の人たちまで巻き込んだ。


 私がいるだけで、火種になる。


 助けられたのに、安心より先に申し訳なさが来た。


 ヴァイレン。


 絆の力は、私を助けるために振るわれた。


 火事の時もジャスティスの時も。


 悪用されているとは思わない。


 絆の力は、ヴァイレンに繋がっている。


 そしてその先で、黒を支えている。


 それは救いだった。


 ヴァイレンは、力を好き勝手に振るう人ではない。


 頭は単純で、乱暴で、語彙も少ない。


 けれど、弱いから絆に縋ったわけでもない。


 もともと強い。


 だからこそ、余計に思う。


(私がいることで)


(みんなに迷惑がかかってる)


 胸が痛んだ。



 ───



 蒼都・密議室。


 石壁に囲まれた小部屋。


 灯火は低い。


 卓上の地図には、旧金領、黒の進軍路、西方大陸への想定ルートが記されていた。


 報告を終えた幹部が、頭を垂れたまま動かない。


 室内は静まり返っていた。


 やがて、蒼の当主が口を開く。


「火を放ち」


「黒に見抜かれたか」


 淡い声だった。


 だが、室内の温度がさらに下がる。


 幹部が額を伏せる。


「はっ」


「申し訳ありません」


 一拍。


「赤に疑いを向けさせようとしましたが」


「レイゼン・ヴァーレスに看破されました」


 別の幹部が低く言う。


「赤に勇者を害す理由が弱すぎたか」


 当主は地図から目を上げない。


「弱い」


 短い断定。


「赤は、いま黒に従ったばかりだ」


「この時期に勇者を焼けば」


「得るものより失うものの方が大きい」


 指先が地図をなぞる。


 旧金領。


 黒と赤の境。


「レイゼンは盤で見る」


「赤黒再編の直後に火を入れれば」


「誰が最も得をするか」


「そこまで読む」


 沈黙。


 幹部が唇を噛んだ。


「ですが」


「勇者は確かに揺さぶれます」


「黒の中に刃を入れるなら、やはりあれが最短かと」


 当主は静かに首を振る。


「黒の内では薄い」


「黒の城内では、勇者は客だ」


「だが地上へ出れば違う」


 視線が西方大陸へ移る。


「勇者は、黒の戦力になる」


 その言葉で、室内の空気が変わる。


「補給か」


「伝令か」


「前線か」


「形はどうあれ、戦場に立つ以上」


「もう“巻き込まれた異端”では済まぬ」


 幹部たちが黙る。


 当主は続けた。


「黒は勇者を抱えたまま地上へ出る」


「ならば地上で殺せ」


 低い声。


「混戦」


「流れ弾」


「火」


「崩れた戦列」


 一拍。


「戦場なら、いくらでも事故に出来る」


 別の幹部が顔を上げる。


「黒の中ではなく」


「人族との会戦の中で、ですか」


「そうだ」


 当主の指が、地上の平原を叩く。


「黒の内で勇者が死ねば、黒は身内を疑う」


「だが地上の戦で死ねば」


「疑いは散る」


「だが損害だけは残る」


 短い沈黙。


「勇者が死ねば、ヴァイレン・ヴァーレスは揺らぐ」


「死なずとも、疑いが残れば足りる」


「勇者を守れなかった」


「黒の中に敵がいるかもしれぬ」


「その綻びは、いずれ戦列に出る」


 幹部の一人が低く問う。


「もし、次も失敗したなら」


 当主は答えなかった。


 ただ、ゆっくりと顔を上げる。


 その視線だけで、全員が息を止める。


「次は地上の戦で」


「確実に勇者を仕留めよ」


 静かな声。


「さもなくば」


 


 一拍。



「蒼は黒に呑まれる」


 誰も言い返さない。


 卓上の地図。


 黒の領域は、すでに赤を含んで広がっている。


 その先にあるのは、蒼だった。


 当主が最後に言う。


「盤はもう狭い」


「次を外せば終わる」


 低く、冷たい声だった。


「勇者を落とせ」


「黒狼の牙を鈍らせろ」


 密議室は、再び沈黙に沈んだ。


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